第5話 死んで詫びろ



 *


 茫々ぼうぼうと、望月の輝く夜空に、黒煙が上っている。

 少年はその様を、唖然として眺めている。


 否。


 眺めてこそいても、その光景が理解できぬ。発火地点は、狛犬城城下の住居が並ぶ家臣屋敷群。その一角から、火の手が上がっている。


 それは、火の前で唖然と立ち尽くしている、少年の家に他ならない。


 鬼城 京之介 景政かげまさ

 狛犬城に仕える御庭番筆頭、鬼城 京一郎きょういちろう 景雪かげゆきの嫡男である。


 つい先月に、見習いから正式な御庭番となり、元服を済ませた。若くして御庭番に上り詰め、まさしく順風満帆であったこの少年の家からは、その人生の花道を遮らんばかりに、鮮烈な焔が舞い上がっている。


 新米の御庭番であるが故、大人の御庭番に負け劣らぬための鍛錬を晩までこなしていた。そんな鬼城少年が疲れ果てて帰ってくれば、我が家の前に人だかりがある。見れば、自分の家が燃えている。


 わずかな時間の間にもかかわらず、その事実だけで、鬼城少年の頭脳が何物をも受け入れなくなっていた。


「……」


 しかし、少年の頭を支配する呆然は刹那にして、彼方へと消える。時に命をも捨てる覚悟を問われる御庭番だけに、修羅場に飛び込むことに躊躇はない。少年は我も忘れ、火に包まれた我が家へと飛び込んだ。


「何してやがる!こぞっこ!」


 人だかりの中から、無謀な少年を呼び戻す声が飛んでくる。

 それでも、京之介は屋敷の戸口を蹴破り、焔に炙られながら両親を探した。


 あの人だかりの中に、両親はいなかった。ともすれば、やはりまだ家の中にいるのであろう。


 これだけ炎が燃え盛っているというのに、両親が出てこないとなれば、その先は、京之介には考えられぬでもない。


 しかし、父が死んでいるなど、京之介は認めない。

 父は若くして御庭番となり、家臣の中でも殊のほか、重臣である御用人としての地位を賜っている。それほどに、秀でた人物なのだ。鬼城少年もまた、父を尊敬していた。


 あれほどに強い人が、炎の中で息絶えているはずがない。そう、強く信じていても、眼に溜まるのは涙ばかり。幼い日から決して弱音を吐かず、好戦的で打たれ強い京之介とて、所詮は人にすぎなかった。


 それまで当然のように過ごしてきた平穏の崩れ去るさまを見て、冷然としていられるものはいない。


 艶めく黒髪が焼けて、醜く爛れようと、焼け落ちた柱に躓こうと、京之介はうろたえもしなかった。ただひたすらに、両親の姿を探す。


 草の根を分けんばかりのその姿は、まさしく、狂乱の様であった。


「父上!母上!」


 あどけなさの残る声で、両親を呼ぶも、返事はない。

 土間を駆け上がって囲炉裏を飛び越え、火の燃え移る襖を蹴り飛ばして客間へと躍り出た。


 そして、絶句する。

 客間のそこかしこに、血の飛沫が飛んでいた。赤々と燃ゆる焔の中にいても鮮烈に見えるほど、弧を描いた血の飛沫は赤黒く、濃い。


 京之介のすぐ正面で、母が血の海の中に倒れているのが見えた。


「母上っ」


 三畳離れた距離からでも、倒れた母の背に、深い刀傷があるのが分かった。それでも、死しているからと割り切れるほど、京之介は冷淡に徹していない。すでに事切れているであろう母に駆け寄ろうと、勢いよく足を踏み出した。


 その刹那、


 ごとり……と、つま先が、何かを蹴転がす。小石や蹴鞠などとは比にならぬほど、重い。


 重量感のあるそれは、不規則に転がりながら、炎の野原を進んでいく。


「うっ」


 転がっていったそれを見て、京之介は二の句を失った。 

 蹴り飛ばしたのは、ほかでもない、父・京一郎の首である。


「ち、ち、うえ」


 ひっ。


 喉の奥から出かけた、あらん限りの悲鳴を、京之介の胸に残ったわずかな理性が噛み殺す。


 父の胴を探してみれば、それは寂しげに、部屋の隅に転がっている。父の気に入っていた白い陣羽織を着ているのだから、首がなくとも、その陣羽織が父の胴であることを証明している。


 京之介は眼球が潰れんばかりに瞼を閉じ、食いしばる。強く瞑った鋭い目尻から、涙が止め処なく溢れ出る。両親の死を眼前に叩きつけられ、理性さえなければ、京之介は今に発狂し、町から逃げ出してしまいそうだった。


 それでも、


(両親を殺した者がいる)


 両親の死にざまが語る “第三者”の存在が、京之介の理性を蘇らせた。


 頬を伝って落ちた涙が、じゅう、と焼け野原に消えたのを境に、京之介は開眼する。半目を開け、どこを見ているとも知れぬ顔で事切れている、父の生首を胴に添える。


 そうしている間にも、劫火は京之介の家を蝕んだ。そこかしこで火花が散り、屋根から火の粉が降ってくる。炭となった屋根の柱が軋み、焼け落ちんばかりの壮絶な音がする。


「あっ」


 鬼城少年は、慌てる。

 できるなら、父と母の骸を連れ出し、然るべき場所に葬りたい。しかし、まだ成熟しきっていない少年に、大人の男女を二人も抱えて連れ出す余力はなかった。


 そのうえ、炎に巻かれて空気は薄く、熱風が喉を焼き焦がす。煙を吸えばたちまち咳き込む。一人で逃れるのでも精いっぱいな状況である。


「……」


 無残な両親の骸を見下ろし、京之介は渋い面差しになる。両親を連れ出そうとすれば、逃げ足も遅くなり、焼け死ぬ。しかし、このような非業の死を遂げた両親を、焼け落ちる家の中に放置しておくのは、残された京之介にとってはあまりに辛い。


 そのとき、


「なにをしてやがるっ」


 火事の家に、少年がひとり飛び込んでいったと、話を聞きつけたのであろう。火消しが二人、怒鳴りながら、鬼城少年を両脇から抱えて確保する。


「待ってくれ、せめて」


 せめて、片方だけでも連れ出したい。

 そう京之介が言うよりも早く、


「死にてえのかっ」


 と、火消しが凄絶な表情で一括する。

 鍛え抜かれた大柄な火消したちに掴まっては、足掻きようがない。鬼城は力なく引きずられるほかはなかった。


 その、刹那。


「あれは」


 引きずられる最中、京之介の視界に、大粒の数珠玉がいくらか転がっているのが見える。焦げ付いた畳の上に散らばる数珠玉には、覚えがある。


 父と同じ御庭番であり、父の友でもあった男が、常に右手に付けていたものに、似ている。


 鬼城少年自身も、その男には鍛錬に付き合ってもらうこともあった。世話になった故、忘れもしない。


 なぜそれが、自分の家に落ちているのか。

 しかも、このような凄惨な現場で。


 京之介の思考が結論に行きつくよりも早く、少年を抱えた火消しが足並みを揃えて、勢いよく屋敷から飛び出す。


 間一髪おいて、火に巻かれた屋根が音を立てて焼け落ちる。火消しがあと一歩でも遅れていれば、京之介の足は、焼けただれて使い物にならなくなっていたことであろう。


「やったぞ!」


 わっ……と、野次馬の歓喜の声が上がった。

 火事の中に飛び込んでいった無謀な少年を、火消しが助け出した決死の救出劇。


 明日には号外で、この救出劇が描かれた瓦版が、町中を飛び交うに違いない。


「よかったなあ、坊主」


 人命救助に成功し、一安心した火消しをよそに、京之介は人だかりの中を凝視しながら、その場にへたり込んだ。


「どう、ほう、どの」


 京之介は震える唇で、呟く。

 人だかりの中に、父の友・道法 源右衛門が立っている。


 傘を被った道法は、野次馬の歓声に同調するように、口元を緩めてほくそ笑んでいた。


「道法どのっ」


 死地に現れた父の友に、京之介は助けを求める。


 父上が、母上が殺された。


 膝を突いて立ち上がり、蹌踉な足取りで、父の盟友にそう訴えようとした。

 道法も、父と並んで御庭番を務めた猛者である。きっと彼なら、味方になってくれるであろう。


 が、京之介はそれ以上、先には踏み出さない。静止して間もなく、足が震えた。

 先ほどまで、京之介の生存を喜んだように、優しい微笑みを湛えていた道法が、歪に口の端を吊り上げて、異形の如くに醜く嗤ったからである。


「え」


 いまだかつて見たことがないまでに、不気味な冷笑だった。その異様さに、京之介は声も出なくなった。開いた口も塞がらず、足は愚か指先までも動かない。


 唯一、目だけは動かすことができた。歪に嗤う道法の顔から視線を下げ、その左手を凝視する。常に肌身離さず、両手に着けているはずの数珠が、左手にはない。代わりに左手の甲から肘にかけて、縦一文字の傷が走り、そこから鮮血が滴っている。


「……死に損なったかよ」


 京之介の視線に気づいた道法が、とっさに左腕を袂に隠し、そう呟いた。

 そして京之介を一度だけ睨みつけると、音もなく踵を返す。


「……」


 京之介は道法が去ってなお、動けない。


 道法の眼から、全身に怖気が走るまでの、強い殺気が放たれていたのだった。蛇に睨まれた蛙も然り。あれほど鍛錬を重ねた京之介は、その金縛りに縛されたから暫時動けなかった。


 まだ新しい刀傷。

 父の胴のそばに落ちていた数珠。

 道法の不穏な笑み。


 かつての父の盟友が、記憶の中で朧になってゆく。霧散したかつての道法の影が、形を変え、怪物の姿に変わる。その怪物に、姿形はない。ただ異様に膨れ上がった不穏が、京之介を飲み込んだようだった。


 両親が、道法に殺された。

 そうわかるや否や、京之介の中から奔流する悲しみが、燃え上がり、憎悪に変わる。


「お、のれ……」


 油に火を放ったが如く、爆発した殺意は、それまで一寸たりと動かすことのできなかった指先に、動力を与える。


 整備されて固くなった土すらも抉るほどに、握りしめた手の力は強い。父譲りの鋭い眼光が、凄絶な殺意を孕んでさらに精鋭なものに成り代わった。


 死に損ないを生かしておいたことを、死して後悔させてやる。


  *


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