第4話 福の神
*
社の本堂の上は、日が当たって眠気を誘う。嵐が去った後は、清々しいばかりの快晴になる。
心地よい秋の風も吹き、狛犬神社を囲う林の木々を揺らした。
鬼城は裏口の梯子から本堂の屋根に上ると、屋根瓦に腰を掛けた青年の背後に立つ。
「あ、鬼城さん」
青年が鬼城に気づき、立ち上がる。
赤い陣羽織を靡かせ、青年は揺れる萌黄の髪を耳に掛けた。首元まで伸ばした髪は、朗らかな陽光を孕んだ。その仄かな輝きは、さながら春の緑を彷彿とさせる。顔もまた若々しく、まだ少年のようにも見えた。
鬼城と同じ御庭番・
「殿が差し入れてくれたものだ、ひとつやる」
鬼城は福間に、笹にくるまれた大福の一つを分けてやる。
「わっ、大きな大福!ありがとう、鬼城さん」
福間は齢十九。
元服を済ませたいい歳の大人であるが、笑うとますます子どものようだ。
鬼城に次いで甘味を好むだけに、福間の喜びようは花が咲いたが如く可憐だった。
大福を頬張りながら、福間は瓦屋根にて腹ばいに寝そべり、その屋根の頂に掴まりながら、境内の様子を窺う。鬼城も続いて、福間の隣に伏せる。そこからは、境内に女が一人、入ってきているのが見えた。
「あの人、ここのところ毎日来てるんだ」
福間は大福の餅を食みながら、囁き声で言う。
鳥居を潜ってやってきた女は、決して幼い娘ではなかったが、姥桜というにはまだ垢抜けぬ女だ。しっとりとした絹の如き髪を結い、見れば顔形も美しい。
「旦那さんが、夜な夜なこっそりと家を出ていくらしくてね。心配なんだって」
「旦那が」
「そうそう。どんな人かは知らないけれど」
福間は空になった手の指先を舐め、瞼を半分伏せる。じっとりと眺め、考察する眼差しである。
女は本堂の前までやってくると、丁寧に手を合わせて、祈った。
「気になったからさ、あの人の家までつけてみたことがあったんだ。これと言って、暴力をふるうとか、博打に入れ込んでるとか、そういうのではなかったみたいだけど」
「なら、大丈夫じゃないか」
「ただやっぱり、夜になると、家から男の影が出ていく。たぶんそれが、あの人の旦那さん」
「遊郭にでも行っている、か」
「どうかな。出て行ったところ以上、尾行はしなかったけど」
福間は子の方角の山に、指先を向けた。
「その旦那さんが、あの山に向かっていくのは見えた」
福間の眼差しは心なしか弱弱しく、女に対する懸念が強く表れている。
狛犬城に対を成してそびえる山は、緑も深く広大だ。こういった山は、夜になれば一層に暗さを増し、人の声すらも、葉擦れと蟲の音に押されて消える。
人を寄せ付けぬ森だけに、そこを通る旅人は少なく、慣れた狩人でもない限りは人が立ち入ることはない。
人の出入りが少なければ、都合の良いこともある。深い森はいつでも、良からぬ連中のねぐらになるのだ。
そのような場所に出入りしている男が、堅気の人物なはずがない。
福間も、それを薄々察している。
「堅気でない夫、か」
鬼城は呟く。
すると、本堂の屋根に隠れた死角で、女の咳き込む声がした。
「よくああやって、咳き込んでる。体が弱いみたい」
福間は不安げに眉を下げ、小さく息をつく。
咳き込む声は長い。やがてそれも酷くなり、聞くに堪えぬ喘鳴に変わった。
先に福間が耐えかね、
「僕、ちょっと行ってくる」
瓦屋根から、本堂の脇に生えていた楠の枝に掴まり、軽やかに地に降り立つ。
鬼城は本堂の横にある蔵の屋根に飛び移ると、福間と女の様子をじっと見守った。
「お姉さん、大丈夫?」
福間の問いに、女は答えられない。
喘鳴のさなかで、
「水を」
とだけ、言葉にした。
「水だね」
福間は急いで手水舎から柄杓で水を汲み取り、女の前まで持ってきてやる。
女は手に薬の包み紙を手にしていたが、何を思っているのか、飲むのを渋った。それでも喘鳴に耐え切れなかったのか、女は包み紙の薬を口にし、受け取った柄杓から水を飲んだ。
女はしばし深い呼吸を繰り返す。その背中をさすりながら、福間は様子を窺っている。
ようやく呼吸が落ち着いたところで、福間は今一度、
「大丈夫?」
と、問うた。
「ええ……」
女はゆっくりと背を伸ばすと、福間の顔を見るや、花開いたように儚げな笑みを浮かべた。
「あなたは、この間の “神様 ”ね」
神様。
それは、福間小三郎の別称である。否、福間がこの神社で出会う者すべてに名乗っている、いわば自称である。
先ほどまで不安をあらわにしていた福間であったが、面を張り替えたように表情を変え、ぱっと甘い笑顔になった。
「そっ、福の神だよ」
無邪気な童さながらに笑って、福間は手を後ろに組む。
「お姉さんが辛そうにしてたから、心配で来ちゃった」
「あら……ごめんなさいね、びっくりさせてしまったかしら」
女は頬に手を当てて、すまなさそうに眉目を垂れる。
こうして薬を飲むのは、何度か目にしている。しかし、女が咳き込む頻度は多くなり、よく見れば薬も少なくなったように見えた。それを、福間は見逃さない。
女は薬を飲むのを、極力耐えている。薬を飲む量を減らせば、病状も悪化するに決まっている。
初めは一度だって咳き込みはしなかったというのに、最近では頻繁に、その症状がみられる。わけあって、薬の量を減らしているとしか、福間には考えられない。
しかし、福間は思っても、口には出さない。人の抱える “訳”とは、たいてい、第三者にどうにかできる問題ではない。薬を減らさねばならぬ理由も、決して良いものではなかろう。
福間は笑顔の裏で思考を巡らせ、最終的に、
「笑顔一徹」
という結論に至った。
嫌な訳を話させれば、女も辛くなる。余計な詮索など、福間の活動域であるこの神社では、野暮なことである。
「……ううん、僕は大丈夫!でも、何か困っていたら、いつでも相談に来てね」
前向きな言葉をかけつつ、やんわりと促す。女が自ら話す気で、その訳を打ち明けることができれば、それが最善なのだった。
「ありがとう。そう言ってもらえると、気が楽になるわ」
ふふ、と、女がほほ笑んだ。
しかし、やはり眼の奥には疲弊が浮かんでいた。笑っただけでも体力が消耗され、命をそぎ落とされているように見える。
笑っているのに、安らかでない。それが、笑顔を重んじる福の神の、心の内に影を落とす。
「……だって、福の神だもの。福の神は、笑っている人のところに来るんだよ」
快活に歯を剥いて笑む福間であるが、その実、心中では平静の水面に白波が立っていた。
*
鬼城は、福間と女のやり取りを、手水舎の上より眺めている。
(あの女)
夫婦関係が良好でありながら、堅気でない百姓の夫。そして病弱な妻。鬼城にはその夫だという男に、心当たりがある。
「……よもや」
鬼城は音もなく立ち上がるや、女の夫が夜な夜な出かけるという、北の山を睥睨する。
昼下がりののどかな空を、鴉が舞うのが見えた。
*
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