第2話 渦中の女(1)



 大雨に打たれ、淼々びょうびょうと吹き荒れる風の中を進みながら、萬國は家路を急いだ。散々に殴られ、蹴られた鈍痛に、打ち付ける雨水が沁みる。


(きぬ……)


萬國は、我が家で待つ妻・衣のことが心配でならぬ。



 元が百姓であるだけに、萬國は武士商人のように大した金を持たない。その上、元いた村が戦火に巻かれ、焼け落ちてしまっている。這う這うの体で、隣国にいた許嫁と共に逃げ延びた。


 博愛主義として知られ、治安もよい戌ノ国いぬのくににて夫婦となり、めでたく落ち着いた生活を手に入れることができた。


 しかし、それも束の間。他国から逃げてきた路銀もわずかであったというのに、新たな住居を持つにあたり、暮らしはますます厳しくなった。


 萬國に傘を買う金などあるはずもない。今こそ、その身に纏っている黒衣は、敗れた部分も縫い繕うことが出来ず、襤褸同然となっている。


 さらに言えば、萬國の妻である衣は、生まれてより病を患っていた。萬國が稼いだ僅かな金も、衣の薬代に消えてしまう。


「薬など飲まずとも、衣は平気でございます」


 そう衣は遠慮し、優しく微笑んではくれる。しかしその実、薬を飲まねば咳き込み始め、時が経つにつれ喘鳴に変わる。そのような苦しげな様を、夫の萬國が見ていて平気であるはずがない。


 この萬國という男、身の丈が七尺弱にもなる巨体で、その上、眉の少ない吊り目、厳つい凶相に違いはない。が、その容貌とは相反して気が穏やかである。


 生まれながらに心優しく、無駄な殺生を嫌い、穏やかな生活を望んだ。

 己が生きてゆくための狩りや作物の収穫は、生活のためやむなき殺しであるが、それを除けば蛙一匹とて踏み殺すことのできぬ男だ。


 しかし、戦から逃げ延びた先では、農耕や商いでは食べては行けぬ。何しろ、以前の村では萬國の顔見知りも多く、何より、相手の素性と人柄をしる絆というものがあった。


 それでも、村の民は散り散りとなり、誰もが『余所者』として別の場所に移り住むことを余儀なくされた。

 萬國もまた、その『余所者』なのだ。


 逃げ延びた先は大きな町の外れの小屋だったが、そこに残された畑で作物を育てても、素性のわからぬ ――しかもやたらに人相の悪い男には誰も近寄らぬ。凶悪な咎人が素性を隠し、どこぞの町に流れ着くのは珍しいことでもない。民衆が萬國を、その流れ者と疑うのも無理はないのだった。


「あいつは、流れ者ではないかね」


 そう囁く者も、少なからずいたに違いない。


 結果的に、野菜も売れず、稼ぎは以前の村にいた時よりも格段に悪くなった。気のいい人物が買ってくれた僅かな金は衣の薬代に消えてゆき、とうとう、その日暮らしをすることさえ難しくなった。


 食うことに関しては、萬國が耐えればそれで済む。

 しかしこれ以上に貧しくなれば、衣が苦しむこととなるのは火を見るより明らかであった。


 こうなれば盗人にでもなるか、堅気でない仕事にでも手を染めるか。

 萬國の脳裏には、そのようなことすら過っていたのである。


 そんなある日のこと、


「む」


 いつものように、野菜の売れ行きが悪く、重い足を引きずって家路を急いでいた萬國は、ふと、夜道の街角に注目する。人気のない辻の先。この次を右折した先は道が細く暗闇であり、目を凝らさねば一切が黒である。


 その闇の奥から、刹那、何かが風を切る。


「うわっ」


 その風切り音に、萬國は思わず、全体重を脇に傾け、身を翻す。萬國の残像を貫き、風を切ったそれが、背後の塀に打ち付けられる。はっと背後を振り返ってみた。


 金の音を立てて転がったそれは、短刀である。


「誰だ」


 短刀が放たれた夜闇の先から、しゃがれた男の声がする。

 瞬間、夜闇のほうを向いた萬國の首が、ひやりと冷めた。喉を圧迫する息苦しさとともに、萬國の巨体が、勢いよく地面に押し付けられる。


「ぐ」


 萬國は状況も分からぬまま、己の首を絞める太腕の主を見る。

 萬國に襲い掛かったそれは、男のような体格である。しかし顔には、鴉を象ったふうな面を被り、男女の区別はつかない。


「俺の牙を避けたかよ。手前、何者だ」


 それは男の声で、挑むようにそう問いかける。

 短刀を投げつけたのは、やはり、この男らしい。

 何者だと言われても、萬國には「百姓」としか答えられぬ。


 いまでこそ少ない例ではあれど、ひと昔前までは、百姓は甲冑胴丸を家に隠し持ち、戦となればすぐに支度をし、戦地へ赴くのが常であった。乱世の百姓というものは、雑兵の一面さえ持っている。


 それでなくとも、萬國は住んでいた村の土地柄、農耕と狩猟を両刀で行っていた経験がある。山中を走り回ればおのずと体力も付き、勝ち目のない獣でも現れれば身を翻して去るだけの身のこなしはある。


 ゆえに、


「何者だ」


 などと、そのような怪しげな者に対する質問をするような問いに、答えられるはずもない。一介の百姓なのだから。


「……答えられんか」


 男は鴉の面の下で舌打ちをすると、腰帯に差した短刀を抜き放つ。

 その光る切っ先が、萬國の首筋を舐めた。


 萬國に頬に、冷たい汗が滴る。目を凝らしてみれば、その鴉の面を濡らした赤黒い水が、異臭を放ちながら、嘴の先まで伝っている。


 その水が何であるかは、言うまでもない。

 男が短刀を握る手も、同じように血で濡れている。


 殺される。


 男が何を言わずとも、萬國には嫌でも察しが付く。


「ま、待ってくれ」


 萬國は声高に乞うた。


「今見たことは、誰にも言わない。番所にも届け出ない。だから、命は取らんでくれ」


「何を言う」


 男はせせら笑う。


「人の口なぞ信用におけるものか」


 男の言うことは、ごもっともだ。

 人の血に濡れて平気でいるような者が、堅気の人物なはずがない。そしてそういったことを生業にしている連中の多くは、目撃者を生きては返さぬ。


 萬國にも想像がつかぬわけはなかった。


 それでも、


(ここで死ねば、衣が)


 萬國の頭にあるのは、十中八九、衣の心配であった。

 病弱な衣が一人になればどうなるか。萬國は想像することさえ恐ろしくなる。


「くっ」


 萬國は耐えかねて、渾身の力で男の両手首を掴み上げた。


「む!」


 気弱だった巨漢の反撃に、男はとっさに両腕を引き、萬國から距離を取る。

 鴉の面の奥から、獣のごとき眼が萬國を睨みつけた。


「手前、今……」


 男から放たれる凄まじい殺気に、萬國は恐怖から猫背になる。間一髪ほどでも気を抜けば、この男の凶刃が、喉を掻っ切るような気さえした。作物を刈るための鎌なら、萬國の腰帯に差さっている。


 それで男に応戦することもできる。しかし、この萬國万蔵という男は、心底から優しくできているのだった。


 鴉の面から垣間見える獰猛な瞳を見つめ、その場に膝を突く。


「頼む。ここで死ねば、妻が一人になってしまう」


 こちらに反撃の意はない。

 そう伝えんばかりに、萬國は腰にある鎌を引き抜くことなく、両手を上げて降伏した。


「……」


 男は暫時、萬國と対峙すると、短刀を手に引っ下げたまま歩み寄った。


「手前を逃がす気はない。その命を握るのは俺だ」


 男は短刀をもう一度、萬國の首筋に這わせると、その場に膝を曲げる。


「ここで殺されるのが嫌なら、俺の配下に加われ。なに、無償でとは言わん。銭も出してやる」


 男はそう、無慈悲な選択を提示した。

 萬國は当然、その答えに即答できない。


 この男の配下に加わるとは、すなわち、この男のしていることと、同じことをせねばならぬ。無益な殺生を嫌う萬國にとって、それはあまりにも酷な選択であった。


 しかし、


「どっちだよ」


 至近距離にその顔を寄せ、男が凄んだ。

 なんと低い、獣のような唸り声か。


 首を縦に振らねば、きっとこの男は、すぐにでもその短刀を、萬國の喉元に突き刺すであろう。

 萬國に、猶予は残されていない。


(銭が出るのか)


 ほとばしる男の殺意に威圧されながらも、萬國の脳裏にはわずかに、銭の話がこびりついている。


 作物も大して売れぬ中で、衣を養っていくのは難しい。それこそ、盗みでも働かねば食ってはいけぬ。


 もし安定した銭が手に入るのなら、いっそひとりで盗人になるより、この男の下で悪行に手を染めても良いのではないか。


 そんな考えが、萬國の中にはある。


「……分かった」


 生きるか死ぬかの瀬戸際で、なおかつ、銭に困っていた萬國には、首を縦に振る選択しか残されていない。


 男は萬國の返事を聞くや、


道法どうほう 源右衛門げんえもんだ」


 と、名乗った。


 道法源右衛門。


 のちの萬国が知ることとなる、暗殺衆『鴉』の頭目の名である。


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