御庭番福事始 -鴉編-
八重洲屋 栞
第1話 積乱
*
秋の深まる日の夜風は、涼やかで心地が良い。しかし、秋の雨というものは、体を濡らせば芯まで冷やし、雨風を凌ぐことが出来ぬ者を凍えさせる。
秋雨の降りしきる山林の奥には、嵐の轟音も届いていた。
轟々と森が雨風に揺れ、ざわめき、その葉擦れの音が闇夜を騒がせる。
秋の夜長とはよく言ったもので、秋になれば日が沈むのが早い。その上に雨雲が天を覆えば、月も隠れ、一寸先も弁ぜぬ闇を生む。
人の住む街並みの中でさえその闇が広がっているのだから、この山林の奥ともなれば、地と崖の境もわからぬほどに暗い。
四方八方を黒幕に覆われたような山林の夜闇の中では、ただ一点、揺らめく松明の灯りだけが光っているのである。
「手間かけさせやがって」
吐き捨てんばかりの悪態をつく男の声が、雨夜の轟音の中で産声をあげる。それに伴って、骨を打ちつける鈍音、続いて木板の割れる枯れた音が、山林の奥に立つ小屋の中で響いた。
小屋とはいえ、棄てられた山小屋だけに破れ屋同然である。薄板一枚を挟んだ先では、山林の木々が大嵐に嬲られているのだった。
しかし、小屋をも壊さんばかりの轟音は、小屋の中で襤褸になった巨漢――もとい、
蹴転がされた巨体を小屋の壁に打ち付けた萬國は、
「うっ」
と、低く呻いた。
「万蔵、手前え、これで何度目だ」
萬國の眼前に聳え立つ男が、鴉を象った異形の面の下から凄む。炯々と光る眼が、面の奥から萬國を睨み下げた。
萬國を睨み据える男を筆頭に、その背後の闇には、幾人もの鴉面の衆がひしめいている。
「見た目だけじゃな」
「顔ばかり恐ろしゅうて」
「竜の頭をつけた蛇よ」
鴉面の衆が囁くのは、萬國への嘲笑だった。
その嘲笑に、萬國もなんの感慨もないことは無い。岩のごとき拳を握りしめ、ぐっと羞恥に耐えるのだった。
「これ以上の失態、もう許されると思うな。—―次にこのような事があれば、手前えの家から火柱が立つことになるぞ」
筆頭と男は鴉面の下で、冷徹に言い放つ。
「家で妻を手篭めにした、その後でだ」
妻とは無論、萬國の妻である。
この男は萬國の妻を手篭めにした後に、家に火を放つというのだ。
鴉面の衆が、甲高く、下卑た笑声を上げた。どっと盛り上がりを見せたその様に、萬國は全身に怖気が走るのを感じる。
「そっ、それだけはっ」
巨体に似合わず、萬國は弱々しく懇願する。
「それだけは、やめてくれ」
平伏するように頼む萬國の懇願も虚しく、筆頭の脇にいた衆の一人が躍り出て、萬國の頭を強く蹴りつけた。
「うぐ」
蹴られたこめかみからは血が伝い、紅い筋を引く。
脇から出てきた鴉面の男は、上から萬國に唾を吐き捨て、筆頭の背後へと戻っていった。
「なれば、今度こそ殺してこい。我ら “
筆頭の男は鴉面の奥にて、その髭と皺を蓄えた顎を引き、萬國に命じる。
妻を人質に取られたも同然の今、もう萬國には、鴉面の衆に逆らうなど、到底できもしない。萬國はおずおずと頷き、表ばかりは筆頭への忠誠を示した。
その忠誠が威圧に慄いてのものであると知っている筆頭は、非道な命令も辞さない。
「
筆頭が言い捨てた刹那、雷土が天に光った。
呵ッ—―と、闇夜を雷光が照らした瞬間、小屋の戸口から入った激光が鴉面の衆を照らす。
萬國の眼に写ったその姿は、あたかも、人ならざる獣のように見えるのだった。
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