魔神殺しよ時渡れ(弐)


「――――はっ!?」


 まるで深い眠りから目覚めたように、澪丸は意識を取り戻す。


 少年の視界に映るのは、煌びやかな装飾品の数々が置かれた広い部屋。敷き詰められた赤い絨毯には、戦闘の跡である、無数の擦り切れたような痕跡が残されていた。


 丸い窓を通して、外で降りしきる豪雨の粒が少年の頬にかかる。冷たい感触に顔をしかめたあと、澪丸は我にかえったように目を開いた。


(なんだ……なにが起こっている!? 俺は、死んだのではなかったか!? なぜ、ここにこうして生きている!?)


 鬼の爪によって全身を引き裂かれ、自分がただの肉片と化す感覚を、澪丸は覚えていた。あまりにも生々しく、痛々しいその記憶が――ただの錯覚とは思えない。


 激しく動揺しながらも、澪丸は思考をつづける。


(あれは……もしや、蛇の女が使うという、「未来視」と呼ばれるものか? いや――違う。俺はたしかに、この身を引き裂かれた。あの感覚が嘘であるはずがない……)



 と、そのとき。澪丸の前方から、美しくも苛烈な響きを帯びた声が生まれる。


「一度ならず二度までも、我をこの状態にさせたこと……光栄に思え」


 外で光った雷が、部屋の中心に立つ、漆黒の影を照らし出す。それは、まさしく――「厭土」と呼ばれる鬼であった。


 彼は獲物に狙いを定める肉食の獣のように、しなやかに体勢を低くしている。周囲の大気をも震わせるその動作に、強い既視感を覚えて、澪丸は目を見開いた。


(あの、言葉。そして、あの動き――まさか!?)


 考える暇はなかった。


 弓矢ですらも軽々と追い越すほどの恐るべき疾さで、漆黒の鬼がこちらへと突進してくる。二度目ともあって、その動きはかろうじて澪丸にもとらえることができた。


(くっ……おおおおおおおおっ!!)


 声にならない声をあげて、少年は手にした瑠璃色の宝刀を構える。そうして、振り下ろされた暗黒の爪に呼吸を合わせるようにして、迎撃の一閃を放った。


 「鬼界天鞘流きかいてんしょうりゅう」、六の型――浅葱返あさぎがえし


 かつて雅々奈と戦ったときに、彼女の金棒を吹き飛ばしたその技は、しかしわずかに爪の軌道を逸らすだけに留まる。


 それでも、いまの澪丸にとってはじゅうぶんだった。行き場をなくした絶爪は少年の頬をかすめたあと、鬼の体ごと背後の壁に激突する。澪丸の背後で轟音がとどろいたあと、強い衝撃波によって少年の体は前方に吹き飛ばされた。


「ぐっ……!?」


 受け身をとり、すかさず背後へと向き直る。そこには、外の景色が見渡せるほどの大穴が空いていた。いまの一撃で、楼閣の壁が破壊されたのだ。そのあまりの威力に戦慄する澪丸の前で、瓦礫を払うようにして漆黒の鬼が再び姿をあらわす。


「ふむ。いまので、殺すつもりだったのだが……」


 彼は体の調子を確かめるように首を鳴らしたあと、不思議そうな表情を浮かべる。あくまでも、苛烈な笑みを崩さないままに。



(――――、)


 そのとき、澪丸はようやく、じしんの胸のあたりから発せられる強い光に気がついた。旅装束を透かすほどに輝く「それ」を、澪丸は懐から取り出す。


 湖のように深く澄んだ、ひとつの勾玉。溢れんばかりの翠の光を放つ「それ」は、まるで溶岩のような熱をもって澪丸になにかを訴えかける。


(まさか……こいつが……!?)


「なにを、余所見よそみしている」


 食い入るようにして勾玉を見つめる澪丸へと、苛烈な声が届いた。


 顔を上げると、そこには身の丈よりも長い槍を携えた「厭土」の姿があった。装飾品と共に壁に飾られていたその槍は、長い年月、使い込まれてきたような趣きがある。おおかた、この鬼が殺した武人の武器を奪ったに違いない。


「近づいて、妙な剣技を使われても面倒だ。長物を使わせてもらうぞ」


 そして、漆黒の鬼は板張りの床を割れんばかりに踏み鳴らし、澪丸へと突進をはじめる。武器を手にした状態でも、その勢いは恐るべきものであった。


 瞬く間に間合いを詰められて、澪丸は勾玉を右の懐に入れてから、きゅうしたように「浅葱返あさぎがえし」を放つ。本来は相手の武器を落とすために使われるその技は、しかし規格外の威力を持つ突きに弾かれた。金物をぶつけるような甲高い音が、楼閣に響く。


「――くっ!?」


 技が失敗したことを悟るや否や、澪丸は槍の直撃を避けるために上半身を捻った。直撃は免れたものの――鋭い槍の先端が、澪丸の左の肩口に刺さる。


 悲鳴をあげている暇はなかった。すぐさま引き抜かれた槍がふたたび澪丸を狙う。少年は肩に走る激痛をこらえながら、素早い動きで後方へと退がった。


「――はっ! 先ほどまでの威勢はどうした!?」


 後退をつづける澪丸と、それを追い打ちしようと槍を突く鬼。どちらが優勢かは、火を見るより明らかであった。


 間一髪で槍の直撃を避けながら、澪丸は刹那の時間で思考する。


(なんとか、隙を探れ……! この鬼の突きは恐ろしいが――それはただ、規格外の腕力と脚力を使っているからに過ぎない。それは達人の振るう槍術とは違う。こいつがこの武器を使い慣れていないとすれば……どこかに、必ず隙があるはずだ!)


 絶望的な状況の中で、活路を探る。


 しかし、澪丸はやがて、破壊されたほうとは逆側の壁へと追い詰められる。背中に固い壁の感触を覚えて、澪丸の額を冷や汗が伝った。


「く……ははっ! 終わりだ、人間……!!」


 悦びの声をあげて、「厭土」が笑う。


 そして、漆黒の鬼は、とどめとばかりに槍を大きく振りかぶって――


(――ここだ!!)


 それを待ち構えていた澪丸が、隙のできた鬼の腹に向かって、予備動作なしの刺突を放つ。


 「鬼界天鞘流きかいてんしょうりゅう」、五の型――藍舞威あいまいおどし


 それは、長い助走距離を使って突破力を限界まで引き上げる「八の型・紺碧八卦星穿こんぺきはっけほしうがち」と対をなす技。威力こそ八の型に大きく劣るものの、無駄な動作を極力まで削ぎ落とし、最短距離で敵を穿つ「藍舞威あいまいおどし」は、あらゆる状況からの奇襲を可能にする型であった。


(武器の扱いに慣れていないからこそ、とどめの一撃を特別なもの・・・・・にしようとして隙が出る――そこを利用させてもらうぞ、「厭天王」!!)


 瑠璃の刃が、吸い込まれるようにして鬼の腹へと向かう。


 鱗のような皮膚が薄いその場所は、数少ないこの鬼の弱点であるはずだった。威力の低い五の型でも、じゅうぶんな傷を与えられるだろう――――



 という澪丸の考えは、正しかった。



 そう。


 考えそのものは、なにも間違っていなかったのだ。


 ――そこに、刺突が当たりさえすれば。


「なっ……!?」


 突きを繰り出す澪丸の視界が、突如として白く染まった。否――なにか白いものに遮られて、視覚が奪われてしまったのだ。あまりに突然の出来事に、澪丸の思考までもが真っ白になる。振り抜く刃に迷いが伝わり、技が止まった。


(な……にが……!?)


 視界を塞ぐようにして広がるものは、床に置かれていた白い木綿の布であった。漆黒の鬼が、槍を振りかぶると同時に、足を使ってそれを舞い上げた――と気づいたときには、もう、手遅れだった。


 どすり、と。


 形容しがたい、不快な響きが生まれる。それは、舞い上がった布の向こう、澪丸の死角から飛んできた槍が、少年の心臓を貫いた音であった。



「人間ごときが、我の未来さきを読めると思うな」


 痛みの中、急速に暗転する視界の向こうから聞こえてきたのは――苛烈なまでの怒りをたたえた、美しい声であった。





「く……ははっ! 終わりだ、人間……!!」


 漆黒の鬼の、勝ち誇るようなその言葉が耳に届いて――澪丸は目を覚ます。


 目の前には、重厚な槍を振りかぶり、全身で「溜め」をつくる「厭土」の姿があった。いまだもやがかかったような曖昧な思考の中、そのがら空きになった腹に向けて、とっさに「鬼界天鞘流」の技を放とうとして――少年はなぜか言い知れぬ悪寒を感じ、動きを止める。


 澪丸の視線は、意識しないうちに、鬼の足元へと吸い寄せられていた。そこには、乱雑に畳まれた、大きな木綿の布が落ちている。


(……?)


 なぜそんなものに目が向いたのか、澪丸はすぐには理解できなかった。ただ、脳の奥、どこか本能じみたところにある記憶が、自分へと警鐘を鳴らしているように思えたのだ。


 そうしている間にも、漆黒の鬼は「溜め」をつくり終えて、槍の先端を澪丸へと振り下ろすような動作に移った。だが――それがあくまで「罠」であり、じっさいにその一撃が放たれることがないという事実を、澪丸はなぜか知っていた。


 真に注目するべきは、その足元。


 鬼の足から伸びた長い爪が木綿の端をとらえて、それを宙へと舞い上げるのを、澪丸は見逃さなかった。


 ……本来であれば、振りかぶられた槍へと意識が向いて、気がつくことがなかったはずの動き。それを感知した瞬間に、澪丸は転げるようにして横へと逃げた。



 刹那、軌道を変えた槍の先端が、木綿を突き破り――深々と、部屋の壁に突き刺さった。射貫かれた布が風にはためき、音をたててなびく。漆黒の鬼が、手ごたえのなさに顔をしかめた。


(間一髪、といったところか……!)


 背筋に走る冷たい感覚に体を震わせながら、澪丸は崩れた体勢を立て直す。


 もしも木綿の布の存在に気がついていなければ、視界を奪われた拍子に、体を貫かれていただろう。「厭土」が槍を大きく振りかぶったのは、上方に澪丸の意識を向けるためだったのだ。この鬼は、澪丸の視線を誘導し、死角から目くらましを行うことによって、少年の動きを封じようとした。


 ――ともすれば、腹に隙が生まれたように見えたのも、この鬼の策略であったのかもしれない。あえて腹を狙わせることによって、澪丸の視野と動きの幅を狭め、そこを狙う算段であったのだ。



(戦術ひとつとっても、やはり、一筋縄ではいかんか……! いや、むしろ、この鬼のほうが上手うわてまである……!)


 魔神の底知れなさに戦慄を覚えながらも――それならばなぜ、自分はその一撃を避けられたのかということを、澪丸は思考する。


 木綿の布へと目が向いたのは、おそらく偶然ではない。ただ、澪丸はなぜか、覚えていた・・・・・のだ。床から舞い上がった布によって視界を奪われ、心臓を貫かれるという「未来」を。


(……また・・だ)


 まだ起こっていないはずの「未来」を知っているという、奇妙な感覚。それは、この戦いが始まってから二度目のことであった。鬼の爪によって体が細切れにされる「未来」を回避できたのも、この不可思議な記憶の齟齬そごによるものであったのだ。



 ふと、そこで、またしても懐の中からまばゆい光が漏れ出ていることに、澪丸は気づく。


 ふたたびそれを取り出し、まじまじと見つめている余裕はなかったが――それでも、澪丸は薄々と感づきはじめていた。この一連の出来事が、じしんの懐の中で脈動するように明滅を繰り返す「常磐たる勾玉」によって引き起こされているということを。



 ――とっておき・・・・・さ。いまの私がつくることのできる、最高傑作だ。きみが、死んでも・・・・魔神を殺したいと願っているならば――これはきっと、きみにとっての希望になる。だが、きみが途中で諦めるような人間であれば、これはきみを地獄に縛りつける鎖となるだろう。



 あの「蛇の女」が言っていた台詞せりふが、澪丸の脳裏によみがえる。


 その真意をようやく悟って、澪丸は薄く笑ってみせた。



(……繰り返せ・・・・、ということか。何度死んだとしても――魔神を殺すまで、俺はこの時の流れからは逃れられない。どれほど傷つけられ、痛みを味わい、あげく殺されたとしても……俺はもう、死ぬことすらかなわないのだな)


 殺され、生き返っては、殺される。


 その、螺旋らせんのように繰り返す運命を悟ってなお、澪丸の心から闘志が奪われることはなかった。むしろ、その藍の瞳には、いっそう燃え上がるような青い輝きがゆらめいている。


(――これほど好都合なことは、ないだろうよ。どれほど殺され、なぶられたとしても……俺は、最後に魔神を殺すことができれば、それでいいのだから)


 そうして、瑠璃の宝刀を握りなおし、澪丸は「敵」を見据えた。


 漆黒の鬼は、壁に深々と突き刺さった槍を引き抜くのは面倒だと考えたのか、その武器から手を離したあと、ふたたび澪丸へと向き直る。「厭土」は大気をも歪ませるようなおぞましい威圧感を放ちながら、その美しい顔に苛烈な笑みを浮かべていた。


「――気にわんな。そろそろ、諦めればよいものを……まるで羽虫のように、しぶとく飛び回る。人間のつわものとは、いさぎよさを重んじているものではなかったのか?」

「俺は俺だ。諦めるのも、食い下がるのも……すべて、俺が決める」


 侮蔑ぶべつの意味を込めたその言葉を斬り捨てるように、澪丸はそう言い放つ。


 そして、それ以上の問答は不要とばかりに、地を蹴って鬼へと斬りかかった。それを迎え撃つようにして、漆黒の爪が虚空にひらめく。



 まるで両者をはやしたてるようにして、幾筋もの雷光が天に走る。

 

 世界の命運を分かつ戦いは、その激しさを増していく一方であった。



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