魔神殺しよ時渡れ(壱)


 黒雲がたちこめる。


 目に見えぬ大気の流れが、叫び声のような不快な音を鳴らしながら、「鬼ヶ島」をのみこむようにして渦巻いていた。


 はるか天に向かって伸びる、朱色の楼閣。その最上階で繰り広げられるのは――



 世の命運をかけた、「最後の」戦いであった。



「……おもしろい。その鬼気迫る純粋な殺意をもって、おまえを我の『敵』と見做みなそう」


 額に一本の角を持った漆黒の鬼が、苛烈な笑みを浮かべて告げる。彼は茜のあごにあてていた手を離し、旅装束の少年へと向き直った。


「……茜」


 藍の瞳を持つ少年は、呆けたように固まる鬼の娘のほうを一度だけ見やると、静かにうなずいてみせる。――それだけで、彼女はすべてを悟ったようであった。紅玉のような丸い瞳を輝かせて、茜は少年へと頷きかえす。そうして、彼のほうに走り寄ろうとする体を抑えるように身じろぎしたあと、これから行われるであろう「戦い」を予見したように一歩下がった。


 言外に通じ合うような両者のやりとりに苛立ちを覚えたように、「厭土」が歯を鳴らす。数々の人間の体を食い破ってきたその鋭い牙がたてる音に、澪丸はしかし身じろぎひとつしなかった。


 漆黒の鬼を睨んだまま、少年はただ、静かに語りはじめる。


「――おまえに故郷を滅ぼされてからの、十年間。心の内で、何回おまえを呪ったかわからない」

「…………」

「けれど、こうしておまえの前に立つと……不思議と、呪詛じゅその言葉は浮かばないものだ」


 編み笠の下から、たかをも撃ち落とすほどの鋭い眼光を放って、少年は告げた。


「いま、俺の心の内にあるのは……未来への希望・・・・・・だ。誰も殺されることなく、なにも奪われることのない、そんな未来が、あと少しで叶う。――そのために」


 そして、瑠璃の刃の切っ先を、黒き鬼へと向ける。


 その構えとは、「鬼界天鞘流きかいてんしょうりゅう」、八の型――紺碧八卦星穿こんぺきはっけほしうがち


 かつて、強固な「法力の壁」をも打ち破ってみせた必殺の刺突……その狙いを、みずからの「敵」へと定めて。



「俺は、すべてを投げうってでも……魔神おまえを殺す、修羅となろう!!」



 地を揺るがすほどの踏み込みのあと、少年の体が弓矢よりもはやく打ち出される。鍛え抜かれた足が赤い絨毯を踏みしめるたびに、その表面に擦り切れたような跡が残った。


 漆黒の鬼は、なおいっそう苛烈に口の端をゆがませたあと、両腕を交差させてその刺突を防ぐ構えをとる。



 ぎいぃん!! という鋭い音が響いて、宝刀「王水」の先端が鬼の皮膚をとらえた。鎧を通り越し、とりでとも形容できるほどの固いうろこを前にして、「紺碧八卦星穿こんぺきはっけほしうがち」の勢いが止まる。刀の切っ先は、わずかに「厭土」の皮膚にくいこむに留まった。


 だが、澪丸はそれを予想していたかのようなたいさばきで身をひるがえすと、次なる一撃を繰り出すべく、地を這うように身をかがめる。


 「鬼界天鞘流きかいてんしょうりゅう」、七の型――白群霹靂びゃくぐんへきれき


 それは、地面から逆さに打ちあがるいかずちのように、下段から鬼のあごを狙う。青い軌跡を描いて三日月のような残像を生んだ刃は、しかし、わずかに顔を下に向け、「王水」の刀身を上下の牙ではさみこんだ敵によって阻まれた。


「は……ははははははは!!」


 漆黒の鬼は、刃を咥えながら声高く笑う。そのまま、彼は武器を固定されて動けなくなった澪丸の脇腹へと、長く伸びた鋭い爪を振るった。


 ざくり、という肉が裂ける音。遅れて、少年の腹からおびただしい量の赤い血がこぼれる。呼吸しようとした澪丸の喉元からも熱い鮮血が噴き出し、少年は思わずせき込んだ。



「お……おおおおおおおおッ!!」


 だが、それでも、魂に宿る確かな闘志に後押しされるようにして、澪丸は叫ぶ。牙に捕らえられていた宝刀を、体を旋回せんかいさせるようにして奪い返すと、一瞬の隙もなくまた鬼へと斬りかかった。


 ぎん! と。


 瑠璃の刃と、漆黒の爪が交差する。


「恐るべき執念だな! まさしく死にもの狂いといえる、苛烈なる猛攻……ここまでの気迫をもって我に歯向かった者は、いままで・・・・魔族にも、ましてや人間にもいなかったぞ!!」


 山嵐ヤマアラシのように逆立てた髪を揺らしながら、「厭土」が感心したような声をあげる。美しく鮮烈な笑みが、刃を受け止める爪の狭間はざまからのぞいた。


 澪丸はその笑みごと「敵」を叩き斬るべく、さらに刀へと体重をのせる。


「たしかに、いままで・・・・にはいなかっただろうよ! だが――俺は、知っている! 数えきれないほどの人間が、俺と同じこころざしと決意をもって、おまえに挑んできたということを!!」

「なに?」

「いま、俺が背負うのは――彼らの無念! そして、平和な世を望んだ、彼らじしんの『願い』だ!」


 ギギギギギギギギギ!! という音と共に、拮抗する刃と爪の間に火花が散る。


 その激烈なる光が、澪丸の顔を照らしていた。


「ある者は、旨いものを食いたいと言っていた! ある者は、破壊された町や村を再興し、命を失った者をとむらいたいと言っていた!」


 あの大路おおじに集まった武者たちの顔が、澪丸の脳裏に浮かぶ。

 長弓を持った青年。法力使いの僧侶。そして――野蛮で快活な笑みを浮かべる、髭面の男。


「そして、ある者はきっと――もう戻らない日常を思って、それでもおまえに立ち向かおうと武器をかかげた! 残された希望を……人間の『未来』を信じて!!」

「わけのわからぬことを……!」

「そうだ、おまえにはわからないだろうよ! そして、わかる必要もない! ただ、これだけは覚えておけ!」


 そして――ついに、澪丸の刃が、鬼の爪を弾き飛ばした。


 驚愕の表情を浮かべる「厭土」に、隙が生まれる。それを逃さず、澪丸は体をむちのようにしならせて、鬼の心臓部へと宝刀を振り下ろした。


「――いま、俺が振るう刃が!! 何万という人間の『未来』を背負っているということを!!」


 全身と全霊をもった、一撃。


 まばたきする間もなく、宝刀の先が鬼の胸部をとらえようとして――――




 そこで、澪丸の動きが止まった。


 ――否。


 澪丸の動きが、止められた・・・・・




「……まさか、忘れていたわけではあるまいな?」


 怒りをはらんだ、美しい声。その主は、瑠璃の宝刀、その刃を、右の手で握るように受け止め……雷を閉じ込めたかのように苛烈に光るまなこを、澪丸へと向けていた。


 その額には、天に向かって屹立する、闇よりも黒い二本の角・・・・


「――おまえと我の間には、谷よりも深い力の差があるということを!!」



 ぐんっ!! と勢いをつけて、宝刀ごと澪丸の体が横合いに投げ飛ばされる。少年の体はそのまま壁にぶつかり、そこに立てかけられたきらびやかな装飾品の数々が揺れた。


 打ちつけられた衝撃で、澪丸の肺からすべての空気が外へ流れる。呼吸をしようにも、先ほど受けた傷によって、いまだに喉の奥に血がこびりついていた。


「――はあっ、はあ、っ……!」


 それでもなお必死で息を整えようとしながら、澪丸は漆黒の鬼を見据える。


 二本目の、角。


 伊波村においても、澪丸はあの鬼が「奥の手」であるそれを使った瞬間に敗れた。あのときは、この鬼が動いたことすらも認識できなかったのだ。一本しか角がなかったときに比べ、体感でその「はやさ」や「力」は数倍にも跳ね上がっている。


 「厭土」がこの状態になるためには、なんらかの「溜め」が必要であると澪丸は考えていた。今度こそ、その隙を狙って、この鬼の首を落とすつもりでいたのだ。だが――今回、漆黒の鬼は、澪丸が宝刀を振り下ろすわずかな時間で「二本目」を発現させた。


「……おまえを破ったあと、あの村で数人の人間を喰らったことにより――我はより短い時間で、『二本目』を発現させることができるようになったらしい」


 漆黒の鬼は立ち上がり、ゆらりと澪丸のほうへ向き直った。その体からは墨のようにどす黒い・・・・蒸気のようなものが立ち込め、周囲の景色をゆがませる。その様相は、まさしく悪鬼と呼べる、恐ろしいものであった。


(成長、している……! それも、恐ろしいはやさで!)


 全身を襲う悪寒に耐えるようにして歯を食いしばりながら、澪丸は考える。


 「厭天王」の最も恐るべき点は、その「成長」のいちじるしさにある。魔神はただ一体の鬼として生まれ落ちてから、数々の人間を喰らうことによって、その力を強大なものにしてきたのだ。だから、このわずかな時間にさえ「成長」していてもおかしくはない。それは澪丸も理解しているはずだった。


 だが、現にこうしてそのさまを見せつけられたとあっては――さすがに、驚かざるを得ないだろう。


(誤算、と呼ぶには、あまりにも迂闊うかつ。くっ……どうすれば――)


 焦り、全身から冷たい汗を流す澪丸の前で、漆黒の鬼が苛烈に笑う。口の端から伸びる牙が、獰猛に光った。



「一度ならず二度までも、我をこの状態にさせたこと……光栄に思え」


 やがて彼は、獲物に狙いを定める肉食の獣のように、しなやかに体勢を低くする。それだけで、周囲の大気がびりり・・・と震え――巨大な楼閣、それそのものが傾きそうなほどに景色がゆがんだ。


 雷鳴が轟く。稲光いなびかりが、相対する両者を激しく照らす。世界が荒れ狂い、ごうごうと唸りをあげていた。



 ――避けられない・・・・・・


 明滅する視界の中で、澪丸はそのとき確かに、じしんの「死」を予感した。それは心臓の底に泥がこびりつくような、不快な感覚であった。


(……俺は)


 引き延ばされたような感覚の中で、ふいに、澪丸の脳裏に数々の情景が浮かぶ。

 あまりにも突然に立ち現れたそれらの幻影は、少年がこの世に生まれ落ちてからの記憶であった。


 なんの変哲もない村に生まれたこと。

 穏やかな両親に育てられたこと。

 魔神の軍勢によって、故郷が滅ぼされたこと。

 復讐を誓って、天下最強の剣術流派の門を叩いたこと。

 剣術の修行で死にそうになったこと。

 師匠を亡くし、それでもなお戦いを続ける中で、最後に「都」へと辿り着いたこと。

 多くの武者たちが集う中で、ただひとり静かに敵を待っていたこと。

 炎上する都で、魔神に敗北したこと。


「――――、」


 驚くほど鮮やかに、かつての光景がよみがえる。


 やがて少年は、その記憶を噛みしめるように静かに目を閉じたあと、思った。


(俺は……ここで)





(死ぬのか)




 瞬間、あまりにもはやく、残像すらも許さないほどの勢いで、黒いかたまりのようなものが澪丸へと飛び掛かった。


 それは刹那のためらいもなく、少年の四肢を切り裂き、その体を細切こまぎれにする。――振りぬかれた爪は衝撃の刃をも生み出して、もはや肉片となった少年の後ろ、部屋の壁に巨大な爪痕を残した。



 かろうじて両断されることを免れた宝刀が、宙を舞う。


 それが床へと落下して、乾いた音をたてて転がったあとには――ただ、両者の戦いを見守っていた、鬼の娘の悲痛なる叫びが残るのみであった。


 


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