魔神殺しよ時渡れ(壱)
黒雲がたちこめる。
目に見えぬ大気の流れが、叫び声のような不快な音を鳴らしながら、「鬼ヶ島」をのみこむようにして渦巻いていた。
はるか天に向かって伸びる、朱色の楼閣。その最上階で繰り広げられるのは――
世の命運をかけた、「最後の」戦いであった。
*
「……おもしろい。その鬼気迫る純粋な殺意をもって、おまえを我の『敵』と
額に一本の角を持った漆黒の鬼が、苛烈な笑みを浮かべて告げる。彼は茜の
「……茜」
藍の瞳を持つ少年は、呆けたように固まる鬼の娘のほうを一度だけ見やると、静かに
言外に通じ合うような両者のやりとりに苛立ちを覚えたように、「厭土」が歯を鳴らす。数々の人間の体を食い破ってきたその鋭い牙がたてる音に、澪丸はしかし身じろぎひとつしなかった。
漆黒の鬼を睨んだまま、少年はただ、静かに語りはじめる。
「――おまえに故郷を滅ぼされてからの、十年間。心の内で、何回おまえを呪ったかわからない」
「…………」
「けれど、こうしておまえの前に立つと……不思議と、
編み笠の下から、
「いま、俺の心の内にあるのは……
そして、瑠璃の刃の切っ先を、黒き鬼へと向ける。
その構えとは、「
かつて、強固な「法力の壁」をも打ち破ってみせた必殺の刺突……その狙いを、みずからの「敵」へと定めて。
「俺は、すべてを投げうってでも……
地を揺るがすほどの踏み込みのあと、少年の体が弓矢よりも
漆黒の鬼は、なおいっそう苛烈に口の端をゆがませたあと、両腕を交差させてその刺突を防ぐ構えをとる。
ぎいぃん!! という鋭い音が響いて、宝刀「王水」の先端が鬼の皮膚をとらえた。鎧を通り越し、
だが、澪丸はそれを予想していたかのような
「
それは、地面から逆さに打ちあがる
「は……ははははははは!!」
漆黒の鬼は、刃を咥えながら声高く笑う。そのまま、彼は武器を固定されて動けなくなった澪丸の脇腹へと、長く伸びた鋭い爪を振るった。
ざくり、という肉が裂ける音。遅れて、少年の腹からおびただしい量の赤い血がこぼれる。呼吸しようとした澪丸の喉元からも熱い鮮血が噴き出し、少年は思わずせき込んだ。
「お……おおおおおおおおッ!!」
だが、それでも、魂に宿る確かな闘志に後押しされるようにして、澪丸は叫ぶ。牙に捕らえられていた宝刀を、体を
ぎん! と。
瑠璃の刃と、漆黒の爪が交差する。
「恐るべき執念だな! まさしく死にもの狂いといえる、苛烈なる猛攻……ここまでの気迫をもって我に歯向かった者は、
澪丸はその笑みごと「敵」を叩き斬るべく、さらに刀へと体重をのせる。
「たしかに、
「なに?」
「いま、俺が背負うのは――彼らの無念! そして、平和な世を望んだ、彼らじしんの『願い』だ!」
ギギギギギギギギギ!! という音と共に、拮抗する刃と爪の間に火花が散る。
その激烈なる光が、澪丸の顔を照らしていた。
「ある者は、旨いものを食いたいと言っていた! ある者は、破壊された町や村を再興し、命を失った者を
あの
長弓を持った青年。法力使いの僧侶。そして――野蛮で快活な笑みを浮かべる、髭面の男。
「そして、ある者はきっと――もう戻らない日常を思って、それでもおまえに立ち向かおうと武器をかかげた! 残された希望を……人間の『未来』を信じて!!」
「わけのわからぬことを……!」
「そうだ、おまえにはわからないだろうよ! そして、わかる必要もない! ただ、これだけは覚えておけ!」
そして――ついに、澪丸の刃が、鬼の爪を弾き飛ばした。
驚愕の表情を浮かべる「厭土」に、隙が生まれる。それを逃さず、澪丸は体を
「――いま、俺が振るう刃が!! 何万という人間の『未来』を背負っているということを!!」
全身と全霊をもった、一撃。
そこで、澪丸の動きが止まった。
――否。
澪丸の動きが、
「……まさか、忘れていたわけではあるまいな?」
怒りをはらんだ、美しい声。その主は、瑠璃の宝刀、その刃を、右の手で握るように受け止め……雷を閉じ込めたかのように苛烈に光る
その額には、天に向かって屹立する、闇よりも黒い
「――おまえと我の間には、谷よりも深い力の差があるということを!!」
ぐんっ!! と勢いをつけて、宝刀ごと澪丸の体が横合いに投げ飛ばされる。少年の体はそのまま壁にぶつかり、そこに立てかけられた
打ちつけられた衝撃で、澪丸の肺からすべての空気が外へ流れる。呼吸をしようにも、先ほど受けた傷によって、いまだに喉の奥に血がこびりついていた。
「――はあっ、はあ、っ……!」
それでもなお必死で息を整えようとしながら、澪丸は漆黒の鬼を見据える。
二本目の、角。
伊波村においても、澪丸はあの鬼が「奥の手」であるそれを使った瞬間に敗れた。あのときは、この鬼が動いたことすらも認識できなかったのだ。一本しか角がなかったときに比べ、体感でその「
「厭土」がこの状態になるためには、なんらかの「溜め」が必要であると澪丸は考えていた。今度こそ、その隙を狙って、この鬼の首を落とすつもりでいたのだ。だが――今回、漆黒の鬼は、澪丸が宝刀を振り下ろすわずかな時間で「二本目」を発現させた。
「……おまえを破ったあと、あの村で数人の人間を喰らったことにより――我はより短い時間で、『二本目』を発現させることができるようになったらしい」
漆黒の鬼は立ち上がり、ゆらりと澪丸のほうへ向き直った。その体からは墨のように
(成長、している……! それも、恐ろしいはやさで!)
全身を襲う悪寒に耐えるようにして歯を食いしばりながら、澪丸は考える。
「厭天王」の最も恐るべき点は、その「成長」の
だが、現にこうしてそのさまを見せつけられたとあっては――さすがに、驚かざるを得ないだろう。
(誤算、と呼ぶには、あまりにも
焦り、全身から冷たい汗を流す澪丸の前で、漆黒の鬼が苛烈に笑う。口の端から伸びる牙が、獰猛に光った。
「一度ならず二度までも、我をこの状態にさせたこと……光栄に思え」
やがて彼は、獲物に狙いを定める肉食の獣のように、しなやかに体勢を低くする。それだけで、周囲の大気が
雷鳴が轟く。
――
明滅する視界の中で、澪丸はそのとき確かに、じしんの「死」を予感した。それは心臓の底に泥がこびりつくような、不快な感覚であった。
(……俺は)
引き延ばされたような感覚の中で、ふいに、澪丸の脳裏に数々の情景が浮かぶ。
あまりにも突然に立ち現れたそれらの幻影は、少年がこの世に生まれ落ちてからの記憶であった。
なんの変哲もない村に生まれたこと。
穏やかな両親に育てられたこと。
魔神の軍勢によって、故郷が滅ぼされたこと。
復讐を誓って、天下最強の剣術流派の門を叩いたこと。
剣術の修行で死にそうになったこと。
師匠を亡くし、それでもなお戦いを続ける中で、最後に「都」へと辿り着いたこと。
多くの武者たちが集う中で、ただひとり静かに敵を待っていたこと。
炎上する都で、魔神に敗北したこと。
「――――、」
驚くほど鮮やかに、かつての光景がよみがえる。
やがて少年は、その記憶を噛みしめるように静かに目を閉じたあと、思った。
(俺は……ここで)
(死ぬのか)
瞬間、あまりにも
それは刹那のためらいもなく、少年の四肢を切り裂き、その体を
かろうじて両断されることを免れた宝刀が、宙を舞う。
それが床へと落下して、乾いた音をたてて転がったあとには――ただ、両者の戦いを見守っていた、鬼の娘の悲痛なる叫びが残るのみであった。
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