対峙


 階下から伝わる振動で、壁にかけられた装飾品の数々が揺れる。卓上に置かれた銀の杯が傾き、赤い絨毯に水がこぼれた。


 まるで大地震が起こったかのように断続的につづく揺れの中で、茜は目を伏せるようにして下を向いていた。その唇は固く引き結ばれ、額には玉のような汗が光る。


(お師匠……!)


 祈るように、彼女は心の内でその名を呼んでいた。心臓の鼓動が高鳴り、指が震える。それでもなお、茜はじっと、この楼閣の中で繰り広げられているであろう死闘を思って、彼の無事を願う。



「……そんなに、下の様子が気になるか?」


 彼女が自分に気を向けないことを不快に思うように、漆黒の鬼が口を開いた。茜が首を動かして彼のほうを向くと、その苛烈に光る雷のような目が怒りをたたえ、まっすぐに茜を睨んでいた。


「気にくわん……まったくもって、不愉快だ。ここに、鬼の王がいるというのに――おまえが考えるのは、あの人間のことばかり。これほど屈辱的なことはない」


 彼は茜のほうへ歩み寄ると、鋭い爪が生え揃った指で、茜の顎を持ち上げる。階下ではなく、じしんの顔を見るよう、仕向けるように。


「おまえは美しい。だからこそ我は、集落のほうではなく、おまえをここへと連れてきたのだ」

「……?」

「『朱天楼』は、『鬼ヶ島』を統べる王が住まう場所。そしてこの部屋は、王の居室だ。ここに立ち入ることができるのは、王と、その腹心……そして一握りの伝令役を除けば、あとはひとつしかあるまい」


 そうして、「厭土」は、怒りの表情から一転、口の端をゆがめて笑ってみせた。


「そう……王の、きさきだ」


 外を吹き荒れる風が、いっそう激しさを増す。打ちつける雨が、楼閣の屋根を叩いた。


 その騒音すらも搔き消すような声で、漆黒の鬼は告げる。


「我が妃になれ、茜! 忌まわしき人間と決別し、我ら魔族の天下をつくるのだ! 我とおまえの血が、血族が、この世を支配するところを……ともに見届けようぞ!!」



 雷が打ちつけた。


 閃光と共に、楼閣全体が激しく揺れる。それはまるで、鬼の王の高らかな宣言に、世界そのものが応えたかのようであった。


 荒れ狂う波のような空気の流れの中で、茜はただ固まることしかできない。なにかを言おうとする口は動かず、漆黒の鬼を見つめる視線は、釘付けになったまま外すことができなかった。


 嵐が運んだ雨粒が、茜の横顔を打ちつける。それはまるで涙の軌跡のように、まっすぐに頬を伝い落ちた。


 ――思い起こされるのは、悲痛なる記憶。



 黒羽織をまとった男たちが、里を襲う。自分をかばうように前に出た両親は、気味の悪い笑みを浮かべた白袈裟の男によって殺された。泣き叫びながら逃げた先には、すでに短刀を持った二人の男が待ち構えていて、乱暴に腕を掴まれたあとに縄にかけられた。抵抗する力など、自分にはなかった。


 地獄のような光景。しかし、あんな悲劇は、この世界においてはきっと珍しいものなどではない。過去に何度も繰り返され、いまも自分の知らないどこかで起こっている、ただの「日常」なのだ。魔族と人間は、永遠に相入れることなどないのだから。


 けれど。


 けれど、自分の目の前にいる、この苛烈なまでの力を持つ鬼であれば――そんな世界をも、変えることができるかもしれない。


 「未来」と呼ばれるものですらも。


 その爪で、引き裂くことができるかもしれない。



「――――、」


 呆けたように固まったまま、茜はただ、「厭土」を見つめていた。その間にも、窓の外では嵐が吹き荒れ、絶え間なく稲光が明滅する。ごうごうと狂う世界の中で、自分が下す決断が、すべての運命を変えるような気がした。


「――――わたしは」


 そして、口を開く。


 その意思を、かたちにするために。


「わたしは、あなたを――――」



 だが。その刹那。



 しん、と。


 世界が・・・黙った・・・




 降りしきる雨は止み。

 雷が放つ閃光はかげり。

 楼閣を揺らす振動が消え失せる。


 流れるものは、ただ、「時間」だけ。


「……なんだ?」


 漆黒の鬼は、不可解なまでに静まりかえった周囲を見渡し、訝しむような声をあげる。そうして、下から響く、床が軋むような音を耳にして、その発生源を凝視した。


 最上階であるこの部屋へと繋がる、階段。その下から、ゆっくりと、何者かがこちらへと向かってきている。「彼」が一段を踏みしめるたびに、空気が震え、天が萎縮するような気配すら感じられた。


「この部屋へと入ることを許されるのは、王とその妃、腹心、伝令役……それだけであると」


 「厭土」は、理解していた。


 荒れ狂う世界が、なぜ突然にも黙ったのか。


「――言われずとも、察するべきであろう。それを破り、我が領域をおかす、おまえは……なんのために、我に刃を向ける?」


 いたるところが切り裂かれ、破れた旅装束。

 手には、光を受けて鈍く輝く、瑠璃の宝刀。

 編み笠の下からのぞくのは、静かに燃える藍色の瞳。


 放つ闘気が、世界をも黙らせた、その少年は――漆黒の鬼の前に姿をあらわすと、たった一言だけ、毅然と、告げる。



「おまえを、殺すために」

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