蛇の女
「あの犬は、いまごろ金棒の娘を助けられているかな?」
異様な光景の中、
ここは、楼閣の三階にあたる場所である。一階部分とは違い、二階より上は数十もの小さな部屋によって区切られていた。いま澪丸が立つこの部屋も、そのうちの一室である。墨をぶちまけたような模様が描かれた
だが――異様なのは、戦いの余波によって荒れた部屋ではない。どうしようもなく澪丸の神経を刺激するのは……いま、澪丸と、その目の前に立つ女を取り囲むようにして
つい数分前まで澪丸に向かって牙を向いていた魔族たちは、まるで
「…………」
それらの体には、一体につき一本、
「まあ、彼女が死んだところで、私にはなんの関係もないし……私の
澪丸の前に立つ女は、こともなげにそう語る。
――板張りの床まで伸びる、真っ白な髪。身に纏うのは、奇怪な文様が
翡翠に輝く丸い石が連ねられた首飾りを鳴らし、彼女は一歩だけ前に進む。
それにつられて後ずさりをしそうになって、澪丸は踏みとどまった。そうして、彼女の底知れぬ
「……今度こそ、教えてもらえるのだろうな。おまえが何者かということを。――そして、なぜこの瞬間に、ここに姿を現したのかということを」
そう。
楼閣の上を目指し、襲い来る巨大な魔族たちを斬り伏せながら進む澪丸の前に現れたのは――かつて「明神の洞窟」の中で出会った、あの女であった。その顔や姿を見るのはこれが初めてだったが、低く冷たい声、そして蛇のように
魔族と戦う澪丸と碗太郎の間に突如として割って入ってきたこの女は、腰から下げた翡翠の短刀を周囲の魔族たちに投げつけた。すると、あれほど暴れ狂っていた魔族たちが、まるで氷漬けにされてしまったかのように動きを止めたのだ。
茫然とする澪丸をよそに、女は首飾りを構成していたひとつの石を紐から抜き出すと、碗太郎に渡した。そうして、「金棒の女を助けろ」と彼に言い放ったのだ。不思議と碗太郎はそれだけでなにかを悟ったらしく、雅々奈が戦っている一階に向けて、逆戻りをはじめた。またしても呆気にとられた澪丸は、ただそこに残されて――いまに至る、というわけである。
「なんだ。まるで、私と会ったことがあるかのような口ぶりだね。そんな
彼女は、澪丸の問いには答えなかった。はぐらかしているようにも見えるし、本当に知らないようにも見える。深追いは無意味に思えた。
「うん……面倒くさいのは苦手だから、短刀直入に言おう」
蛇の女は、少しだけ考えるようなそぶりを見せたあと、なにひとつとしてもったいぶらずに、その言葉を語った。
「私は、きみの『
またしても突然に語られたその言葉に、澪丸は固まる。
「魔神殺し」。
それはかつて、あの洞窟の中でも耳にした言葉であった。だが、あのときと今では、その重みがまったく違う。
そう――あのときならば、ともかく。「三〇〇年前」のこの時代に、「魔神」という言葉を知っている人間がいるはずがないのだ。
……いや、そもそも、この女が以前に澪丸の前に姿を現したのは、ずっと「未来」の出来事のはずで――ここに彼女がいること自体が、考えてみればおかしかった。
混乱する澪丸を見て、蛇の女はひとつため息をつく。そうして、軽く頭を掻いてから、艶のある声で漏らした。
「ああ……私の悪い癖だ。面倒くさがるあまりに、なにごとも結論からしか入れない。過程をすっ飛ばすものだから、相手を置き去りにしてしまう」
そして、女は魔族の血が飛び散った床に、なんのためらいもなく腰を下ろした。彼女の長く白い髪が、青い粘液で汚れる。そのまま、澪丸に促すように手を振った。
「まあ、きみも座りなよ。たぶん、長い話になる」
「……悠長に話している時間は、ない」
放心から立ち直った澪丸は、硬い表情で返す。この女の正体、そして「目的」とやらは気になるが、いまは時間がないのだ。一刻もはやく魔神を殺し、茜をその手から救い出さなくてはならない。
蛇の女は、少年の焦りを感じ取ったかのように目を細める。そうして、またしても首飾りからひとつの宝石を抜き取って――空中へと放り投げた。
「これは……?」
戸惑うように辺りを見回す澪丸をおもしろそうに眺めて、女は薄く笑う。
「
彼女が澪丸の反応を待つことはなかった。片膝を立てて座りながら、蛇のように鋭い眼光をこちらに向ける。
「なにから話そうか。結論から話すのが、よくないのだとしたら……いっそのこと、最初から話そうか。うん、それがいい」
ゆっくりと、息を吸って。
遠い遠い「昔話」を――蛇の女は、語りはじめた。
「
*
「
すべてが灰色に染まった世界で、蛇の女の声だけが響く。
「日照りがつづけば、雨の
「……なぜ、俺がそいつと戦ったかことを知っているのか……と問うことは、無駄なのだろうな」
「べつに無駄ではないさ。そんな問題が、いまこの場にあっては、とるに足りないものであるというだけで」
肩をすくめて、女は語る。
「とにかく……明神という存在が世界の頂点に君臨する時代が、過去にはあったのだよ。いや、正確に言うと、逆か。いまのこのときが、明神のいない
「いや。言い伝えというかたちで、俺も『明神』についてはいくらか知っている。……はるか長い時間を生きていたが、あるときに『死んで』、そこから『明神暦』が始まったのだということを」
幼いころに聞いた「神話」を思い出しながら、澪丸はその言葉に返す。
蛇の女は目を細めると、「話がはやい」とでも言いたげに嬉しそうな笑みをつくった。
「そう。早速だが、そこが話の
語られた言葉の意味が分からず、澪丸は顔をしかめる。
その反応は想定内だったようで、蛇の女はつづけて語った。
「きみが、この言葉の意味を理解できないのは仕方がない。なんせ、私ですらもその現象の全貌を把握できていないのだから」
「……」
「ほかの
ぴり、という、なにかが弾けるような感覚が、澪丸の背筋に走った。
「明神は、時間を操る力を持っていたからこそ、世界を統べる
いちど言葉を区切ってから、蛇の女はゆっくりと告げた。
「それが、『明神暦・零年』……すなわち『
止まったはずの世界に、一迅の風が吹いたような気がした。
知らず知らずのうちに、澪丸の額に汗が流れる。
「時を司るはずの明神が、どうしても、その先の時間に進むことができないんだ。過去に向かっては、いくらでも跳躍できるのに……『特異点』を境にして、『未来』には行けない。その理由は、明神には分からなかった。ほかの
女のふたつの瞳が、冷たく光った。
そうして、ひとつ咳ばらいをしてから、彼女は告げる。
「だが、明神は……たとえ自身がその先に行けなかったとしても、『特異点』より後の時代の秩序までも守ろうとした。これまでのように、この世を崩壊させるほどの因子を見つけ、その芽を摘み取ろうとしたんだ。そして――時を操る力を応用して、未来を『視る』ことにより……
瞬間、澪丸の脳裏に電流のようなものが走った。この女の言わんとしていることが、理解できてしまったのだ。
無意識のうちに、手が震えだす。消せない、
発した声が、自然と、目の前の女のそれと重なった。
「「
世界は止まっているはずなのに――ごうごうと、風が吹いているような気がした。
「そう。――そもそも、魔族とは、
「……」
「だから、明神は『魔神』に蹂躙される未来を食い止めるために、私を遣わした。――私は、明神の
あまりに突拍子もない、
だが、澪丸は信じざるをえなかった。人間でも魔族でもない、得体の知れない雰囲気を持つこの女が――ただのヒトであるはずがなかったからだ。げんに、彼女は「時」を操る
「……かくして、私は『特異点』の後の世界に降り立った。だが、私はしょせん、
「――それは」
女の言葉をさえぎるように、澪丸は口を開く。その脳裏に浮かぶのは、まばゆいばかりの翡翠の輝きであった。
――常磐たる勾玉。
それは澪丸の家に伝わる家宝であると同時に、魔神の軍勢によって殺された両親の形見であった。「
この女は、一度ならず二度、三度も、その勾玉と同じ輝きを放つ石によって、時を操ってみせた。いま、こうして世界が灰色に染まっているのも、「時を止めているからだ」という。もはや、この女が「常磐たる勾玉」と無関係ではないことは、火を見るよりも明らかだった。
……否。無関係、どころか、その勾玉はおそらく――
「そう。きみをこの時代へと飛ばしたあの宝具は、私がつくったものだ。いや……正確には、
低く地を這うような声で、女は告げる。
眉をひそめる澪丸に対し、彼女は冷笑するように唇をゆがめた。
「面倒くさいが、これも最初から丁寧に説明することにしよう。……『常磐たる勾玉』とは、明神の化身たる私が、
「……」
「ゆえに、私は魔神が生まれたこの時代に来るまでに、何度かの『時渡り』を行った。その途中に、災害や魔族から人間を守るために、『未来視』で得た情報を各地の人間に宣告して回ったりもしたが……まあ、それはまた別の話だ。いまは詳しくは語るまい」
澪丸の脳裏に、青と赤の体毛を持った、恐ろしい巨鳥の姿がうつる。あの「災厄」は、「蛇のような目をした占い師」によって予言された――と、
「……そして、私はようやく、明神暦・二八〇年という、この時代にまで辿り着いた。『未来視』によって得た断片的な情報をたよりに魔神の居場所を突き止め、いよいよ『魔神殺し』を実行しようとして――しかし、そこでひとつの大きな誤算に気づくことになる」
「誤算?」
「そう。すなわち、『魔神に「
艶やかなため息をついて、蛇の女は語る。
「その理由こそ謎だが……厄介なことに、あの鬼は
「私は考えた。あの鬼は、やはり規格外だと。
「……皮肉な、ものだな。俺の知っている『未来』では、誰もが魔神を殺したいと願っていた。だが、事がそこに
「ああ、そうだ。『魔神殺し』の最大の難点はそこにある。きみが言うように、未来において魔神を殺そうとしても、それは不可能だし……この時代に魔神を殺す理由を持った強者はいない。撤退と称してあの鬼の前から逃げ出したはいいものの、私はたいへんに困ってしまったんだ。さて、どうしよう――」
わざとらしく言ったあと、蛇の女は澪丸を見て薄く笑った。
その真意を悟って、少年は息をのむ。
「――まさか」
「うん、そのまさかだよ。
澪丸の鼓動が、早鐘をうつ。額から、冷たい汗がにじみ出した。
そして――その「真実」が、語られる。
「そうだ。私は、
――
澪丸が思うことができたのは、ただそれだけであった。
「私はそのために、数百年もの過去に跳躍する力を持った勾玉を
「…………」
「時間をさかのぼってでも『魔神殺し』を成し遂げたいと願う人間は、きっといるはず――という私の考えは、間違っていなかったわけだ。……それにしても、結果的にこの時代まで辿り着いたのがきみでよかった。『未来』において天下最強とうたわれる剣術を身につけたきみならば、きっと『魔神殺し』を成し遂げられる」
そして、女は澪丸へと歩み寄る。不思議と、彼女に足音はなかった。それはまるで、蛇が地を這うような動きであった。
少年の目の前まで来て、女は
「私は今日、きみにこれを渡すためにここに来た」
「――これは」
「
澪丸にその勾玉を手渡しながら、あくまでも意味ありげに、蛇の女は語る。彼女の縦に長く伸びた
その真意を、澪丸が問おうとしたとき――ふと、なにかが
「……おや、もう時間切れかな? 思っていたより、ずいぶんとはやい」
ぴしり、ぴしりと、池に張った氷が割れるように、空間に亀裂が入る。やがて、大きな音をたてて、そのすべてが崩れ落ちた。
そして、世界に時が戻る。打ちつける雨の音が澪丸の耳を打ち鳴らし、吹きつける風がその頬をなでた。
色を取り戻した世界を見回したあと、女は少しだけ名残惜しそうな顔を浮かべ、くるりと
「まあ、とにかく。うまくやれよ、『魔神殺し』。きみなら、きっとできるさ」
「おい! 待て、まだ話が――――」
少年がその背中を追いかけようとしたとき、周囲がふいにざわめきだした。女の放った翠色の短刀によって時を止められていた魔族たちが動きはじめたのだ。
ひとつ舌打ちをして、澪丸は自身の
*
数分後、澪丸がその魔族たちをすべて斬り伏せたあとには、女の姿は跡形もなかった。ただ、丸い窓から吹いてくる風が、虚しく澪丸の旅装束を揺らす。
「――――、」
深く息をついて、懐から勾玉を取り出す。魔族の血が飛び散り、青に染まった部屋の中で、それは異彩を放つように
(……数千年もの「過去」を支配した、
先ほどまでの話は、にわかには到底信じられぬものであった。そのすべてが、あの女の妄言であったとしてもおかしくはない。
だが、たとえ何が真実であったとしても、澪丸がすべきことは変わらなかった。
はるか天を見据えるように、少年は上を向く。そこからは、禍々しく、あまりにも
(魔神……厭天王)
屈辱を噛みしめるようにして呼びつづけた、その名を――いまはただ、静かに、心の中で唱える。その音が、少年の心の内で何度も反響し、やがて尾をひくように消えていった。
『オオオオオッ!』『ガアアアアアッ!!』『キェアアアアアッ!!』
そのとき、壁を破って、またしても魔族の波が押し寄せた。
少年の体が震える。だが、それは、足場が揺れているからでも、彼が魔族に臆しているからでもなかった。
ただ、心の底から湧き上がるような静かな闘志をもって、澪丸は瑠璃色の刀を引き抜く。
「……そこを、どけ」
一閃。
嵐が運んだ雷鳴が、楼閣の上で
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