雅(みやび)なる地獄の中で


 それから、どれほどの時間が流れたであろうか。



『――「破魔弓流はまゆみながし」の大五郎』


 戦いの騒音が消え、不気味なまでの静寂が戻った楼閣の中に、よく通る野太い声が生まれる。


『「火速風力かそくふうりき」の雷太。「桜花戦蘭おうかせんらん」の鑢子やすりこ。「塵芥仙人じんかいせんにん」の諤諤がくがく。』


 それは、後代に語り継がれるような武勇を持った、歴戦の勇士の名前であった。よほど俗世と切り離された生活でも送っていない限り、人間であれば誰しもが知っているような者たちである。


 まるで仁王像のように厳然として立つ大猩猩の魔族は、そこで一度だけ言葉を切る。彼の体から迸る異様なほどの圧力が、周囲の空気すらも歪ませていた。


 屈折した景色の中、陽炎のように揺れるのは――理不尽な「破壊」を体現した、八本の巨腕。



『これまでに、オレと戦ってきた数百もの人間のうちで……オレの「この姿」を見るところまで辿り着いたやつらの名だ。この広い世界に、たった四人しかいねぇ』

「…………」

『だが、そいつらでさえも、この腕の前では赤子も同然にねじ伏せられた。……雅々奈、といったな。覚えておこう。あんたが、オレの本気の猛攻を受けてなお息があった、唯一の人間だ』


 そうして、彼はこれまで自分が戦っていた「相手」を眺めた。


 あまりにも強い衝撃によって、すりばち状にへこんだ地面。その中心に、黒髪の女が倒れていた。骨は折れ、血は流れ、口から漏れる吐息はあまりにも弱々しい。八本の腕によって蹂躙されたその体を見て、彼女がまだ生きていることに驚かぬ者はいないだろう。


 だが――そんな状態にあっても、彼女の心はまだ、折れてはいなかった。


「……なにを、勝った気でいやがるんだよ。雅々奈ちゃんは、まだ、負けてねぇ」

 

 痛めつけられた彼女の体のうちで、ただふたつの瞳だけが、強く闘志の炎を燃やしていた。決して沈まぬ太陽のように、その目から激しい光がこぼれる。


 体の側面から生えた腕のうち、いちばん上の一対を使って「肩をすくめて」みせた大猩猩は、床に穿たれた大穴の中へと歩みだす。そうして、ゆるやかな斜面の中央で倒れる雅々奈へと向かって声を投げかけた。


『虚勢を張るのは結構だが……あんたはもう、まともに動けないはずだ。折れた足で、どう立ち上がる? 血を失った体で、どうやって力を振り絞る? ――認めろ。あんたは、オレに、負けたんだ』


 まるで悟すように語る五里丸の口調に、悪意は感じられなかった。


『悔しい気持ちは分かる。オレだって、ガキの頃は親父や兄貴に喧嘩を挑んで、負けるたびに泣いてたさ。――けど、これはただの喧嘩じゃねぇ。あんたらは、大将の首をとるために、この島にまで攻め込んできたんだ。それはもう、立派な「いくさ」……オレは、あんたを生きて帰すわけにはいかねぇ。だからこそ、オレはせめて、負けを認める権利くらいはあんたにやろうと思ってな。一方的な暴力としてじゃなく、れっきとした「勝負」として、この戦いを終わらせるために』



 ざり、ざり、と足音をたてて、地にあいた大穴の中を五里丸が進む。彼の体からは、依然として凄まじい覇気が溢れ出ていた。


『……それでもなお、あんたが負けを認めず。晩節を汚すような、無様な抵抗するというのなら――』


 ぴたり。


 巨木のように屹立する五里丸の体が、穴の底に辿り着く手前で止まった。そうして再び――暴力を象徴する八本の腕が、唸りをあげる。


 抑えきれない奔流のような、熱い血の巡り。それは金色の鎧の中、毛深い皮膚の下を暴れ狂い、やがて丸太よりも太いその腕を動かす。



『――ここから先は、勝敗なんて概念はぇ、ただの「虐殺」だ!!』



 ぐおん!! と。


 音が置き去りにされ、空気すらも押し潰される。


 逃げ場はない。ただ、暗闇を引き裂く流星のように振るわれた八本の腕が、黒髪の女の脳天をめがけて猛進した。





 ――おまえなんか、産まなければよかった。



 それは、誰の声だったか。ふと、雅々奈はぼんやりと考える。



 ……そうだ。あれは、岩ばかりが目立つ殺風景な山で、自分を捨てた女が言い放った言葉だった。山のふもとまで自分を連れていったあと、彼女は最後にそう告げて姿を消したのだ。


 あのとき彼女を追いかけていればよかった、とは思わない。そうしたところで、また別の場所に捨てられただけだろう。そもそも自分は、彼女が去って数分もしないうちに鳥の魔族にさらわれ、山頂にまで連れていかれたのだ。あの魔族が、母から子供が離れる隙を狙っていたのだとしたら――去っていく後ろ姿を追いかけようとしたところで、結果は変わらなかったのかもしれない。


(なんで、雅々奈ちゃんは捨てられたんだったかな……)


 考えるが、思い当たる節はない。あのとき、自分はまだほんの小さな子供だった。はっきりした記憶なんて、数えるほどしかない。それも、およそ幸福とは言い難い思い出ばかりだったが……母が子を捨てる決心をするほどの出来事など、なかったはずだ。少なくとも、自分が覚えているかぎりでは。


(わかんねーな。……まあ、雅々奈ちゃんのかーちゃんっていうくらいだから、きっと頭もよくなかったんだろ。ちょっとしたきっかけがあって、たいして考えもせずに雅々奈ちゃんを捨てたに違いねー)


 なかば投げやりになって、そう思う。


(ただひとつ、確かなことは……雅々奈ちゃんは、必要とされなかったってことだ。いらない子だから、捨てられた。ただ、それだけ)


 母を恨んでいるわけではない。ただ、「おまえに価値はない」と言外に告げられたその事実が、幼い自分の心に影を落とした。


(あのときは、「どうして自分は生きてるのか」って、雅々奈ちゃんにしちゃ高尚こうしょーなことをいつも考えてたな。ひーひー言いながら、山に住む魔族から逃げて……。泥まみれになって、血まみれになって、それでも意味もなく死んでいくのが怖かったから、雅々奈ちゃんは生きようとしたんだ)


 一年が過ぎ、二年が過ぎ、しだいに体が大きくなっていくにつれて、魔族にも太刀打ちできるくらいの力がついてきた。三年が経つ頃には、もう、自分を襲うような魔族の姿は消えていた。


 そのころに、ようやく悟ったのだ。


 「戦うこと」こそが、自分を証明できる唯一の手段であると。「強い」ことが、「生きていていい」理由になるのだと。


(そう……雅々奈ちゃんには、喧嘩しかなかった。戦って勝つことが、たったひとつの生きる意味だったんだ)



 そのとき、言いようもない圧力のようなものを頭上に感じ取って、ふと顔を上げる。


 そこには、不自然なほどゆっくりと迫る、丸太よりも太い無数の「腕」があった。あの大猩々の魔族が、自分を押し潰すべく、全体重をかけた八撃・・を繰り出しているのだ。


(……あー)


 緩やかに過ぎる時のなか、まるで他人事のように気の抜けた声を漏らす。


(ひょっとして、雅々奈ちゃんはここで死ぬのか?)


 難しいことはわからないが、先ほど頭に浮かんだ母の声は、走馬灯というものの一種なのかもしれない。人間が死ぬ間際に見る、最後の夢。


(うーん……死んだとしても、負けを認めなかったら負けにはなんねーか? いやいや、さすがにそれはないか。だったら、勝つしかないけど……雅々奈ちゃん、足の骨折れちゃってるぜ? 雅々奈ちゃんのカモシカのような足も、ぽっきりいってたら使いもんになんねー。このぶっといの・・・・・を避けるのは、ちょっと厳しいかな)


 破壊を体現したような腕が、徐々に迫りくる。残された時間は、あとわずかのように思えた。



(……諦めたく、ねーな。雅々奈ちゃんはまだまだ、いろんなやつと喧嘩してーし……うまいもんも、いっぱい食いてぇ。そんでもって、碗太郎とも遊んでやりてーし……)


 ふと、あの白い巨犬の姿が、脳裏に浮かぶ。


 そうすると、なぜか笑みがこぼれた。


(……そうだそうだ、あいつ、なんかとつぜんカッコイイ感じになっちまって。なんでなんだろな。いままでは、あんなに弱っちい感じだったのに……反抗期か? 反抗期なのか?)


 わん、という彼の声が聞こえたような気がした。


 ――これもまた、母の声と同じ、走馬灯というものの一種なのだろう。


(……雅々奈ちゃんが死んだら、あいつ、きっと落ち込むだろーな。雅々奈ちゃんも、雅々奈ちゃんが死んで落ち込んでる碗太郎を見たら、きっと落ち込む。……ん? 雅々奈ちゃんは死んでるから、雅々奈ちゃんが死んで落ち込んでる碗太郎を見ることはできねーのか? わけわからなくなってきたぜ……)


 わん。


 わん。


(……なんだよ、碗太郎。雅々奈ちゃんはいま、すっごく窮地ぴんちなんだぜ。おめえと遊んでやる暇はねーよ)


(……あ)


(そろそろ、ぶつかる・・・・


(せめて顔は勘弁してほしいよな、雅々奈ちゃんは女の子なんだからよ)


(とか言っても、このごりら野郎は聞く耳持たねーんだろうな)


(あー)


(野郎で思い出したけど)


(おまる野郎は、うまくやってるかな?)


(雅々奈ちゃんが死んだら……あいつに碗太郎を託そう)


(あいつなら、きっと、碗太郎を守ってやれる)


(うん……それがいい)


(…………)


(……………………)


(碗太郎)


(雅々奈ちゃんが、おまる野郎に負けたとき……おめえは、雅々奈ちゃんをかばってくれたよな)


(おめえは、雅々奈ちゃんを必要としてくれたわけだ)


(……嬉しかったぜ)


(――――)


(ありがとう)



 そして、長く引き伸ばされた「時」が、ふたたび動きはじめた。


 眼前まで迫った八つの拳が、本来の勢いを取り戻す。



 慈悲は、なかった。



 何度目か分からない地鳴りが、楼閣を揺らした。





 湿ったような感覚を体に感じて、雅々奈は目を開ける。


 まず目に入ったのは、白く、つややかな毛並みだった。


「…………」


 夢心地のまま、視線を動かすと――夜のような深い色をした、丸い瞳と目が合った。その、変わらず優しい光が、雅々奈をまっすぐに見据えている。


 「彼」は雅々奈が数秒の気絶から目を覚ましたことを感じ取ると、口に咥えていた彼女の体をいちど天へと放り投げた。そのまま落下する雅々奈を器用に背中で受け止めたあと、「わん!」と元気よく鳴き声をあげる。


「……なん、で」


 雅々奈はいまだ状況が飲み込めず、呆けたように辺りを見回した。


 ――地面から巻き上がった土がいたるところに飛び散り、朱色の床に斑模様まだらもようを描いている。その向こうに、大穴があいていた。先ほどまで雅々奈が倒れていた場所だ。だが、その深さは、あの魔族の「八撃」によって、奈落へとつづくかの如き深さまで達していた。


 地形すらも壊すほどの「暴力」。その脅威から雅々奈を救ったのは――間違いなく、いま彼女を背に乗せている白い巨犬であった。



「碗、太郎……!」


 感極まったように、雅々奈はうわずった声をあげる。


 そうして、疑問をぶつけるように碗太郎に向けて叫んだ。


「おめえ……どうやって雅々奈ちゃんを助けたんだよ!? あいつの拳はもう、避けられるような距離じゃなかったぞ!? ……っていうか、おまる野郎はどうした!?」

「わん」


 動揺する主人に向かって、碗太郎は静かに声をあげる。そうして、背に乗った雅々奈に見えるように、自らの舌を伸ばしてみせた。


「……?」


 彼がなにを示そうとしているのかが分からず、雅々奈は首をかしげる。そこにあるのは、血色のいい、ただの桃色の舌であった。どうやら、碗太郎はその上に乗ったなにかを雅々奈に見せようとしているらしいのだが――


「なんだよ、碗太郎。なんもねーぞ」

「わうん!?」


 今度は、碗太郎が動揺したような鳴き声をあげた。そのまま、落とし物を探すかのように地面をきょろきょろと見回す。だが、彼が雅々奈に「見せたかったもの」は、どこを探しても見つからないようだった。


「なんだよ、おめえ……。いくらカッコよくなっても、そういうところは相変わらずだな」


 ひとつ息をついて、雅々奈は笑った。


 その顔からは、死への覚悟など、とうに消え失せていた。


「まあ、けど……助かったぜ、碗太郎。さすが、雅々奈ちゃんの相棒だ」

「わん!」


 快活に言ってみせた雅々奈の声に、碗太郎が大きな声で応える。たしかな「つながり」を示すように、ひとりと一匹は互いの顔を見合わせた。



『――避ける時間など、なかったはずだがな。そこの犬っころ、妖術でも使えるのか……なんにせよ、なかなかどうしてやり手のようだ』


 そのとき、彼らの後ろ、奈落のように大口を開ける暗闇から、金色の影が姿を現した。縁に数本の手をかけ、穴から這い出てきた大猩々の魔族は、素直に感心したように口の端をゆがめて笑う。


 いまだ全身から強い圧を放つ彼に向かって、雅々奈は申し訳なさそうな顔をつくってみせた。


「……一対一っていう約束、破っちまった。わりぃな、ごりら野郎」

『なあに、気にせんさ。おかげで、少しおもしろくなってきた。――どうする? その犬を入れて、二対二で仕切りなおすか? こっちには、オレの指でも数えきれねぇほどの魔族みかたがいるからな。オレも好きなやつを選ばせてもらう』

「いや……全員でかかってきてもいいぜ」


 その言葉に、五里丸はおろか、周囲をかこむ魔族たちですらも、驚愕したような声をあげた。


 ざわめきが生まれる中、大猩々の魔族はその大きな目をさらに見開いて、黒髪の女へと尋ねる。


『いいのか? おまえはすでに瀕死……足の骨だって、折れているのだぞ?』

「それは、おめえが心配することじゃねえ」


 先ほどの意趣返しのように、雅々奈は語る。


「碗太郎が、雅々奈ちゃんの足のかわりになる。こいつが、いつもの逃げ足の半分くらいの速さでも出せれば、おめえらはついていけねえよ」

「わおん!?」


 白い巨犬が抗議するような声をあげるが、雅々奈はそのまま、締めくくるように強く告げた。



「雅々奈ちゃんは、思ったんだ。邪魔が入らない一対一……ってのも、おもしろいけどよ」


 気絶してまでも手放さなかった金棒を、天高く掲げて。


 端正な顔立ちに野蛮な笑みを浮かべて。



「――やっぱり、みんなでるのがいちばん楽しい・・・・・・・だろ!」

 


 巨犬に指示を飛ばした彼女が、風のように前へと進む。その口から、高揚したような叫びが漏れた。


 大猩々の魔族は、少しだけ面食らったような表情を浮かべたあと、我にかえったように目を見開いた。そうして、周囲で待ちかまえていた数々の「部下」に向かって、野太い声で喝を入れる。



 すると――百に近い数のおぞましい魔族たちが、いっせいに動きだした。それらはまるで雪崩なだれのように、白い巨犬とその背に乗る女のほうへ押し寄せる。



「ははははははははははははははははははははははははっ!!」



 篝火を受けて揺らめく無数の影の中にあって、雅々奈は声高く笑っていた。まるで、この地獄こそが、じしんの生きる場所であるとでも言いたげに。いまこの瞬間を迎えるために、生まれ落ちたとでも語るように。



 ――もはや、止める者などどこにもいない。



 楼閣を埋め尽くす狂乱の宴は、しばらく終わりそうになかった。


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