何よりもなおカタキもの
朱に染められた楼閣の下まで辿り着いて、澪丸は白い巨犬の背中から降りた。続いて、金棒を持ったままの雅々奈も、碗太郎から飛び降りる。
「すっげぇ家だな! 雅々奈ちゃんの住んでたとこより、何倍もでけぇ!」
「家ではないと思うのだが……」
一応はその言葉に反応してやりつつ、澪丸は改めてその「塔」を見上げた。
曇天へと巨大な体を伸ばす朱い楼閣は、人間の世界のそれとはどこか異なるような空気を醸し出していた。ここに来るまでに通ってきた「鬼の集落」の建物と同じで、そもそもの建築様式が人間の大工のものとは違うのだろう。どこか
さらに、楼閣の中からは、おびただしいほどの魔族の気配が漂ってくる。おそらく、集落の前で番をしていた者たちとは比べものにならないほどの数の魔族がそこにいるのであろう。びりり、と肌が震える感覚が澪丸を襲った。
だが、少年には、立ち止まっている暇などない。
「……行くぞ」
「おうよ!」
『ワン!』
その一声で、前へと。
*
いかめしい彫刻がほどこされた分厚い鉄の扉を開けると、中から生臭いにおいが漂ってきた。
静寂に包まれた空間。薄暗いためにその向こう側までは見通せないものの、この部屋が相当な広さを持つことがわかる。近くには、壁も仕切りもなく――この部屋に、塔の一階部分、そのすべての空間が使われているのかもしれなかった。
「……」
刀の柄に手をかけて、澪丸は少しずつ前へと歩く。楼閣の外観と同じ、朱色に染められた板張りの床を踏みしめながら、少年は周囲へと視線を巡らせた。
闇に紛れて、数十体もの魔族が潜んでいる。すぐに飛びかかってくる気配はないものの、無数の目玉から発せられる不気味な視線が、澪丸の神経を刺激した。
『――来たかい、人間』
そのとき、暗闇の奥から、よく通る野太い声が響いた。それと同時に、広い部屋の四方に置かれた巨大な
揺らめく炎に映し出されたのは、澪丸の体の三倍はあろうかという巨躯を誇る、
眩いばかりの金色の鎧に身を包んだ「彼」は、その太い四本の腕を大袈裟に動かして、気合いの入った声をあげた。
『あれほどの傷を受けてなお、ここまで殴り込みに来るなんてぇ……大した根性だ。人間ながら、天晴れと言わざるを得んだろう』
漆黒の鬼に「
「尋ねるまでもないだろうが……一応、きいておこう。おまえは、『厭土』とやらの側近なのだな? そして、俺たちをその者のところまで行かせないよう、ここで番をしている……と」
『おうよ。――まぁ、オレたちが番をせずとも、大将がやられるとは思ってねぇけどよ。主に余計な手間をかけさせねぇのも、部下の務めのひとつなわけよ』
五里丸は四本の腕をすべて使って肩をすくめてから、周囲を見渡す。松明の火に照らされて明るくなった空間の端には、大小無数の魔族が唸り声をあげていた。察するまでもなく、そのすべてがあの漆黒の鬼の「従者」なのだろう。
そして、五里丸は再び澪丸へと向き直り、低い声で告げる。
『あんたは、大将をひどく恨んでるようだ。……まぁ、それも無理はねぇよ。大将は、数えきれないほどの人間を喰ってきたからな。その肉親なり友人なりに恨みを抱かれても、仕方のねぇことではある』
そう語る彼の声色に、澪丸への敵意はない。むしろ、その言葉からは同情の念すら感じられた。
ふと、澪丸の脳裏に、伊波村での惨劇が蘇る。あの夜、村の広場は魔族たちによって地獄と化した。だが、この五里丸だけは、村人たちの虐殺に加わらなかったのだ。その意図は、澪丸には分からなかったが――少なくとも、この魔族がすすんで殺生を行う者ではないということは、おぼろげながらに理解できた。
澪丸は周囲の魔族たちに警戒を続けながらも、五里丸へと声を飛ばす。
「――なぜ、おまえのような者が、あの鬼の下についているのだ? 人に害をなすことを悦びとしているような魔族ならばともかく……おまえからは、血生臭い
その問いに、大猩猩の魔族はほんの一瞬だけ虚をつかれたような顔をした。だが、すぐに我にかえると、腹の底に響くような声で快活に笑う。
『――オレが、どうして大将の下についてるかって? そりゃ簡単だぜ、人間』
そして、金色に輝く鎧を鳴らして、澪丸のほうに歩み寄る。五里丸が一歩を踏み出すたびに、まるで大岩が落ちたかのような音をたてて床が揺れた。
やがて両者の距離が縮まり――あまりの身長差ゆえに、大きな影が少年の体を覆う。
澪丸を見下ろす大猩猩の深い瞳が、みなぎる力を抑えられなくなったように輝きだす。鎧に包まれた彼の体じゅうの筋肉が、波打つように膨張をはじめる。
そうして彼は、広い空間のすべてに響き渡るほどの大きな声で、
『オレが、「闘い」を望んでるから』
「うをらあああああああああああああああああああっ!!!」
あまりにも突然に、大猩猩の魔族の言葉は甲高い咆哮によってかき消された。
それだけではない。彼の体は腹部に受けた強い衝撃によって吹き飛ばされ、ほんの少しの間だけ宙を舞ったあと、朱色の床に激突する。
『なっ……!?』
「うおおおおおおっ! おおおおおおおっ!」
五里丸は四本の腕のうち、右側の二本で倒れた体を起こそうとしたが――そこで、またしても女の叫び声がこだまする。間髪入れずに、彼の顔面へと、極太の金棒が叩き込まれた。
今度は、肉を潰したような鈍い音が楼閣に響く。澪丸も、そして周囲を囲んでいた魔族たちですらも戦慄するようなその光景の中、五里丸を襲った「獣」がようやく意味のある言葉を発する。
「雅々奈ちゃんを、ムシしてんじゃねええええっ――!!」
怒りに任せるように、女は黒髪を振り乱して金棒を振り下ろす。だが、そこでようやく体勢を立て直した五里丸が、すんでのところでそれを避けた。標的を逃した黒い金棒は、空を切ったあと――地割れのような
いかめしい顔から血を流し、額に冷たい汗をかきながら、五里丸が口を開く。
『あんたは……オレが海に殴り飛ばしたやつか』
「よぉく、覚えてるじゃねーか。雅々奈ちゃんのこと、忘れてたわけじゃねーじゃねーか。 だったらどうして、雅々奈ちゃんをシカトしてやがったんだ、おめえはよ!!」
『無視をしていた訳じゃ――うおっ!?』
五里丸の言葉を待たずに、黒髪の女は力任せに金棒を振り回す。その端整な顔立ちには、少し離れたところにいる澪丸にもはっきりと見えるほどの青筋が浮かんでいた。
刀を引き抜いて、いつでも雅々奈に加勢できるように構えながら、澪丸は彼女の心中について考える。
――彼女は、伊波村にてこの魔族に殴り飛ばされ、戦線離脱した。ほとんど不意打ちに近いかたちであったとはいえ、事実上、彼女はたった一撃で敗れたのだ。戦好き、かつどこまでも負けず嫌いな雅々奈が、そんな結果に満足するはずもなく……この楼閣でふたたび五里丸という魔族と
(なにはともあれ、火蓋は切って落とされた……あとは、戦うのみだろう!)
澪丸は、大猩猩へと加勢すべく動きだした無数の魔族たちの行く手を阻むように立ちはだかる。そして、腰を低く落とし、刀を水平に構えて、ゆっくりと深く呼吸をした。
「鬼界天鞘流、四の型――
横薙ぎに、一閃。
無形の水をも斬り裂くほどの一撃に、襲いかかってきた魔族の波が崩れた。青い血が飛沫のように飛び散り、楼閣の床に染みを作る。
斬撃が届かない範囲にいた魔族たちも、「鬼界天鞘流」の威力に気圧され、動きを止めた。その隙に澪丸は振り返る。そして、野生の獣のごとき身のこなしで大猩猩の拳を避ける雅々奈のほうへと、加勢するべく走り寄って――
「邪魔すんじゃねぇ、おまる野郎ぉ!!」
「――ッ!?」
重い鉄の棒が、少年の鼻先をかすめた。
面食らったように固まり、澪丸は雅々奈を凝視する。彼女は興奮したように息を荒げながら、金色の甲冑をまとった魔族を睨んでいた。
「こいつは、雅々奈ちゃんのエモノだ。雅々奈ちゃんが独り占めする。だから、おめえが手を出すんじゃねえ」
「だが……ひとりで戦って、勝てるような相手でも」
「碗太郎!」
少年の言葉を遮るように、雅々奈は白い巨犬の名を呼んだ。
以前に比べて長く伸びた牙で魔族と戦っていた碗太郎が、その掛け声に呼ばれて身をひるがえす。
「おまる野郎を連れて、上にのぼれ。ここは、雅々奈ちゃんの
『わん!』
主人が告げた強い言葉に、彼は肯定の意を示した。そのまま澪丸の体を咥え込むと、広大な空間の奥、上階へと続く巨大な階段のほうへと風のごとく走り出す。追いかける魔族たちを振り切って、白い巨犬はひたすらに疾走した。
「お……おい! 雅々奈!」
遠くなっていく彼女の姿を見送りながら、澪丸は声を上げた。……言うまでもなく、この階にいる魔族は五里丸だけではない。澪丸が加勢しても勝てるかどうかは怪しいというのに、たったひとりでこれだけの数の敵を相手にするのは、あまりにも無謀に思えた。
それを彼女に伝えようと、少年は碗太郎の口の中から逃れようとして――
ふいに。
敵を前にして構える雅々奈の立ち姿から、並々ならぬ
「――――、」
そのまま抵抗をやめて、ただ、豆粒のように小さくなっていくその影を見つめる。彼女はただ、大猩々の魔族と睨み合ったまま、口をかたく引き結んでいた。
(……雅々奈)
――澪丸には、わかった。
あれは、己の存在をかけて戦うことを選んだ者だけが放つことのできる気配であった。ここで退けば、己が己でなくなってしまうことを確信したような……そんな表情を、彼女は浮かべていたのである。
かつて、魔神を倒すために都に集まった者たちも、あんな顔をしていた。彼らはみなそれぞれに失いたくないものがあり、譲れないものがあった。己の存在を、誇りをかけて武器を掲げる――なによりも尊い
(……雅々奈)
澪丸は、思う。
彼女は決して、世のため人のためだとかいう、崇高な理念のもとに戦っているわけではない。むしろその逆――野蛮な衝動に駆られて自らの力を振るうことを良しとしている節すらあった。
けれど、だからこそ、彼女はなんの雑念も、打算もなく戦うのだ。「自分と相手のどちらが強いか」という、ただそれだけの事実を知るために。
――『いらない子だ』って捨てられた雅々奈ちゃんだけど、戦ってるときとか、喧嘩に勝ったときだけは、誰からも必要とされなくても、『生きていていい』って、思えたんだ。
あの岩ばかりの山で澪丸に敗れたとき、彼女はそう語っていた。その言葉こそが、彼女にとってのすべてなのだろう。
戦うことが、彼女の生きる理由だった。
戦うことだけが、彼女の生きる意味だった。
ならば――あの大猩猩の魔族に、たった一撃で敗れたまま終わるのは、彼女にとっては耐えがたいほどの屈辱に違いない。
だから、無理やりにでも一人で戦おうとしたのだ。自らの
(……人の話を聞かない所も、異常なまでに好戦的で負けず嫌いな所も。俺と出会ったときから、なにひとつとして変わっていない)
成長をしていない、と言ってしまえばそれまでだった。
(……だが)
それでも。澪丸は遠く彼女の背中を見つめて、薄く笑った。その心には、もう、彼女の勝利を疑う気持ちなど、微塵も残されてはいなかった。
(おまえの、その石よりもなお
ただ、静かに目を閉じて。
澪丸は、彼女の武運を祈った。
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