朱天楼


 はるか天に向かって伸びる、朱色の楼閣ろうかく。各階からは武骨ぶこつな屋根が突き出し、地に逆らうように上へとり立つ。「鬼ヶ島」の全容ぜんようと、その先に広がる大海原をひといきに見渡せる、その塔の最上階に――紅い瞳の鬼が、神妙な顔つきをして座っていた。


 その身にまとうのは、いつもの桜色の着物ではなく……きらびやかな刺繍ししゅうがほどこされた、見るからに高価な衣服である。それは、あの漆黒の鬼が、汚れた着物の代わりとして彼女へと贈ったものであった。なんでも、この島に住む鬼の中に、このような服をつくることを生業なりわいとしている者がいるそうである。


「…………」


 だが、どれだけ豪勢な衣服を身につけようとも、彼女の顔は晴れなかった。まだ幼さが残るその顔立ちにうれいの色を見せて、茜はひとつため息をつく。



 ――「朱天楼しゅてんろう」。


 あの黒い鬼は、この塔のことをそう呼んでいた。なんでも、ここは「鬼ヶ島」を治める当主が代々だいだい住まうところであり、いまは彼がこの楼閣の所有者であるらしい。鬼たちが暮らす村の奥に、まるで城のように築かれたこの巨塔は、見る者を圧倒する存在感を放っていた。茜は「厭土えんど」に連れられて、この場所に辿り着き……最上階へと招かれて、今に至るというわけである。



「――浮かない顔をしているな。なにが不満だ?」


 と、そこで、透き通る水のように澄んだ美しい声が、茜へと投げられる。振り向くと、あの漆黒の鬼が、ぞっとするほどの美貌びぼうに薄い笑みを浮かべて、そこに立っていた。


「なにを与えれば、その顔を晴らすことができる? 高価な宝石か、はたまた豪勢な料理か。なんでもいい、言ってみろ。望むものは、すべて与えよう」


 彼はきらびやかな装飾がなされた室内を見渡してから、赤い絨毯じゅうたんの上を歩き、茜のほうへと詰め寄る。その、苛烈なまでに激しい光を放つ瞳が、まっすぐに彼女を見据えていた。


「ここにあるものならば、すぐにでも部下に持ってこさせよう。ここになければ、『外』へおもむき、奪ってでも手に入れてみせよう。……さあ、言え。おまえは、いったいなにを望む?」

「……わたしは」


 茜は少しうつむいて、ためらうように息をのむ。そうして、大きく息を吸ってから、勢いよく顔を上げて、言った。


「わたしは、なにも、いらない。きれいな宝石も、豪華な食べ物も。――いっしょに住む鬼の仲間だって、いまのわたしには必要ない。わたしが、ただ、のぞむのは……いいえ、のぞんだ・・・・のは、お師匠といっしょに旅をして、他愛もないはなしをくりかえすような、そんな日常。いまは、もう……二度と、もどらない、あの日々よ」


 そう告げる彼女の目に、涙がにじむ。


 あの夜、血だまりに倒れ伏す少年の姿が、茜の脳裏をよぎる。急所は外されているとはいえ、あそこまで深い傷を負っていれば、いかに彼といえども無事では済まないだろう。いまごろ彼がどうなっているかは、想像もしたくなかった。



「……まだ、そんなことを言っているのか」


 沈んだ顔をさらにかげらせる茜にしびれを切らしたように、「厭土えんど」が声を荒げる。


「おまえは、あの人間をずいぶんとしたっているようだが……あいつからは、魔族殺しのにおいがしたぞ。それも尋常ではないほどの、強烈な悪臭だ。おそらく、あいつが殺してきた魔族は、百や二百ではないだろう。――それでもなお、おまえはあの男と共に過ごしたいと……数々の同族を殺してきた人間の隣にいたいと、そう口にするのか」

「……」

「そうでなくとも、人間というのは、そこにいるだけで魔族われわれの存在をおびやかすものだ。我が与えた傷で、あいつがもう二度と戦えない体になったとしても……その心の内に魔族への悪意がある限り、いつかどこかで、また魔族が傷つけられ、血を流すことになるだろう。おまえの頼みとはいえ、やつにとどめをさすことを止めたことを、我はいまさらながらに後悔している」


 鋭い爪が生えそろった右拳を握りしめて、漆黒の鬼は語る。彼が全身から放つ怒気どきが、空気をもわずかに震えさせた。



 茜は彼の気がおさまるまでしばらく押し黙ったあと、ぽつりと、その鬼に向けて言葉を投げる。


「……あなたは。あなたはどうして、そこまでして人間を憎むの?」



 その言葉に、「厭土えんど」は茜のほうを振り向いたあと、どこか遠くを思い出すようにして目を閉じた。そして、その禍々しい出で立ちに似合わない、澄み渡るような美しい声で語りはじめる。


「――我の親が、人間に殺されたのだ」


 静かな、しかし強い声が、楼閣の最上階に響く。


「我の父と母は、人間との交易によって、『鬼ヶ島』を豊かにしたいと願っていた。人間が作る道具を使えば、漁のときにより多くの魚がとれるし、田畑を耕すのも楽になる。鬼の数が増え、食料問題に直面した『鬼ヶ島』を救うため、我の両親は幼い我を連れて、人間の里へと乗り出した」

「…………」

「だが、人間たちは我らの角を見ただけで、恐れ、逃げまどった。やがて、刀を持った人間が現れて――我の両親は、斬り殺されてしまった。そして、その凶刃が、我にも向けられたとき……我は、死にもの狂いでその人間の腕に噛みつき、肩口からそれを食いちぎったのだ」


 漆黒の鬼は、そこで一呼吸を置いてから、続きを告げる。


「……それから後のことは、よく覚えていない。気がつけば、目の前に赤い血の海が広がっていた。刀を持った人間も、我から逃げまどっていた人間たちも、みなその体のどこかを食い破られて、地に倒れ伏していたのだ。――それまでに比べ、我の体には不思議なほど活力がみなぎっていた。まるで、食した人間の血肉が、我の力となったように」


 「厭土えんど」は、硬く黒いうろこのようなもので覆われた自らの体を見つめる。その、通常の鬼とは違う彼の体も、「人間を喰えば力が増す」という彼の特性によるものなのだと茜は悟った。


「だが……たぎる体に対して、我の心はどこまでも満たされなかった。親を失った喪失感と、人間への怒り……さまざまな負の感情に、我は支配された。地獄の業火すらも生温なまぬるいほどのくらい炎が、そのとき我の心に宿ったのだ。――そうして、我は、ある決心をすることになる」


 漆黒の鬼は、楼閣の下に広がる遥かな世界を見渡して――その美しい顔にどこまでも苛烈な笑みを浮かべて、告げる。



「すなわち……『すべての人間を喰らい尽くす』と。我から親を奪った人間どもを恐怖の底へ突き落し、最後には根絶やしにすると……そう、誓ったのだ」



 やがて、彼は額に冷や汗を浮かべる茜のほうへ向き直ると、その雷を閉じこめたかのような激しい瞳で、彼女の紅い目を見据える。


「すべての人間を滅ぼしたあと、我はこの世界に魔族の楽園を築く。愚かしい人間どもも、忌まわしい『カミ』もいない、素晴らしき世を生み出すのだ。……そのために、おまえの『力』も、必要になってくるだろう」


 絨毯じゅうたんの上からでも響くような力強い足音をたてて、漆黒の鬼は茜へと近づいた。そして、彼女が纏う、煌びやかな装飾がなされた衣装のえりを掴み――


 鋭い爪で、力任せにその服を破り裂いた。


「……っ!?」


 あらわになった肌を隠すように、茜は身を縮める。そして、驚きと戸惑いの目で漆黒の鬼を睨んだ。


 彼は、その顔に苛烈な笑みを浮かべたまま、茜の脇腹にある傷を眺めている。それは、人間が放った矢によってつけられたものであった。今は矢も引き抜かれ、薬によって傷も塞がっているが、それでも、わずかにその表面に血の跡が残る。


「先に偵察に行かせていた、我の部下によると……おまえと連れ添っていた犬の魔族が、おまえを咥えた瞬間、その姿を変化させたそうではないか。それまでの弱々しい姿から、凶暴な『魔族』の姿へと」

「……あなたは、碗ちゃんが変わってしまったことについて、なにかしっているの」


 茜の問いに、「厭土えんど」はどこか嬉しそうな表情を浮かべたあと、首を縦に振る。


「あの犬の姿が変わったのは、おまえが『羅血らけつおに』と呼ばれる存在であるからだ」

「らけつの、おに……?」

「ああ。鬼の一族に、ごくまれに生まれ落ちる、特別な鬼のことだ。外見や力こそ、普通の鬼と大差はないが……その鬼の『血』をほかの魔族が口にすれば、その魔族はたちまちに強い力を得るという。あくまで伝承のうえの存在だと思っていたが、まさかこんなところで出くわすとはな。おまえのその『力』があれば、我が軍勢も人間にとってさらなる脅威となるだろう。いや、それだけではなく――」


 そう告げて、漆黒の鬼は茜の脇腹の傷へと手をあてた。そして、彼女の青い血を指の腹で掬い取る。


「――っ!?」

「我じしんも、この『血』によってさらなる力を得られるに違いない」


 愉しげな、声。


 痛みに顔を歪める茜の前で、「厭土」はその血を自らの口へと含もうとして――――




『厭土サマ! 侵入者ニゴザイマス!』


 ふいに、楼閣の窓の隙間を縫うようにして、小型の虫のような魔族が部屋の中に飛び込んできた。慌てているからなのか、元からなのかは茜には分からなかったが、その魔族は甲高い声を発しながらせわしなく周囲を飛び回る。


 動きを止めていた漆黒の鬼は、そこで我にかえったように首を動かすと、騒ぎ立てる虫の魔族に向かって低い声を飛ばす。


「なんだ……このような時に。侵入者だと? 何者かは知らんが、こちらに害を為すような者ならば、追い返すなり殺すなりすればよいだろう」


 「主」の苛立った声に動揺しながらも、虫の魔族は続けて語る。


『ソ……ソレガ! 集落ノ外デ番ヲシテイタ者タチガ、コトゴトクナギ倒サレ……賊ハスデニ、コノ楼閣ニ近ヅキツツアリマス!』

「……なんだと」

『ワレワレダケデハ、手ニオエマセヌ! ドウカ、オチカラヲ……!』


 茜は虫の魔族が入ってきた窓を開けて、はるか下、地上へと目を凝らす。


 風変わりな赤い瓦屋根が並ぶ、鬼の集落。その中心に伸びる通りをまっすぐに突っ切るようにして、白い影が疾走していた。「それ」は毛深い体から生えた四本足を懸命に動かし、おののいて道をあける鬼たちの間を恐るべき速さで進んでいく。


 その背中には、ふたりの人影。ひとりは、長い黒髪をたなびかせ、金棒を天高く掲げて振り回す女だった。彼女はなにやら興奮したような奇声を発しながら、自らを乗せて走る「犬」へと指示を飛ばしている。


 そして、もうひとりは――旅装束を纏い、腰から青い刀を下げた男であった。その背格好からは、彼が少年と呼べる年頃であることが分かる。ただ、その顔は、彼が頭にかぶる編み笠によって遮られ、茜からは見えない。


「――うそ」


 まさか、と茜は思わず漏らす。


 「彼」は、死の淵に立たされるほどの深い傷を負っていたはずだ。たとえ生き延びたとしても、せいぜいが歩くので手一杯なはず。こんなところに攻め込めるほど、「彼」の体がじゅうぶんに動くはずがない。



 けれど――けれど。旅装束の少年は、白い巨犬の上にまたがりながら、この距離でもはっきりと分かるほどの確かな闘志をみなぎらせて、堂々たる佇まいで前を見据えていた。彼の様子は、とても手負いの人間のものとは思えない。



 そのとき、ふと。「彼」が誰かからの視線を感じたように、顔を上げる。


 編み笠の下からのぞく、なによりも強い藍色の眼差し。その光が、茜の視線と交差した。



「――――、」


 時間にすれば、ほんの一瞬の出来事であったのかもしれない。だが、茜には、はっきりと理解できた。



 永遠の別れを告げたはずの「彼」が。


 自らが「お師匠」と呼び慕ったその少年が。



 ――いまこうして、自分の前に再び現れたということを。



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