終章 魔神殺しよトキワたれ

海原を征くものたち


 明神暦みょうじんれき二八〇年・皐月さつき・五の日。


 その日は、どす黒い雲が空を覆うように広がる、春も終わりに近い日であった。



 見渡す限りの、大海原おおうなばら。荒れ狂う波は飛沫しぶきをあげ、はるか遠くで雷鳴がとどろく。湿りを帯びた生暖かい空気が辺りにうずまき、嵐が近いことを知らせていた。


 そんな中、無謀にも、一艘いっそうの小舟が、波を割るようにして進んでいく。その舳先へさきに立つのは、旅装束をまとった、齢十五、六ほどの少年であった。彼は、編み笠の下にのぞく藍色の瞳に決然たる意志をみなぎらせて、遠く、かすかに見える島影を見据える。



「……まだ、少し距離があるな。嵐が来るまえに、なんとか辿り着きたいものだが……」


 そう言って、少年はゆっくりと後ろを振り返った。そこには、金棒のかわりにかいを持ち、常人の数倍もの力で舟をこぐ、黒髪の女の姿があった。彼女は手を動かしつづけながらも、怒りをはらんだ声を少年へと飛ばす。


「『なんとか辿り着きたいものだが……』じゃねーよ! ほんとにそう思ってんだったら、ちょっとは手伝いやがれ!」

『わん!』


 その反対側には、舟から半分もはみでる・・・・ほどの巨体を持った、犬。彼はその太い手で波をかきわけ、舟を前進させるべく健闘する。


 少年はそんな彼女たちと、恐るべき速さで波を割って進む小舟を交互に眺めて、ひとつため息をついてから、言った。


「おまえたちの力があれば、じゅうぶんだろう。俺では、それほど力強くかいを操ることなどできないからな」

「それでも、応援するとか……なんかやることくらい、あんだろ!」

「……そうだな」


 そう言われて、少年は考え込むようにして黙り込む。ごうごうと海原うなばらを吹き荒れる風が、彼のまとう旅装束を揺らしていた。



 ――と、そのとき。



 ざばん! と。


 突如、波を割るようにして、巨大な影が海の中から姿を現した。


 細長い首の先に、蜥蜴とかげのような頭を持った、魔族。それは鋭く尖った歯を鳴らしながら、血走った目で澪丸たちの乗る小舟を見下ろす。その斑模様まだらもようの長い頭からしたたる海水が、少年のかぶる編み笠の上に落ちた。



「……海に住む、魔族か。こいつが魔神の配下なのか、はたまた野良の魔族なのかは、俺の知るところではないが――」


 だが。少年は、自分よりもはるかに巨大なその怪物を前にしても、微塵も臆した様子を見せなかった。



「――ちょうど、仕事がなくて困っていたところだ。ありがたく、働かせてもらおう」



 大口を開け、こちらへと襲いかかってきた魔族に向かって、一閃。


 それだけで、細長い魔族の体が、きれいに両断される。水飛沫みずしぶきをあげて、青い血をふきだす巨体が海の中に沈んでいった。


 

 刀を鞘におさめ、ふたたび舳先へさきに立った澪丸の背中に、ひゅう、と口笛のような音が届く。


「なかなか、いい仕事してくれんじゃねーの。……けど、どうせなら三枚におろしてほしかったぜ」

「料理は、俺の専門外だ」


 いたって真面目な口調でそう返して、少年はしだいに輪郭りんかくがあらわになってきた「鬼ヶ島」のほうを向く。



 天に向かってそびえたつ山が、まるで鬼の角のように見えるその島は――波の向こう、澪丸たちを待ちかまえるようにしてそこにあった。緑の少ない、岩ばかりが目立つ場所である。決して大きな島ではないものの、まるで島そのものが巨大な魔族であるかのような、言いしれぬ異様な存在感がそこからは漂っていた。



(……人間の滅びを、止めるため。そしてなにより、あいつと、俺じしんの未来のため)


 頭の上の編み笠の感触を確かめながら、澪丸は静かに目を閉じた。心の奥から、煌々こうこうと燃える熱い闘志が、少年を鼓舞するように湧き上がってきた。


(今日、ここから、すべてを始めるんだ。……茜よ。どうか――俺に、力を)



 迷いなど、なかった。


 少年は瑠璃色の刀を再び引き抜き、恐ろしい影を落とすその島に向かって、刃の切っ先をつきつけた。

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