願う幸い、望む未来


 窓からさしこむ朝日の光で、澪丸は目を覚ました。


 ゆっくりと起き上がり、辺りを見渡す。早朝、まだ薄暗い部屋の中に見えるのは、古びた家具や調度品ちょうどひんの数々であった。板張りの床にはところどころに染みが残り、ここが長いあいだ使われている民家であることがわかる。


 だが、それだけで状況のすべてが理解できたわけではない。澪丸は部屋の外へ向かうべく、布団から這い出ようとして――


「……っ!」


 そこで、脇腹に走った痛みに顔を歪ませる。


 見ると、痛む箇所には、不器用な手際ではあったが、何重にも包帯が巻かれていた。そこでようやく、澪丸は自身が置かれている状況を思い出す。


「そう、だ……。茜。あかね!」


 走る痛みをこらえて、澪丸は跳ね起きた。そして、ふたたび狭い部屋の外へ出ようとして……そこに、見覚えのある、長い黒髪の女が立っていることに気がついた。


「やっと起きたかよ、おまる野郎」

「雅々奈……! おまえ、生きていたのか!」

「海に突っ込んで気絶したところを、なんとか碗太郎に助けられたんだ。ってか、『生きていたのか』って……それはこっちの台詞だ」


 珍しく冷静な口調で、彼女は語る。


「おめえ、腹にとんでもねぇ傷を負ってたんだぞ。いつ血が出すぎて死んじまうかわからないくらいの、やべぇ傷だ。いちおうは、この家にあった道具で手当をしておいたけど……雅々奈ちゃんは、いつおめえが死んじまうかって、ひやひやしたぞ」


 その言葉に、澪丸はもう一度自身の腹を見た。そこにあるのは、乱雑に巻かれた、白い包帯。お世辞にも、丁寧な処置であるとは言い難いが……彼女なりに少年を助けようと奮闘したあとが見えて、澪丸は静かに笑った。


「……ありがとう。おまえのおかげで、助かった」

「な……勘違いするんじゃねーぞ! おまえが死んだら、この先三日くらいは、飯がまずくなると思ったんだ! べつに、おまえのために頑張ったわけじゃねーからな!」


 声高に告げて、雅々奈は澪丸から目を背けるようにして後ろを向く。


 そのまま、彼女は少しばかり真剣な声を作って、場を仕切り直すように尋ねた。


「……で。雅々奈ちゃんが海にドッボンしてる間に、なにがあったんだよ? 鬼っ子はいなくなるわ、村には数えきれねーくらいの死体が転がってるわで、雅々奈ちゃんの頭は破裂しそうだったぜ。……一応、死体のほうは、ぜんぶ穴掘って埋めて、手を合わせといたけどよ」


 その言葉で、澪丸はここが伊波村いなみむらにある民家であることを察する。


 しばらくの沈黙のあと、少年は重々しい口を開き――昨夜に起こった出来事、そのすべてを語った。




「――なるほど」


 澪丸の話を聞き終わった雅々奈は、腕を組んだまま、眉間に皺を寄せる。


「たしかに、とんでもねー奴だとは思ったけどよ。そいつが、おめえの探してる鬼ってので、間違いないんだな?」

「ああ。あの恐ろしい気配だけじゃない。人間を食って傷が治る――いや、それだけじゃなく、力も増すと、あいつの部下が言っていたな――という能力も考慮するに、あいつは間違いなく『厭天王』だ」


 額に手をあてて、澪丸は神妙な面持ちで語る。


「それだけじゃない。あいつは、数多くの恐ろしい魔族を引き従えていた。――それは、俺が知っている『魔神』の特徴そのものだ。いまはまだ、魔族の群れを制御している、といった程度のものかもしれないが……やがてあれは、人間の存在をも脅かす軍勢となる」


 都を襲った、数えきれないほどの魔族の姿が、澪丸の脳裏に蘇る。


「魔神、『厭天王』。やはり、やつはこの時代においても、恐るべき力を持っていた。俺のすべてをもってしても、打ち勝つことができないほどに……」


 そのまま、澪丸は深くうなだれる。朝日に照らされる少年の横顔に、暗い影が宿った。


 しばらくの、静寂。外では、昨夜この村で何もなかったかのように鳥がさえずり、波の音が響いていた。



 やがて、雅々奈がその沈黙に耐えきれなくなったように口を開く。


「……で。いくらそいつが強いとはいっても、このままやられっぱなしで終わるつもりはねーんだろ? どうするよ? 『なんとか島』に向けて、今すぐ出発するか?」


 彼女は背負った金棒の重さを確かめるように体を揺らしたあと、澪丸へと問う。


「…………」


 その言葉に、少年はいまだ下を向いたまま、なにも答えなかった。


「なんだ、やっぱ怪我がやべーのか? まあ、あんだけ血ぃ出して、こうして立ってられるのも奇跡みたいなもんだからな……」

「いや」


 珍しく少年を気遣うような彼女の言葉に対して――澪丸は、首を横に振った。


 そのまま、ぽつりと、独白のように少年は漏らす。


「……迷って、いるんだ。このまま俺が、『厭天王』を倒すために、『鬼ヶ島』に向かってもよいものかと」

「……あぁん? 今さらなに言ってんだ、あれだけ殺す殺すって言っておいてよぉ。いっぺん負けただけで、びびっちまったのか!?」

「違う。俺がやつを倒すことに、迷いはない。ただ……気になるのは、茜のことだ」


 薄れて、かすれて、夢かうつつかもわからないような光景の中で、茜はあの黒い鬼に連れられ、澪丸の前から去っていった。その記憶が、ただ、陽炎かげろうのように、少年の心の内に揺れる。


「人殺しの魔族たちが跋扈ばっこするとはいえ……『鬼ヶ島』なる場所が、魔族の、そして鬼の住処すみかであることに変わりはない。『厭天王』の反応を見るに、茜がそこで冷遇されるということもないのだろう。そういう意味で、『鬼ヶ島』という場所は、人間の世界よりよっぽど、あいつにとって正しい居場所・・・・・・となるはずだ」


 旅の中で、彼女は幾度となく人間の悪意にさらされ、心身に傷を負ってきた。


 そんな彼女が目指すべき場所は、人間の世界には存在しない。魔族が、鬼が住まう世界こそが、きっと彼女の到着地点としてふさわしいのだろう。


「だが、あいつと浅からぬ仲を持つ俺が、その島のかしらである『厭天王』に刃を向けたとき……茜は、島に住む者たちからどう扱われるだろうか? もしも、俺が魔神を殺しでもした日には――あいつはきっと、島から居場所をなくす。せっかく見つけた鬼の住処を、出ていかなければならなくなる」

「……」

「『鬼ヶ島』のほかに、鬼の住処があるという保証はない。――そもそも、『鬼』とは、その知名度に反して絶対的に数が少ない魔族であり……そんなものが、いくつも集落をつくっているとは、俺には思えん。だから……今回の機会を逃せば、あいつは永遠に同族と共に暮らせなくなるかもしれない」


 雅々奈から……否、すべてのものから顔をそむけるようにして、澪丸は語る。


 その口調には、耐えきれぬほどの悲壮の感情がにじんでいた。


「だから、俺は、選ばなければならないんだ。魔神を倒して、茜の未来を犠牲にするか。茜の幸せを選んで、人間の未来を犠牲にするか。ふたつに、ひとつ……決断を、しなければならない」


 苦悶くもんの声が、狭い部屋に響く。


 澪丸は両の拳を固く握りしめながら、ただ、強く歯をくいしばった。



「……なるほど、な」


 少年の葛藤かっとうを理解したように、雅々奈が呟く。彼女はしばらく目を閉じ、なにか考えるようなそぶりを見せたあと、おもむろに澪丸のほうへと歩み寄る。


「わかった、わかった。おめえの考えてることは、よぉく理解した」


 そして――黒髪の女は、とつぜん、「かっ!」と目を見開いたあと、右の拳を振り上げて、空気が張り裂けんばかりの声で叫んだ。



「でも、!!」



 ばきん! という大きな音が響いて、木の幹ですらも揺らす彼女の拳が、澪丸の頬に炸裂した。


 少年の体が冗談のように吹き飛んで、部屋の壁に激突する。そのまま壁の側面に沿って崩れ落ちた澪丸へと、またしても雅々奈の叫びが届いた。



「魔族のいるところに住むのが、幸せだって……!?」

「――っ!?」


 頬に伝う痛みなど忘れて、澪丸は目を見開く。


! それを、おめえが、ありもしない『幸せ』なんか押しつけるから……あいつは、我慢してたんだ! けど……ほんとうは、違うんだよ! ふたり一緒に、なんでもない話をしたり、いろんなところを旅したりする……そういう日常を、鬼っ子は望んでたんだ!」

「――――、」

「そんでもって、おめえは、どうなんだよ!? 心の底から、腹の底から、『鬼ヶ島』にあいつを送り届けて……それで終わりにしたかったのかよ!? それでおめえも幸せになるって、本気で思っていたのかよ!?」



 ――お師匠は、どうしたいの?



 茜があの砂浜で言っていた言葉が、澪丸の脳裏をよぎる。


「……俺は」


 あのとき、澪丸はなにも答えられなかった。それは、答えを知らなかったからではない。ただ――少しでも彼女を傷つけてしまうかもしれないような選択肢をえらぶのが、恐かったから。少年は、なにも言わなかったのだ。



 けれど、いまは違う。


 朦朧もうろうとする意識の中で見た、茜の表情。あれは、これから先の「未来」を恐れ、足を踏み出すことのできない、そんな者だけが浮かべる顔であった。……ならば、このまま彼女が行く先が、正しい道であるはずがない。



「――――俺は!」



 だから、澪丸は立ち上がる。


 なくしたものを、取り戻すために。



「魔神を殺し、茜を奴の手から救い出す! そして……あいつと共にいられる、かけがえのない『未来』を、この手で掴み取ってみせる!!」



 たしかな、宣言。


 その声は、行く先に待ち受ける暗雲ですらも吹き飛ばすような、強い生命の力に満ち溢れていた。



「……へっ。ちょっとは、ましな顔つきになったじゃねーかよ」


 少年の言葉に満足したように、雅々奈は鼻をこすりあげてみせた。





 彼女と共に、それまで話をしていた民家を出る。――雅々奈が村人たちの死体を埋めてくれたとはいえ、村のあちこちには、いまだ残る凄惨な虐殺のあとが見てとれた。この時代における「魔神軍」もまた残虐であり……少人数で立ち向かうには、あまりにも無謀な相手であることは間違いない。


 けれど、澪丸は決して臆さなかった。「過去」を変えるために時を渡った少年は、「未来」を掴むために歩きだす。



 外で待っていた碗太郎が、以前よりも大きく、たくましくなった体で澪丸たちを出迎えた。その口には、茜がかぶっていた、あの編み笠がくわえられている。たしか、「おんじき様」から澪丸を救おうとしたときに、彼女がそれを落としたのだ。


 澪丸は静かにその編み笠を受け取り、頭にかぶる。やわらかく、優しい香りが、少年の鼻をくすぐった気がした。


(……茜)


 迷いも、まどいも、消し去って。

 藍の瞳に、燃えるような意志をみなぎらせて。



 いま……「千魔斬滅せんまざんめつ」が、動きだす。

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