厭土(えんど)
澪丸も、雅々奈も、周囲を囲む村人も――そして「おんじき様」と呼ばれる神でさえも、その咆哮に体を痺れさせ、身動きひとつとることがなかった。はるか地平をも揺るがすかのような「叫び」は、やがて尾をひくこだまを残して、ゆっくりと夜の闇に溶けていく。
「なにが、どうなっている……!?」
泥の中に飲まれていた時間に、いったい、なにが起こったというのか。
静寂が戻った村の広場の中央で、澪丸は戸惑いの声をあげる。
「
応えたのは――脇腹に矢が刺さったまま地面に倒れる、茜であった。どうやら、受けた傷は致命傷ではなかったようだが……それでもかなりの痛みがあるのだろう、彼女は苦痛に顔を歪めつつ、それに耐えるように歯を食いしばりながらも、澪丸へ向けて事の顛末を語る。
「あのひとが放った矢を、碗ちゃんがかわりに受けて……そのまま、ガガちゃんの命令で、碗ちゃんはわたしを咥えて逃げようとした。けれど、そのとき、碗ちゃんの姿がとつぜん変わってしまって――」
茜のもとへと駆け寄り、その体を抱き上げながらも、澪丸はその話に耳を傾ける。
たしかに、姿勢を低くして唸り声をあげる白い巨犬の背には、新八が二回目に放ったであろう鉄の矢が刺さっている。だが、どうしても、澪丸はその魔族が碗太郎であるとは思えなかった。臆病で、穏やかで、
そのとき、澪丸の思考を読んだような、雅々奈の声が飛んでくる。
「なんで急にそんなになっちまったかは、分かんねーけどよ。そいつはたしかに、碗太郎だぜ。雅々奈ちゃんが、あいつを見間違えるわけがねぇ」
「……」
「ずいぶんとまぁ、イカす姿になっちまって……雅々奈ちゃんは嬉しいぜ」
この状況においても、彼女はニヤリと笑って――白い巨犬に向けて、言葉を投げた。
「おい、碗太郎! 雅々奈ちゃんのことが、わかるか!?」
呼ばれた巨犬は、そのたくましい筋肉の詰まった大きな体を動かして、黒髪の女のほうを向く。その眼光は、見る者を震え上がらせるほどに鋭い、「魔族」のものであったが――「彼」は肯定の意を示すように短く吠えて、女のもとへと駆け寄る。
「おーし、いい子だ、碗太郎」
雅々奈は立ち上がり、その頭を撫であげる。すると、白い巨犬の目に、ほんの一瞬だけ、かつてのような優しい光が宿った。
「おまる、鬼っ子! とにかく、今はずらかるぞ!」
そうして、彼女は声高にそう叫んだ。澪丸は素早く首肯し、傷ついた茜を背負って、村の外に続く道へと駆けだす。事を見守っていた十数人の村人たちが、慌ててその行く手を塞ごうと立ちはだかるが――彼らを蹴散らして、澪丸は進む。雅々奈と碗太郎も、同じようにして澪丸の後に続いた。
(刀を失ったのは惜しいが、今はそんなことを言っている場合ではない。一刻も早く安全なところに行って、茜の手当をしなければ……)
そう考える、澪丸の背後で。
『――ヲ、来ルルルル!』
おぞましい「声」が響いた。
『醐、レレレ!』『――ゾン、恕オオオオ!!』
逃げる獲物に怒りをあらわにする「神」は、ぶるぶると体を震わせたあとに、恐ろしいまでの速さで澪丸たちのほうへと動きはじめる。
それはもはや、泥の塊ではなく――すべてのものを飲み込むような、大津波のかたちをとって、少年たちの頭上に影を作った。決して逃さぬという、
『――是、炉ロロロ絽ロアアアアアァッ!!』
(くっ……逃げられないのか……!?)
襲いくる泥の大波を見上げた澪丸が、せめて茜だけでも助けようと、彼女を遠くへ放る準備をはじめたとき――――
突如として、ひとつの黒い流星が天から降り注ぎ――泥の大波を破るようにして、その中心を突き抜けた。
どおぉん! という激しい音が響いて、大地が揺れる。それは、世界から音が消えるほどの、強い衝撃であった。澪丸の背から茜が放り出され、少し離れた草むらへと小さな体が飛んでいく。
「茜!」
少年は叫ぶが、彼自身の体もまた、揺れに飲まれて倒れ伏す。
(今度は、いったい何だ……!?)
あまりにも突然の出来事に戸惑いを覚えながらも、澪丸は体を起こして後ろを振り向く。そして、土煙の向こう、泥が無残に飛び散るその光景の中に、「なにか」が立っているのを視界にとらえた。
やがて、視界を覆う
夜の闇よりもなお深い、漆黒の角。整った顔立ちには苛烈な表情が浮かび、その眼光は獣を射殺すほどに鋭い。髪の毛はそのすべてが天に向かって逆立ち、
「彼」は、自身が衝突したことにより、その泥のような体が飛散した
「鬼の気配がしたもので、部下ともども駆けつけてみれば――やはり、愚かな人間どもと、忌々しい『
その鬼は、人間の年齢でいえば澪丸と同じ十五、六くらいであろう、その若い顔に
「……何度。いったい何度、我々は傷つけられなければならないのか。やはり、人間を滅ぼすそのときまで、我ら魔族に安寧の時は来ないというのか」
村の広場全体に散った「おんじき様」の飛沫は、地面にこぼれたまま、ぴくりとも動かない。その神がすでに絶命していることは、わざわざ気配を探らなくとも、容易に理解できた。
明らかに異様な雰囲気を持った漆黒の鬼を前にして、澪丸は戦慄する。それは、「彼」が一撃で「おんじき様」を葬ったからでも、その容姿が特異だったからでもない。ただ――その鬼から放たれる、息が詰まるような気配を、少年が知っていたからである。
忘れようと思っても、忘れられようはずもない、あの感覚。
「
その姿形、そして大きさは、澪丸が知っているものとは大きく異なっていた。「未来」の魔神は、山よりも大きく、額に多くの角を持つ、まさしく怪物と呼ぶにふさわしい存在であったのだ。この、人に近いかたちをした鬼とは違う。
だが――魔神は人間を喰らえば喰らうほどその力を増し、外見すらも変化させる。それを考慮すると、この鬼が多くの人間を喰らう前の魔神であっても、なんら不思議はなかった。そしてなにより、この漆黒の鬼が放つ、恐ろしく、おぞましい気配が、この鬼が魔神であると、澪丸に叫んでいるのである。
「待っていた……。この時を、待っていたぞ――厭天王!!」
少年は、飛び散った「おんじき様」の中から出現し、近くまで転がってきていた瑠璃色の宝刀を掴み上げる。そうして、全身を駆け巡る武者震いに身を任せたまま、漆黒の鬼へと斬りかかった。
「む……?」
月光の下、飛散した「神」の亡骸を眺めていたその鬼は、わずかに遅れて澪丸の姿を視界に入れる。その瞬間にはすでに、澪丸は
「おおおおおおおッ!!」
気合いと共に放たれたのは、「
ギン! という音と共に、鬼の鋭い爪によって、瑠璃色の刃が受け止められた。
「……ほう。人間如きにしては、なかなか強力な一撃だ」
「厭天、王……!!」
ギギギギギ、という軋むような音が生まれて、黒い爪と青い刃が拮抗する。だが、澪丸がその全体重をかけて両腕で刀を振るっているのに対し、漆黒の鬼は片手でそれを受け止めながら、余裕の表情を浮かべていた。
――否。彼が見せるのは、決して涼しい顔ではなかった。人間の女ですらも惚れさせるような、その端正な顔立ちに彼が浮かべるのは、怒りと憎悪が混ぜ合わさったような、迸る激情の色である。
「だが、人間。我の名前を、間違えてはくれるな。我は、
そして、残る片手に備わった爪の先を、澪丸の脇腹へと振るう。少年は間一髪それを避けたあと、後方へ大きく飛びすさった。
「いまのおまえの名前など、俺にとってはどうでもいい。ただ……おまえがすべての人間を喰らいつくす、その最悪の未来を止めるために、俺はおまえを殺す!」
強い宣言と共に、澪丸は刀を鞘へと納めた。もちろん、それは
あえて言うならば……この一撃ですべてを終わらせるという、
「『
刀の柄を握り、体を限界まで引き絞る。肉が、骨が軋むのも
「――
やがて、空気をも両断するかの如き音速で、瑠璃色の鞘が放たれた。瞬きをする時間すらなく、必殺の一撃が鬼へと飛ぶ。
避ける暇など、あるはずもなかった。
「――ッ!」
だが。
漆黒の鬼は、初めて見るであろうその奇妙かつ激烈な一撃を、すんでのところで見切り……硬い皮膚で覆われた両の手で、襲い来る鞘を受け止めた。
ずざざざざざっ! という音をたてて、衝撃を受け止めきれなかった鬼の足が、地面にまっすぐな
手の中に残った鞘を放り捨て、ひとつ息をついてから、「
「ふん。確かに、これまで我が戦ってきた人間には、このような技を使う者はいなかったが……しょせんは、人間が放つ攻撃。我に傷をつけるには、とうてい及ば――」
瞬間。
鞘を放ったと同時に
「なっ……!?」
驚愕の声をあげる鬼の胸から、青い血が噴き出した。瑠璃の宝刀は、彼の硬い皮膚をも切り裂き、深い傷を与えたのである。
「『
さらに、一閃。
――だが、その刃は、体勢を立て直した「厭土」の爪によって阻まれる。
「人間、如きが……ッ!」
そのまま、漆黒の鬼は太い足を踏み鳴らした。その規格外の脚力は、地面をも揺るがし、澪丸の足元をすくう。
「くっ……!」
足を崩された澪丸へと、鋭い爪が迫る。刀による防御も間に合わず、少年の体が、いまにも引き裂かれようとして――
「うをらぁぁぁっ!!」
両者の間に割って入った黒髪の女が、間一髪、金棒で爪を防いだ。
「――雅々奈!」
「こいつぁ、今まで会ったなかでも、とびっきりやべーやつだぜ! 雅々奈ちゃんの心臓が、びんびんいってやがる!」
彼女は心の底から嬉しそうな笑みを浮かべて、叫ぶ。その長い髪が、喜びに打ち震えるように風にたなびいていた。
彼女と力を合わせれば――あるいはこの鬼を倒せるのではないかと、澪丸は希望を抱く。
(いけるかも、しれない。今、ここで、魔神を殺して……人の世を、守れるかもしれない……!)
どおん!! と音をたてて、横合いから飛んできた
金棒ごと大きく飛ばされて、雅々奈の体は広場の向こう、丘の下にまで投げ出される。急斜面を恐ろしい勢いで転がったあと、水面を割るような音が響いて、彼女は暗い夜の海へと沈んでいった。間髪入れずに、波にのまれた彼女を助けるようにして、碗太郎も海へと飛び込む。
「何者……!?」
驚愕の声をあげて、澪丸は雅々奈を吹き飛ばした拳の持ち主……その大きな影を見上げる。
その口が開き――夜の闇に、明朗な野太い声が響いた。
『
大猩猩の魔族の言葉に、「厭土」はひとつため息をついて、反論するように口を開く。
「愚かな人間と、
『へいへい。野郎どもに、ヘマしてるとこだけは見せないでくだせぇよ』
そう言って、金色の甲冑に身を包んだその巨大な魔族は、ぐるりと辺りを見渡す。
(……?)
突如として姿をあらわした大猩々の魔族を警戒しながらも、澪丸は彼の動作につられるようにして周囲へと視線を巡らせて――そこにいる
「……ッ!?」
魔族の、群れ。
ふいに姿を現したそれらの異形は、村の広場を取り囲むようにして、澪丸を見下ろしていた。
(不覚……! 厭天王に、気をとられすぎたか! ここまでの数の魔族の接近に気づかないなど……!)
舌打ちをするも、時すでに遅し。
澪丸たちは、完全に逃げ場を失っていた。
「……おまえたち、ようやく追いついたか」
漆黒の鬼が、数々の巨大な影に向かって、告げる。
「――ちょうど良い。我が部下になってまだ日が浅いものもいるだろうから、ここでひとつ、我の力をおまえたちに見せてやろう。ここに、ほどよい獲物もいることだしな」
澪丸のほうを見て不敵に笑う「厭土」の言葉に、魔族たちはにわかにざわめきはじめた。彼らは互いに顔を見合わせたあと、「
彼らのその様子に満足したように、漆黒の鬼はふたたび澪丸へと向き直って――仕切り直すように、告げる。
「さて、人間。なぜおまえが、そこまでして我に刃向かうのか……その理由は知らんし、知りたいとも思わん。だが、その程度で、我を殺せるなどとは思わないことだ」
そして、「厭土」は体に力を込めるように低く唸る。それと同時に、びり、びりと、空気が揺れるような震動が、漆黒の鬼を中心にして巻き起こった。
なにかが起こる「予兆」のようなものを感じ取って、澪丸は身構える。本来であれば、いまこの瞬間に斬りかかるべきであろうが――鬼の発する、言い知れない「圧」とでも呼ぶべきものが、少年の決断を鈍らせた。
「こおおおおっ……!!」
漆黒の鬼は、なおも「溜め」を作るようにして唸る。大気が震えるあまり、地面から
そして。
美しくも苛烈な容姿を持つ鬼の、その額を突き破って、もう一本の角が姿を現した。
「さぁ……始めようか」
澪丸が認識できたのは、そこまでだった。
気がついた瞬間、少年の脇腹から、赤い血が滝のように噴き出していた。澪丸はしばらくの間、
「――否。『終わらせよう』と言ったほうが、よかったか」
その声が、合図となったかのように。
澪丸の体に、衝撃と痛みが襲い来て――少年は、冷たい地面に倒れ伏した。
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