変貌


 上も、下も、わからない。


 ただ、ねばついた奇妙なものが体にまとわりつくような不快な感覚だけが、澪丸の脳裏を巡っていた。手足の感触が奪われ……抗うこともできないまま、少年は渦のようなものに流されていく。


(…………)


 なにも、考えることができない。ここから抜け出し、茜を助けなくてはならないのに。思考力までもがなくなってしまったかのように、頭が回らなかった。


 黒く、暗い、世界。


 どこまでも続くような闇だけが広がり、時の流れすらもあいまいになる空間で――ふと、澪丸は、なにかの遠吠えのようなものを聞いた。


(……、これは)


 それは、どこかで聞いたことのあるような声であった。働かない頭を必死で動かして、その声の主を思い出す。


 穏やかな顔をした、白い毛並みを持つ犬の姿が、澪丸の脳裏に浮かんだ。


(……なんだ、おまえか……)


 優しいが気の弱い、とうてい魔族だとは思えないような「彼」。主人に振り回され、なにかと苦労しながらも、なんだかんだで尻尾を振って彼女についていくような、そんな巨犬。


碗太郎わんたろう。せめておまえだけは……逃げろ。おまえは、こんな戦いに巻き込まれて、無事で済むほど強くはない……)


 そのとき。


 暗闇をたゆたう澪丸の体が、なにか硬く尖ったものに挟みこまれた。少年がなにか反応を見せる前に、それ・・はぐんぐんと闇の中を泳ぎ、「外」に向けて進みだす。


(……なんだ?)


 視覚が奪われているために、その姿は見えない。しかし、澪丸を連れて力強く泳ぐその気配は、少年のよく知る「彼」のものであった。


(……、おまえは)


 やがて突然に、暗闇が途切れ――澪丸は「外」へと放り出される。それと同時に、鈍っていた五感が鮮明さを取り戻し……自分を泥の化け物の中から引きずり出した者の姿が、少年の目に映った。



 針のように鋭い、白い体毛。引き締まった体から伸びる四肢の先には、鉄ですらも切り裂くような鋭い爪が伸びている。低く唸る口からは尖った牙がのぞき、泥の塊を見据える眼光には恐ろしい魔族の威光が宿る。


「……碗太郎わんたろう?」


 今の状況も忘れて、ぽつりと、澪丸はその名を呼ぶ。


 白い体毛の、巨犬。しかしその様相は、澪丸が知るものとは大きくかけ離れていたのだ。あれほど弱々しかった「彼」の雰囲気は、いまや立派な魔族のそれになっている。



「……おい。どうしちまったんだよ、碗太郎ぉ!?」


 どうやら、澪丸よりも先に「彼」に救出されたらしい雅々奈が、戦慄の表情を浮かべながら、変わり果てた「相棒」の姿を見て震える声を発する。



「オ……オオオオオオオオオオオッ!!!」



 異様な空気がたちこめる、月明かりの下――白い巨犬が、その大きなあぎとを開き、世界の隅にまで届くような雄叫びをあげた。


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