六章 波より出ずる黒の海神(わだつみ)

旅の終わり


 耳を洗い流すような、綺麗な波の音が辺りに響く。潮風が澪丸の頬を撫でて、その髪を揺らした。


 見渡す限りの、大海原おおうなばら。照りつける陽の光は強く、海鳥が自由に飛び交う。はるか向こうの水平線は、空の青に溶けてかすんでいた。視界をさえぎるものはなにもなく、ただ広い世界だけが、少年の前に広がっている。


 ――と、そこで、浜の砂を巻き上げるようにして駆ける、ふたりと一匹の姿が、澪丸の目に映った。


「これが、うみ……!?」

「でっけぇぇぇっ!!」

『わおうっ!』


 どうやら、彼女たちはみな海を見るのが初めてのようだった。それも不思議はない。茜は閉鎖的な鬼の集落で生まれ育ち、雅々奈と碗太郎は内陸にある山でずっと過ごしていたのだから。いきなりこんな光景を見せられて、興奮するなというほうが難しいだろう。


 かくいう澪丸も、海を見るのはこれで四度目であった。もちろん、そのどれもが「未来」のことではあったが……海というものは、いつの時代も変わらず、自分の存在がちっぽけに思えるほどに広いものだと、少年は考えた。


 

 雅々奈がはるか海の向こうを指さして、白い巨犬に向かって告げる。


「うっしゃ! 泳ぐぜ、碗太郎! どっちが遠くまでいけるか、勝負だ!」

『わおん!?』

「なんだ、びびってんのかよ!? ――おめえはいつもそうだよなー、っさい頃からよぉ。夜中に小便しょんべんいくときだって、雅々奈ちゃんがいねえと怖くて震えるし。ちょっと大きい物音がしただけで、威嚇いかくもせずに縮こまっちまう。そんなんでいいのかよ、オスだろおめえ!」

『わうーん……』


 主人の無茶な要求に耐えかねたように、巨犬がその四本の足を動かして澪丸のほうへ駆け寄る。そうして、困ったような顔をしながら、少年の後ろへと隠れるのだった。


「……助けてくれ、と?」

『わん』

「……なにを言っているのか、わからん」

『わんわん、わうう』


 なにかを必死で求めるように、碗太郎は鳴き声をあげる。しかし、澪丸にその言葉がわかるはずもなかった。


(逆に、雅々奈のやつはこの言葉が理解できているのか……?)


 澪丸が内心で冷や汗をかいた瞬間、長い黒髪の女が、腰に下げた巾着袋きんちゃくぶくろからなにかを取り出して、海のほうへと投げる。


「ほらよ、おめえの好きな、木の実だ!」


 彼女が声をあげた瞬間、澪丸の後ろにいた碗太郎が、弾かれたようにして飛び出す。ほとんど反射的に動いてしまったであろう彼は、ほんのわずかに躊躇ためらうそぶりを見せたあと、それでも食い物の誘惑には抗えなかったようで、その四肢を動かして海水へと飛び込んでいった。


「うっしゃ、雅々奈ちゃんもいくぜ!」


 そして彼女は彼女で、これまでの澪丸の注意をすっかり忘れてしまったが如きいさぎよさで服を脱ぎ捨て、波の奥へとかき進んでいった。


(……こいつらの頭には、食い物と遊ぶことしかないのか?)


 苦笑いを浮かべる澪丸の耳に、「うああしょっぺえええなんだこの水!?」という雅々奈の叫びが届いた。




 なには、ともあれ――澪丸たちは、旅の果てに、海に面した場所まで辿り着いた。


 いまのところ、「鬼ヶ島」らしき島影は海の上には見えなかったが……おそらく、ここからそう遠くない場所に、その島はあるのだろう。「夜可郎やかろう爺」の言い方からするに、その島を見つけるのにとくべつ苦労することはないはずだ。



 澪丸は遠く海原を見つめながら、考える。


 「鬼ヶ島」に、厭天王えんてんおうがいるのかは分からない。けれど、少なくとも、そこに辿り着いてしまえば――澪丸と茜の旅は、終わる。


(…………)


 名残なごり惜しくないといえば、嘘になる。けれど、茜を鬼の集落まで送り届けるということは、いまの澪丸にとって「魔神殺し」と並ぶほどに重要な役目であった。いまさら引き返すことはできないし――引き返したところで、そこに茜の幸せはない。彼女は澪丸のような「人間」ではなく、鬼の中にかえるべきなのだ。


「お師匠」


 そのとき、思いつめたような顔を浮かべる澪丸に対して、茜がふいに声をかけた。


 彼女は寄せては返す波をもの珍しそうに見つめながら、ぽつりと漏らす。


「わたしは、たすけてもらったひとがお師匠で、よかったとおもっているわ」


 編み笠の下の紅玉のような瞳が、静かに揺れる。彼女もまた、どこか悲しそうな顔を浮かべていた。


「お師匠は、まじめでぶきようだけど、とってもつよい心をもっていて……いつも、わたしを守ってくれた」

「……茜」

「楽しかった。お師匠とか、ガガちゃん、わんちゃんと旅をするのは。みじかい間だったけど……この旅のことは、きっと、一生、忘れない」


 そう告げたあと、茜はふいに、顔を隠すように編み笠のつばを下に向けた。


 彼女はどこか、嗚咽おえつをこらえるようにしゃくりあげたあと――ふたたび顔を上げて、澪丸をまっすぐに見据える。その頬には、かすかに涙の跡が残っていた。


「でもね、お師匠。わたしは、お師匠がいいって言うなら、『鬼ヶ島』なんかには行かないで、ずっとお師匠と――――」

「駄目だ」


 懇願するように口を開いた茜へと、澪丸は強く言い放った。その語気に、茜がびくりと体を震わせる。


「どうして……」

「俺が人間で、おまえが魔族だからだ」


 吹き抜ける潮風が、ふたりの髪を揺らす。岩にぶつかって砕ける波の音が、遠くから響いてきた。


「俺はもう、おまえを魔族だからといって遠ざけたりはしないが……この世界は、そうじゃない」

「世界……?」

「そうだ。人間と、魔族。その両者は数百年も前から互いに憎み合い、殺し合っている。長い時を経て絡まり合った怨嗟えんさの鎖は、もう、ほどけないんだ。それはやがて、生けるすべての者が逃れられないほどに肥大化し――遠い未来・・・・、この世を終わらせることになる」


 少年の脳裏に浮かぶのは、曇天の下、崩壊する都と――山のようにそびえ立つ、黒く恐ろしい影。


「この旅の途中で、おまえも理解しただろう? 人間と魔族がともに生きることが、どれほど難しいかということを」

「……」


 澪丸の言葉を受けて、茜は目を伏せる。その横顔に向かって、澪丸はどこか命令するように強い口調で告げた。


「同じ魔族、同じ鬼とともに暮らすことが……おまえにとって幸いになる。だから、おまえは――」

「お師匠は」


 そのとき、茜がふいに顔を上げて、ふたたび澪丸と目を合わせた。その眼差しの奥には、彼女の感情を示すような、紅く燃えさかる炎の影が映っていた。



お師匠は・・・・どうしたいの・・・・・・?」

「――――、」


 その、短い問いかけに。


 それまで饒舌じょうぜつに語っていた少年の口が、固く閉ざされる。


 ふたりの間に声が消えて、ただ、打ち寄せる波の音と、海鳥の鳴き声だけが、辺りに響く。この、穏やかで静かな時間が永遠に続くかのように――空が、どこまでも青く透き通っていた。


「……俺は」


 やがて、長い沈黙を打ち破るように、澪丸が口を開いたとき。



「おーい、そこのヒト。あんたら、旅人かい?」


 ふいに遠くから声をかけられて、澪丸は弾かれたようにそちらを見る。すると、海の向こう、白波の上に、一隻の小舟が浮かんでいた。その舟には三人の男たちが乗っており、そのうちの中央に立つ、がたい・・・の良い人物が、澪丸たちに呼びかけたのであった。


 両肩をはだけさせ、ねじり鉢巻を頭に巻いた格好や、その手に持った大きな網から、彼らがこの辺りに住む漁師であることが伺える。だが、肝心なのは、その男たちが何者か、ではなく――その目が、浅瀬で雅々奈とたわむれる碗太郎へと、すでに向いているということである。


 言うまでもなく、白い巨犬は、その大きさから魔族であることが一目瞭然であった。彼らがその存在に驚いて逃げてくれればそれでいいが、もしも攻撃でもしてこようものなら、澪丸は刀を抜かなくてはならない。


(これまで山道ですれ違った人間は、碗太郎に驚いて皆道を譲ったが……こいつたちは、どうだろうか。漁に出ている以上は、海に住む魔族と戦えるだけの装備を舟に積んでいるはずだ。そうでなくとも、海の男は血気が盛んだというし――なにか仕掛けてきても、おかしくはない)


 澪丸は刀の柄に手をかけて、舟のほうを睨みながら構える。



 やがて、三人の男を乗せた舟は、ゆっくりと澪丸たちに近づいてくる。緊張を募らせる澪丸に対し、その男たちは敵意がないことを示すように両手を挙げて――そのうちの一人が、朗らかな声でこう叫んだ。



「ちょい、ちょい。おらたちは、あんたらになんかしようってんじゃねぇ。ちょいと、『まれびと』としてうちの村まで来てくれんかと思って、声をかけたんだ!」

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