守りたいもの、守りたかったもの
暖かい空気が満ちる、広い小屋。
毛皮を脱いだ
「……助かった。礼を、言おう」
静かな口調で、澪丸は髭面の男へと再び頭を下げる。男は、かつて澪丸が見たことがあるような、野蛮かつ快活な笑みを浮かべて、言った。
「なぁに、見ず知らずとはいえ、行き倒れた兄ちゃんを放っといたなんて女房に知られたら、おれが怒られちまう。うちの女房は、鬼みてぇにおっかねぇんだぜ?」
その言葉を聞きつけたのか、小屋の隅で赤子をあやしていた女がこちらを向いて、低い声を飛ばしてきた。
「よく分かってるじゃないか、あんた。その物分かりの良さに免じて、あたしのことを鬼だって言ったのは、拳骨一発で勘弁してやるよ」
「うへぇ。やっぱ、おっかねぇ……」
腕の中の赤子が寝ついたのを確かめて、女は立ち上がり、澪丸のほうへと歩み寄る。そうして、夫と喋るときとはうって変わった高い声で、少年へと問いかけた。
「あんた、
明神山、という響きに聞き覚えはなかったが――そのあとの言葉を聞いて、澪丸は驚きに目を見開いた。
そのまま何も言えずに固まる澪丸を前に、女は「やっぱり」と呟いたあと、再び口を開く。
「あの洞窟は、神隠しが起こることで有名なんだ。あそこに入った人間が、
「……」
「あんたの服装を見て、分かったよ。それは、明らかに冬の山に入るような
不可解な事態に戸惑う澪丸を安心させるように、女は穏やかな声で告げる。
「『明神の迷い子』っていうのは、あの洞窟からある日とつぜん出てくる人間のことでね。みんながみんな、『自分は別の時代から来た』って口にするのよ。ふつうだったら、信じられないような話だけど……『明神の迷い子』が語る話は、嘘だと思えないほどの
そこまで聞いて、澪丸はようやく温まり、正常な思考が戻りはじめた頭で、考える。
(――やはり、俺はまた「時渡り」をしてしまったのだ )
あの
澪丸は、ほのかに木々の香りが漂う小屋の中を見渡した。ここは、山の中にぽつりと建てられた一軒家である。髭面の男は、ここに来る途中、自分が猟師をしていることや、家には女房と生まれたばかりの子供がいることを、澪丸に語った。その話をするときの彼の表情は、幸せに満ちていて――彼が「守りたかったもの」が何であるか、澪丸は心の内で察した。
囲炉裏の中の火が、ぱちりと音をたてて爆ぜる。
「それにしても、いったいどうして、『
そのとき、ふと、男が澪丸へと尋ねた。少年は顔を上げると、真剣な表情を作って、彼へと返す。
「俺がなぜ、あそこに引き寄せられたか……その理由は、よく分からない」
低く、覚悟に満ちた声で、澪丸は告げる。囲炉裏の火を受けて、少年の影が、小屋の壁に踊った。
「だからこそ俺は、知らなければならないんだ。あの塚……『鬼塚』といったな。それが一体、なんであるかを。あれが、なんのために築かれたものであるかを。知っていることだけでいい。俺に、教えてはくれないだろうか」
それを聞けばもう、後戻りなどできないような気がした。それでもなお、澪丸が男へとそう尋ねたのは――人の生というものは、もとから後戻りなどできないものであるということを、少年が知っていたからである。
「……おれだって、詳しく知ってる訳じゃねぇが」
やがて、澪丸の鬼気迫る表情に
「なんでも、あそこは三〇〇年も昔に、鬼が住んでいたところであるらしい。鬼とはいっても、おとなしい奴だったみたいで……人間に危害を加えるようなことは、決してしなかったそうだ」
語られるのは、昔話。
遠い遠い時代の、物語。
「名前をなんといったのかは、知らねぇ。けど、角を隠すように編み笠を被ってたから、このへんに住んでる奴は『あみがさ鬼』って呼んでたみたいだ。そいつは奇妙なことに、なにをするでもなく、じっとなにかを待つように、『明神の洞窟』のほうを見ていたらしい」
ぱちり、ぱちりと、火が爆ぜる。
澪丸の、髭面の男の、影が揺れる。
「たまに洞窟のほうへ行ったかと思うと、落胆したような顔で戻ってきて、またじっと河原に立ち続けていたみたいだ。ごくたまに、髪の長い女とか、狼の魔族が、そいつの元を訪れていたみたいだが……ほとんど年中、そいつは独りぼっちだったという。何年も……いや、何十年も、そいつはなにかを待ちつづけていた」
外を吹き荒れる吹雪の音が、小屋の中にまで響く。
澪丸は、なにかを噛みしめるようにしてその話を聞いていたが――そこで男が黙ったのを見て、耐えきれなくなったように口を開く。
「それで……どうなったのだ」
「あん?」
「その鬼はどうなったのかと、きいている!」
ばん! と少年は勢いよく床を叩く。その衝撃で、鍋の汁が火の中にこぼれ、水が焼けるような音が響いた。
澪丸の取り乱しように、男は面食らったように目を丸くしたあと――続く言葉を告げる。
「どうにも、なってねぇ。いつだかは分からねぇが、そいつは死んだ。これもまたずいぶんと昔、名のある僧侶だかが、そいつを憐れんで、あの塚を建てたというが……俺が知ってるのは、そこまでだ」
男の言葉が終わると同時に、小屋の中に静寂が生まれる。
囲炉裏の火が、ただ、何事もなかったかのように、強く燃えつづけていた。
「……そうか」
先ほどの
黙り込んでしまった少年を、髭面の男が不思議そうに眺める。彼は「いったいどうしたってんだい?」と口に出すが、隣に座る女房の
「……その、鬼は。あんたにとって、大切な存在だったのかい?」
澪丸へと向き直った女房は、少年をいたわるように優しい口調で、そう問いかける。彼女はどうやら、澪丸の置かれた状況やその態度から、おおかたの事情を察したようだった。そのうえで、彼のやる場のない感情を外へ引き出し、気持ちを整理させようとしてくれているのだ。
その心遣いに、暖かく染み入るような感謝を覚えながらも――澪丸はぽつり、ぽつりと、閉じていた口から言葉を漏らす。
「……あいつが、俺にとって『何』だったのかは、俺にも分からない。最初は、魔族……鬼として、俺はあいつを殺そうとしたんだ」
不思議と、言葉が溢れてくる。
思い出すのは、もうずっと遠い「昔」、少年が彼女と出会ったときのことだった。彼女の紅い瞳の中に浮かんでいた「ゆらめき」が、澪丸の脳裏に映し出される。
「けれど、俺はあいつを殺せなかった。……同情、したんだ。家族を、仲間を殺され――なすすべもなく、たった独りで過酷な世界に放り出されたあいつは、昔の俺と同じだった」
ぱち、ぱちと、なおも囲炉裏の火は
「それから、俺はあいつと旅を続けて……短い間だったが、いろんなことを話した。あいつは大抵、
少年の独白を、山小屋に住む夫婦はただ黙って聞いていた。部屋の隅で寝かしつけられた赤子の安らかな吐息が、少年の声の隙間を縫うようにして響く。
「あいつの仲間を取り戻す機会もあったが……俺の力不足で、それもかなわなかった。だからこそ、俺は、あいつだけは守ると、固く誓ったんだ。けれど――俺の不注意で、俺はまたしてもあいつを、独りぼっちにしてしまった」
澪丸は、自らの体を抱き寄せるようにして縮こまった。
そこに、「
いまの彼はただ、自らの
「……俺は、無力だ。世を滅ぼした
声にならない
――そのとき。
ばしん! という、大きな衝撃が襲った。
あまりにも突然の出来事に少年が驚いて、顔を上げると……そこには、いつになく真面目な表情をした、髭面の男の姿があった。澪丸は、そこでようやく、彼に背中を叩かれたのだという事実を認識する。
「男が、泣いてんじゃあねえよ」
彼は、強い口調で澪丸へと告げる。
「そんなに、大切なもんがあったっていうなら。歯ぁ食いしばってでも、泥水すすってでも、取り戻してみせろよ。命のひとつでも、投げうってみせろよ!」
気迫に満ちた怒声が、澪丸の耳を打つ。小屋の中の空気までもが震え、囲炉裏の火が揺らめいた。
澪丸は、その勢いにわずかに
「取り戻す、だと? 茜は、もう、死んでしまったというのにか? いまさら俺ができることなど、なにも――」
「
男はおもむろに振り返って、後ろの壁のほうを見やる。否、彼が示すのは、壁ではなく……その、向こう。山々を越えた先に存在する、
――「
「無茶だよ、あんた!」
そのとき、女が血相を変えて、夫へとくいかかった。彼女の額には、冷たい汗が浮かんでいる。
「いままでにも、『明神の迷子』がもといた時代に帰ろうとして、あの洞窟に戻ったことがあった。けれど、だれ一人として、もう一度『時渡り』ができた人間はいないんだよ。それだけならまだいいけれど……その『明神の迷子』たちは、例外なく、その後、洞窟の中で死体で見つかっているんだよ! たった数日しか経っていないのに、干からびた
「それが、どうした」
必死の
そして。
男は、茫然と自身を見つめる少年に向き直って――真剣な表情から一転、いつか見たことのある、野蛮かつ快活な笑みを浮かべてみせた。
「泣くほど後悔しているんだろ? だったら、あんたは動くべきだぜ――
強く、確かな、澪丸を
その言葉に、澪丸はゆっくりと顔を上げる。そうして、自分自身の力で、板張りの床を踏みしめて立ち上がった。その足取りは――先ほどまでの
――茜のいた時代に戻るため、再び時を渡る。
その挑戦が成功する根拠があるわけではなかった。ただ、ここで止まっていることが、自分のために――そして、自分をひたすらに待ち続け、死んでいった茜のためになるはずがなかったから。澪丸は拳を強く握りしめて、戸口へと歩きだす。
「ち、ちょっと……待ちなよ!」
慌てた様子で、女が澪丸の肩をたたく。それでもなお振り返りもしない少年に、彼女は壁にかけてあったぶ厚い獣の毛皮を手渡した。
「せめて、これだけは着ていきなよ。洞窟に辿り着く前に
彼女は心配そうに澪丸の顔を覗き込んだが、少年が出発するのを止める気まではないようであった。
暖かく、手触りの良い毛皮を羽織りながら、澪丸は女と、その向こうに座る髭面の男に向けて深く礼をする。
「改めて……助けていただき、感謝する。この恩は、一生忘れはしない」
「その礼といってはなんだが……ひとつ、伝えておきたいことがある。
そうして、少年は外へつながる戸を開けた。その向こうには、なおも止む気配を見せない吹雪が、すべてを飲み込むかのように吹き荒れている。
最後にもう一度振り返り、夫婦の顔を目に焼きつけてから、澪丸は走り出した。その足取りに迷いはなく、少年はまるで野生の獣の如きすばやさで木々の間を駆け抜けていく。
なおも心配そうにその背中を見送る女房に向けて、髭面の男は静かに言った。
「大丈夫だ。あの
男は、碗の中に残った鍋の汁を勢いよくかき込んでから、その器を乱雑に床へと置いた。
そうして――口の周りについた汁を袖でぬぐいながら、不思議そうな顔を浮かべて、告げる。
「だが、兄ちゃんが最後に言ってたことは、よく分かんなかったな。『マジン』ってえのは……いったい、なんのことなんだ?」
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