守りたいもの、守りたかったもの


 暖かい空気が満ちる、広い小屋。


 囲炉裏いろりの中で明るい火が燃えて、炉にかけられた鉄鍋に熱を伝える。黒い鍋の中に放り込まれた肉や野菜が、澪丸の空腹を誘うように、出汁だしの中を踊っていた。


 毛皮を脱いだ髭面ひげづらの男が、火の通った食材を器に取り分け、少年へと差し出す。澪丸はひとつ頭を下げてからそれを受け取ると、ひといきにそのすべてをかきこんだ。体の芯から温まるような感覚が、少年の腹から全身へと伝わる。


「……助かった。礼を、言おう」


 静かな口調で、澪丸は髭面の男へと再び頭を下げる。男は、かつて澪丸が見たことがあるような、野蛮かつ快活な笑みを浮かべて、言った。


「なぁに、見ず知らずとはいえ、行き倒れた兄ちゃんを放っといたなんて女房に知られたら、おれが怒られちまう。うちの女房は、鬼みてぇにおっかねぇんだぜ?」


 その言葉を聞きつけたのか、小屋の隅で赤子をあやしていた女がこちらを向いて、低い声を飛ばしてきた。


「よく分かってるじゃないか、あんた。その物分かりの良さに免じて、あたしのことを鬼だって言ったのは、拳骨一発で勘弁してやるよ」

「うへぇ。やっぱ、おっかねぇ……」


 腕の中の赤子が寝ついたのを確かめて、女は立ち上がり、澪丸のほうへと歩み寄る。そうして、夫と喋るときとはうって変わった高い声で、少年へと問いかけた。


「あんた、明神山みょうじんやまにある洞窟から来たんだろう?」


 明神山、という響きに聞き覚えはなかったが――そのあとの言葉を聞いて、澪丸は驚きに目を見開いた。


 そのまま何も言えずに固まる澪丸を前に、女は「やっぱり」と呟いたあと、再び口を開く。


「あの洞窟は、神隠しが起こることで有名なんだ。あそこに入った人間が、忽然こつぜんと消え失せる……なんてことが、これまでに何度かあった。そして……その反対に、本来はいないはずの人間が、突然あの洞窟から出てくることもあるんだ」

「……」

「あんたの服装を見て、分かったよ。それは、明らかに冬の山に入るような恰好かっこうじゃない。どうやら自殺をしようとしたわけでもなさそうだし……これは間違いなく、『明神のまよ』だってね」


 不可解な事態に戸惑う澪丸を安心させるように、女は穏やかな声で告げる。


「『明神の迷い子』っていうのは、あの洞窟からある日とつぜん出てくる人間のことでね。みんながみんな、『自分は別の時代から来た』って口にするのよ。ふつうだったら、信じられないような話だけど……『明神の迷い子』が語る話は、嘘だと思えないほどの信憑性しんぴょうせいがあってね。とても、でまかせ・・・・を言っているふうには思えないんだ」


 そこまで聞いて、澪丸はようやく温まり、正常な思考が戻りはじめた頭で、考える。


(――やはり、俺はまた「時渡り」をしてしまったのだ )


 あのみどりに光る鉱石が、「常磐たる勾玉」と同じような力を持っていたことは、もはや疑いようもない。澪丸は、未来に進むかたちで、再び時を越えたのだ。髭面の男がまだ生きていて、しかも澪丸のことを知らないということは……ここはおそらく、まだ魔神に滅ぼされる前の世界なのだろう。男の顔つきが澪丸の知るものとあまり変わっていないのは、魔神軍との決戦からそれほど前の時代ではないということか。


 澪丸は、ほのかに木々の香りが漂う小屋の中を見渡した。ここは、山の中にぽつりと建てられた一軒家である。髭面の男は、ここに来る途中、自分が猟師をしていることや、家には女房と生まれたばかりの子供がいることを、澪丸に語った。その話をするときの彼の表情は、幸せに満ちていて――彼が「守りたかったもの」が何であるか、澪丸は心の内で察した。



 囲炉裏の中の火が、ぱちりと音をたてて爆ぜる。



「それにしても、いったいどうして、『鬼塚おにづか』の前で倒れてたんだ? わらきれなんか、握りしめてよ」


 そのとき、ふと、男が澪丸へと尋ねた。少年は顔を上げると、真剣な表情を作って、彼へと返す。


「俺がなぜ、あそこに引き寄せられたか……その理由は、よく分からない」


 低く、覚悟に満ちた声で、澪丸は告げる。囲炉裏の火を受けて、少年の影が、小屋の壁に踊った。


「だからこそ俺は、知らなければならないんだ。あの塚……『鬼塚』といったな。それが一体、なんであるかを。あれが、なんのために築かれたものであるかを。知っていることだけでいい。俺に、教えてはくれないだろうか」


 それを聞けばもう、後戻りなどできないような気がした。それでもなお、澪丸が男へとそう尋ねたのは――人の生というものは、もとから後戻りなどできないものであるということを、少年が知っていたからである。



「……おれだって、詳しく知ってる訳じゃねぇが」


 やがて、澪丸の鬼気迫る表情にされながらも、男が口を開いた。


「なんでも、あそこは三〇〇年も昔に、鬼が住んでいたところであるらしい。鬼とはいっても、おとなしい奴だったみたいで……人間に危害を加えるようなことは、決してしなかったそうだ」


 語られるのは、昔話。


 遠い遠い時代の、物語。


「名前をなんといったのかは、知らねぇ。けど、角を隠すように編み笠を被ってたから、このへんに住んでる奴は『あみがさ鬼』って呼んでたみたいだ。そいつは奇妙なことに、なにをするでもなく、じっとなにかを待つように、『明神の洞窟』のほうを見ていたらしい」


 ぱちり、ぱちりと、火が爆ぜる。


 澪丸の、髭面の男の、影が揺れる。


「たまに洞窟のほうへ行ったかと思うと、落胆したような顔で戻ってきて、またじっと河原に立ち続けていたみたいだ。ごくたまに、髪の長い女とか、狼の魔族が、そいつの元を訪れていたみたいだが……ほとんど年中、そいつは独りぼっちだったという。何年も……いや、何十年も、そいつはなにかを待ちつづけていた」


 外を吹き荒れる吹雪の音が、小屋の中にまで響く。


 澪丸は、なにかを噛みしめるようにしてその話を聞いていたが――そこで男が黙ったのを見て、耐えきれなくなったように口を開く。


「それで……どうなったのだ」

「あん?」

「その鬼はどうなったのかと、きいている!」


 ばん! と少年は勢いよく床を叩く。その衝撃で、鍋の汁が火の中にこぼれ、水が焼けるような音が響いた。


 澪丸の取り乱しように、男は面食らったように目を丸くしたあと――続く言葉を告げる。


「どうにも、なってねぇ。いつだかは分からねぇが、そいつは死んだ。これもまたずいぶんと昔、名のある僧侶だかが、そいつを憐れんで、あの塚を建てたというが……俺が知ってるのは、そこまでだ」



 男の言葉が終わると同時に、小屋の中に静寂が生まれる。


 囲炉裏の火が、ただ、何事もなかったかのように、強く燃えつづけていた。



「……そうか」


 先ほどの激昂げっこうが嘘だったかのように、少年は顔を伏せた。その藍色の瞳には、諦めのような暗い光が浮かんでいる。そのまま口を真横に引き結んで、澪丸はただ、力なく虚空を見つめていた。



 黙り込んでしまった少年を、髭面の男が不思議そうに眺める。彼は「いったいどうしたってんだい?」と口に出すが、隣に座る女房のいさめるような視線を受けて、たじろぐようにして口を閉じた。


「……その、鬼は。あんたにとって、大切な存在だったのかい?」


 澪丸へと向き直った女房は、少年をいたわるように優しい口調で、そう問いかける。彼女はどうやら、澪丸の置かれた状況やその態度から、おおかたの事情を察したようだった。そのうえで、彼のやる場のない感情を外へ引き出し、気持ちを整理させようとしてくれているのだ。


 その心遣いに、暖かく染み入るような感謝を覚えながらも――澪丸はぽつり、ぽつりと、閉じていた口から言葉を漏らす。


「……あいつが、俺にとって『何』だったのかは、俺にも分からない。最初は、魔族……鬼として、俺はあいつを殺そうとしたんだ」


 不思議と、言葉が溢れてくる。

 思い出すのは、もうずっと遠い「昔」、少年が彼女と出会ったときのことだった。彼女の紅い瞳の中に浮かんでいた「ゆらめき」が、澪丸の脳裏に映し出される。


「けれど、俺はあいつを殺せなかった。……同情、したんだ。家族を、仲間を殺され――なすすべもなく、たった独りで過酷な世界に放り出されたあいつは、昔の俺と同じだった」


 ぱち、ぱちと、なおも囲炉裏の火はぜる。


「それから、俺はあいつと旅を続けて……短い間だったが、いろんなことを話した。あいつは大抵、他愛たあいもなくて俗っぽい話が好きだったから――相手をするのは、骨が折れた。俺は、ただ魔族を殺すためだけに生きてきたような人間だったから……誰かとそういう話をしたことなんか、ほとんどなかったんだ。もう少し、気の利いた返しでもできなかったものかと、いまさらながら後悔している」


 少年の独白を、山小屋に住む夫婦はただ黙って聞いていた。部屋の隅で寝かしつけられた赤子の安らかな吐息が、少年の声の隙間を縫うようにして響く。


「あいつの仲間を取り戻す機会もあったが……俺の力不足で、それもかなわなかった。だからこそ、俺は、あいつだけは守ると、固く誓ったんだ。けれど――俺の不注意で、俺はまたしてもあいつを、独りぼっちにしてしまった」


 澪丸は、自らの体を抱き寄せるようにして縮こまった。


 そこに、「千魔斬滅せんまざんめつ」と呼ばれたほどの剣術使いの面影はなく。

 いまの彼はただ、自らのあやまちに震え、後悔にさいなまれる、ひとりの少年に過ぎなかった。


「……俺は、無力だ。世を滅ぼした仇敵きゅうてきも殺せず、守りたいと願った者も守れない。天下最強とうたわれた剣術を身につけても、俺は、まだ、弱いままだ……」


 声にならない嗚咽おえつが、澪丸の口から漏れる。せき止めることのできない感情の流れが、少年の全身を巡っていた。うつむいたままに、ただひたすら、澪丸は涙を流す。



 ――そのとき。


 児子ちごに戻ってしまったかのようにうずくまりながら泣き続ける、澪丸の背中を。



 ばしん! という、大きな衝撃が襲った。



 あまりにも突然の出来事に少年が驚いて、顔を上げると……そこには、いつになく真面目な表情をした、髭面の男の姿があった。澪丸は、そこでようやく、彼に背中を叩かれたのだという事実を認識する。


「男が、泣いてんじゃあねえよ」


 彼は、強い口調で澪丸へと告げる。


「そんなに、大切なもんがあったっていうなら。歯ぁ食いしばってでも、泥水すすってでも、取り戻してみせろよ。命のひとつでも、投げうってみせろよ!」


 気迫に満ちた怒声が、澪丸の耳を打つ。小屋の中の空気までもが震え、囲炉裏の火が揺らめいた。


 澪丸は、その勢いにわずかに気圧けおされたあと、眉をひそめて男へと言い返す。


「取り戻す、だと? 茜は、もう、死んでしまったというのにか? いまさら俺ができることなど、なにも――」

あんちゃん、自分がどこから来たか忘れちまったのかよ」


 男はおもむろに振り返って、後ろの壁のほうを見やる。否、彼が示すのは、壁ではなく……その、向こう。山々を越えた先に存在する、あの場所・・・・であった。


 ――「明神みょうじん洞窟どうくつ」。



「無茶だよ、あんた!」


 そのとき、女が血相を変えて、夫へとくいかかった。彼女の額には、冷たい汗が浮かんでいる。


「いままでにも、『明神の迷子』がもといた時代に帰ろうとして、あの洞窟に戻ったことがあった。けれど、だれ一人として、もう一度『時渡り』ができた人間はいないんだよ。それだけならまだいいけれど……その『明神の迷子』たちは、例外なく、その後、洞窟の中で死体で見つかっているんだよ! たった数日しか経っていないのに、干からびた木乃伊みいらみたいになって……!」

「それが、どうした」


 必死の形相ぎょうそうで制止する女房であったが、髭面の男はそれを気にも留めていないふうに、告げる。


 そして。


 男は、茫然と自身を見つめる少年に向き直って――真剣な表情から一転、いつか見たことのある、野蛮かつ快活な笑みを浮かべてみせた。


「泣くほど後悔しているんだろ? だったら、あんたは動くべきだぜ――あんちゃん。なぜだかは分かんねえが……おれは、兄ちゃんが、大事なものや譲れないもののために、命をかけてでも戦うことができる人間だってことを知ってんだ。不思議なもんで……夢でもうつつでもなく、もっと遠いところで、おれは兄ちゃんがそうやって戦うところを見たことがある気がする。そんな兄ちゃんだったら、きっと誰にも成し遂げられなかったことができるんじゃねえか、ってな」


 強く、確かな、澪丸を鼓舞こぶするような声。



 その言葉に、澪丸はゆっくりと顔を上げる。そうして、自分自身の力で、板張りの床を踏みしめて立ち上がった。その足取りは――先ほどまでの悲嘆ひたんが嘘であったかのよに、確かで強く。


 身体からだじゅうを巡っていた冷たい感情の流れは、いつの間にか止まっていた。そのかわり、いまは熱く煮えたぎるようにざわめく血潮が、少年の内で沸騰ふっとうしている。



 ――茜のいた時代に戻るため、再び時を渡る。


 その挑戦が成功する根拠があるわけではなかった。ただ、ここで止まっていることが、自分のために――そして、自分をひたすらに待ち続け、死んでいった茜のためになるはずがなかったから。澪丸は拳を強く握りしめて、戸口へと歩きだす。



「ち、ちょっと……待ちなよ!」


 慌てた様子で、女が澪丸の肩をたたく。それでもなお振り返りもしない少年に、彼女は壁にかけてあったぶ厚い獣の毛皮を手渡した。


「せめて、これだけは着ていきなよ。洞窟に辿り着く前にこごえ死んじまったら、元も子もないだろう?」


 彼女は心配そうに澪丸の顔を覗き込んだが、少年が出発するのを止める気まではないようであった。


 暖かく、手触りの良い毛皮を羽織りながら、澪丸は女と、その向こうに座る髭面の男に向けて深く礼をする。


「改めて……助けていただき、感謝する。この恩は、一生忘れはしない」


 かしこまった口調で、澪丸は告げる。


「その礼といってはなんだが……ひとつ、伝えておきたいことがある。いま・・から、おそらく数か月後か、数年後――人間の世は、かの魔神・・・・によって滅ぼされる。どうやら、この辺りにはまだ手が及んでいないようだが……ここが襲われるのも、時間の問題だろう。手遅れになる前に、せめて魔神の軍勢から隠れられる場所だけでも探しておくといい。世迷言よまいごとだと切り捨てられても仕方がない話ではあるが、守りたいものがあるなら、この忠告をきいておいて損はないだろう」


 そうして、少年は外へつながる戸を開けた。その向こうには、なおも止む気配を見せない吹雪が、すべてを飲み込むかのように吹き荒れている。


 最後にもう一度振り返り、夫婦の顔を目に焼きつけてから、澪丸は走り出した。その足取りに迷いはなく、少年はまるで野生の獣の如きすばやさで木々の間を駆け抜けていく。



 


 なおも心配そうにその背中を見送る女房に向けて、髭面の男は静かに言った。


「大丈夫だ。あのあんちゃんなら、きっと」


 男は、碗の中に残った鍋の汁を勢いよくかき込んでから、その器を乱雑に床へと置いた。


 そうして――口の周りについた汁を袖でぬぐいながら、不思議そうな顔を浮かべて、告げる。



「だが、兄ちゃんが最後に言ってたことは、よく分かんなかったな。『マジン』ってえのは……いったい、なんのことなんだ?」


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