鬼の眠る石塚


 身を切るような寒さも忘れて、澪丸は駆ける。少年の口から漏れた白い息が、純白の雪に覆われた世界に溶けるようにして消えていった。


 登ってきた山道を反対に進み、つい先刻まで皆で魚を食っていた河原を目指す。普段の澪丸ならばひといきに駆け抜けられるような下り坂が、今は永遠にも思えた。重くなる足を懸命に動かして、少年はただ、走る。


「茜……!」


 この尋常でない事態を前にして、澪丸の頭に浮かぶのは、あの娘の姿であった。


 信じられないことではあるが、これがもしも魔族……あるいは法力のような特殊な力を持った人間の仕業であるとしたら、そいつの目的次第では、彼女に危険が及びかねない。雅々奈もついているとはいえ、これほどの現象を引き起こすことができる者の前では、どんな力も気休めにしかならないだろう。


 そしてそれは、澪丸も同じであった。たとえ茜のもとに駆けつけられたとしても、彼女を守れる保証はどこにもないのだ。――だからこそ、少年は焦りを抑えられなかった。強大な魔族を打ち倒すことができる「鬼界天鞘流きかいてんしょうりゅう」も、今回ばかりは、少年の心の支えにはなり得なかった。胸の奥からせり上がってくる、言いようもない不安が、澪丸の脳裏をむしばむ。



 やがて、川の流れる音が、吹雪の向こうから聞こえてきた。澪丸は最後の数歩を全力で駆け抜けたあと、雪の降り積もる河原へと躍り出る。そうして、息も切れ切れに、吹雪が弱まったあとの、しんと静まりかえった周囲を見渡した。


「――――」


 そこに、茜の姿はなかった。それどころか、雅々奈や碗太郎の影もない。ただ、なんの変哲もない河原の光景だけが、そこに広がっている。動くものといえば、静かに降りしきる雪と、凍えるような寒さの中にあってもなお緩やかな流れを保つ、川の水くらいのものであった。


「あかね……茜! 雅々奈! 碗太郎!」


 澪丸は、無意識のうちにそれらの名前を呼んでいた。少年のよく通る声が、自然の静寂を破る。



 だが、その声に、返すものはなかった。




「…………」


 ――まだ、他のどこかにいる可能性もある。


 そんな希望を、あるいは願いのようなものを抱いて、少年は河原を歩きだす。おぼつかない足取りで、なにかにすがるようにして、澪丸はしきりに周囲を見渡した。だが、人や魔族の姿はおろか、野生の獣の影すらも見えない。まるですべてが死んでしまったかのような冬の世界の中、澪丸はただ、孤独に歩きつづけた。



 どこまで歩いただろうか。あるいは、それほど遠くには来ていないかもしれない。時間も、距離も、正確には感じ取ることができなくなった少年は――やがて、ひとつのつかのようなものの前に辿り着いた。河原の端、黒い石を積み重ねるようにして築かれたその塚は、何故か、不思議と澪丸の目を引いた。


 立ち止まり、自分の背丈ほどはあろうかというその黒い塚を、少年はじっと見つめる。


(……なんの、塚だろうか。子供がたわむれに作ったものにしては、しっかりしている。どこかの僧侶が、亡くなった人の慰霊いれいのためにでも築いたものだろうか……)


 回らない頭で、とりとめもなく、そんなことを考える。塚の周囲に、立て札のようなものはなく……これが何のために作られたものであるか、澪丸は知ることができなかった。



(――こんなところで、油を売っている暇はなかったな。俺は……俺は、茜を探さないと…………)


 少年が、その黒い塚から目を離し、ふたたび歩きはじめようとした、そのとき。


 視界の端に、なにか見覚えのあるようなものが映った気がして、澪丸は足を止める。そうして、弾かれたように、後ろ――塚の側面に置かれたそれ・・を凝視する。



 それは、ぼろぼろになった、わらの残骸のようなものであった。長い年月が経ち、色褪いろあせ、すり切れたその藁は、もはやもともとどんな形をしていたかわからないほどに、劣化が進んでいた。


(……なん、だ?)


 河原に落ちた「くず物」でしかないそれを、澪丸は拾い上げる。積もった雪やほこりを払いのけて、少年はまじまじとそのわらかたまりを眺めた。



 なんの変哲もない、古びたごみ。しかし、澪丸はなぜか、それから目を離すことができなかった。ぼろぼろにすり切れてなお、なにかを訴えかけてくるようなその藁が、もとは「何」であったかを、少年は考える。


(……この、見た目、大きさ。草履ぞうりにしては大きく、曲がったかたちをしているし……みのにしては、小さく、薄い。これはおそらく、もとは――――)





(――編み笠・・・のようなものであったに、違いない)




 瞬間。


 強い風が吹き荒れた。



 すべてを凍てつかせるような冷気が踊り狂い、少年の体を包み込む。石のつぶてのようなひょうが降りはじめ、河原の石とぶつかって大きな音をたてた。だが、鬼神が怒りをあらわにしたようなその天気の変わりようを見ても、澪丸は微動だにしない。


(――――)


 少年の脳裏に渦巻くのは、ひとつの「予感」であった。


 冷静に考えれば子供でも信じないような、根拠のない思考。それでも、いまの澪丸にとってその「予感」は、限りなく「真実」に近いかたちで、その思考のすべてを埋め尽くす。


(……そんな。そんな、はずはない。だって……あいつは、さっきまで、このあたりの、河原で――――)


 揺れる視界で、目の前に積み上げられた石塚をとらえる。


 すると――その側面に、先ほどまで気づかなかった小さな文字が刻まれているのが、澪丸の目に映った。恐る恐る、焦点の定まらない目で、その文字をとらえる。



『明神暦・三二〇年  アミガサ鬼 此処ここニ眠ル』



「――――ッ!?」


 今度こそ、澪丸は絶句した。




 「時渡り」の力を持つ勾玉と似た鉱石が溢れる、洞窟。


 一瞬にして変化した、季節。


 亡くなった者をしのぶかのように築かれた、石の塚。


 そして……、編み笠。



 それらの要素が合わさって、導き出される「答え」とは――




(馬鹿げている。こんな考えは、馬鹿げている……っ!)


 自らの思考を振り払うように、澪丸は首を大きく横に振った。いまの自分は冷静ではない、と。世界が冬に変わるという異常な事態の中で混乱しているから、こんな途方もない考えが浮かんでくるのだ、と。



 だが――それを否定するに足る根拠も、ここにはないのだ。





「く、そ……ッ!」



 澪丸は、胸の内から湧き出てくる焦燥しょうそうを押し留めるように、歯ぎしりをした。


 刀を鞘から引き抜いて、どこへ向けてでもなく構える。そうして、普段の彼からは想像もできないような、うわずった声で叫んだ。


「どこだ……どこにいる!? こんな『まぼろし・・・・』を作り出したやつは、どこにいるんだ!? 姿を見せろ……その体、ひといきに両断してくれる!!」



 息を荒げ、興奮したように語る少年にこたえる者はない。ただ、辺りを打ち鳴らすひょうの塊だけが、澪丸の視界を覆いつくすように降りしきる。


 いま、自身の心を襲っている感情の名前を、少年は知らなかった。怒りでも、喪失感そうしつかんでもない。ただ、胸の内で暴れるようにして巡るその感覚は、一秒たりとも我慢できないほどに苦しく、辛いものであった。


あかね……!」


 その名を、呼ぶ。


 心の内にぽっかりと開いてしまった穴を、埋めようとするかのように。




 だが、少年の絞り出すような威勢も、虚しく。


 応える者のないまま、厳しい寒さが、旅装束をつきぬけて少年を襲う。



 ――やがて澪丸は、瑠璃色の刀をその手から落とし、河原の上に崩れ落ちる。雹に全身を打ちつけられてもなお、少年はそのまま動かなかった。ただ、力なく手足を投げ出して、虚空を見つめる。


(……どうしてだ)


 遅れて襲ってきた悪寒に体を震わせながら、澪丸は涙を流す。暖かい水滴がその頬を伝い、流れ落ちた。


(天罰が、下ったのか? たとえ滅びの運命を変えるためだとはいえ、本来の歴史を捻じ曲げるために時を渡るなど……人の身に余る行いであると。だから……だから、俺は、茜を失ったというのか?)


 寒さにむしばまれて、手足の感覚がなくなっていく。体の芯が冷えていくのを感じる。いくら「鬼界天鞘流きかいてんしょうりゅう」の継承者といえど、凍てつくような自然そのものには、勝てようはずもなかった。体温が奪われ、ゆっくりと自らの凍死が近づくのを、少年は感じ取った。


 それでも……澪丸は、強く、思う。


(――いな。人間を救おうとする意志が、間違いであるはずがない。都に集まった、俺を含めた数々のつわものたちの……「人間の世を救いたい」という思いは、たとえ誰であろうと、否定できるものではないはずだ)


 薄れゆく意識の中、少年は、玄武大路げんぶおおじに集った男たちの顔を思い起こす。旨いものを食うために戦うと言っていた、長弓の青年。魔神に壊された町や村を再興したいと言っていた、法力使いの僧侶。


 そして――皆を鼓舞こぶするように場を盛り上げた、髭面ひげづらの男。


 彼は、魔神の姿が見えたとき、真っ先に敵に向かって駆け出した。援軍を待つのが得策であるにも関わらず、あの男は、自らの手で魔神を殺すべく、刃を抜いたのである。



「……守りたいもの。あるいは――守りたかったもの・・・・・・・・、か」



 ぽつりと呟いて、澪丸はゆっくりと天に向けて手を伸ばす。もはや動かすことすらも難しくなった指先が、なにも掴まないままに空を切った。



 仰向けに倒れた澪丸の視界に、曇天が広がる。そこから降りしきる雹の嵐が、澪丸の全身に打ちつける。少年は動かなかった。否――もう、動けなかった。諦めてしまったわけではない。ただ、もう、立ち上がる余力など残されていなかったのだ。凍えた体の中、心臓だけが、まだ抗うようにして鼓動を続けていた。


 ――そのとき。


 視界のすみ、曇り空の端が、なにかによってさえぎられた。澪丸は、もはや冷たく凍ってしまった思考の中、ぼんやりと、「誰かが自分を覗き込んでいるのだ」という事実を認識する。


 その者の顔は、澪丸の視界がかすんでいるために、はっきりとは見えない。だが――その口と鼻のあいだに、どこかで見たことがあるようなひげが生えそろっているのだけは、なんとか理解できた。


 やがて、澪丸の体が、その男によってゆっくりと担ぎ上げられる。力なく彼に身を任せる、少年の耳に、聞き覚えのある野太い声が届いた。


「こんなところで寝込むとは、あんちゃん、よっぽどおねむ・・・だと見える」


 そこで、ハッとしたように、澪丸は目を見開く。その一瞬でいくらか明瞭めいりょうになった視界に、自身を担ぐ男の姿が映し出された。


 ぶ厚い獣の毛皮をまとった大柄な体と、腰に下げた短刀。その出で立ちに覚えはなかったが――その顔つきを、声を、澪丸は覚えていた。


「おまえは……」


 その姿は、あるいは、澪丸が死期に見たまぼろしであるかもしれなかった。彼方の浄土から、あるいは地獄から、彼が少年を迎えに来たのではないかと、澪丸は考えた。


 だが。


「おれの家に着くまでくたばんなよ、あんちゃん。そんなことされた日にゃ、酒がまずくなっちまう……」


 そう語る声が、仕草が、告げている。


 彼は、夢でもまぼろしでもなく、いま、ここに生きているのだと。そして、澪丸を救おうとしているのだと。



数奇すうきな、運命だ……)

 

 彼が口にする、強い励ましの言葉を聞きながら……澪丸はどこか救われたような気がして、薄く笑った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る