五章 凍てつく闇の時渡り

不可思議な光


 うららかな春の日差しの下、透き通るような川の清流が、きらきらと太陽の光を照り返している。草木は伸びやかに生い茂り、花の蜜を吸う虫たちが踊るように飛び交っていた。


 川底に見える大きな魚を追うように、ふたつの影が水面を潜る。ひとつは、髪の長い人間の女。そしてもうひとつは、白い毛並みを持った、巨大な犬であった。彼らは競うように水中を泳ぐ魚へと手を伸ばし――わずかに早かった女のほうが、大振りなイワナの体をつかむ。そうして水面へと浮上したあと、女は魚を天高くかかげ、同じく川から顔を出した犬に向けて誇らしげに語るのだった。


「どーだ、碗太郎わんたろう! 雅々奈ががなちゃんの手にかかれば、イワナなんて『まな板の上のこい』だぜ!」

『わうう……』


 競争に負けた犬のほうは、どこか悔しげに鳴いたあと、短い手足を動かして岸へと上がる。そうして、濡れた体を乾かすように、ぶるぶると体を振って水滴を飛ばすのであった。


「ガガちゃん、すごい……! 道具もなしに、魚をとれるのね」


 その水滴が頬にかかり、少しばかり顔をしかめながらも、編み笠の娘――茜が、感心したような声をあげる。


「これで、おひるごはんの心配はなくなったわ。ガガちゃん、ありがとう」

「いいってことよ、鬼っ子! この程度、雅々奈ちゃんにとっちゃ、朝飯前だぜ! ……ん? この場合、昼飯前なのか?」


 岸へ上がり、犬と同じようにぶるぶると頭を振ったあと、雅々奈は不思議そうに首をかしげる。だが、考えてもたいした答えは出なかったらしく、右手につかんだイワナをもう一度高くかかげて、彼女は木陰に腰をおろす澪丸のほうへと声をはりあげた。


「おーい、おまる! 早く来ねえと、雅々奈ちゃんたちだけで食っちまうぞ!」

「…………」


 澪丸はその声を耳にしながらも、あえて返事はせず、木にもたれかかったまま、まったく別の方向を向いていた。差し込む木漏れ日が、少年の顔に影をつくる。


 自分を無視するような澪丸の態度に、雅々奈は軽く頭にきたらしく、大股で河原をずんずんと横切ったあと、澪丸の前に仁王立ちになった。そうして、少年を見下ろしながら、鼻息を荒げて語る。


「おいおい、どうしたんだよ!? さっきからずっと、雅々奈ちゃんと目を合わせてくれねーじゃねぇか! なんか、気にいらねーことでもあんのか!?」


 彼女から、ずい、と顔をのぞきこまれてなお、澪丸はあさっての方向を向いていた。なにがあっても目を合わせるものか、とでも言いたげに。


 ――そこで雅々奈の堪忍袋かんにんぶくろの緒が切れたようで、彼女は引きつった顔に野蛮な笑みを浮かべたあと、大きく拳をふりかぶる。


「黙ってちゃ、わっかんねえだろ……文句あるなら、口に出しやがれ、おまる野郎!!」


 ぶん! と風を切って振り下ろされた拳を、澪丸は視界にとらえないまま首だけを動かして避ける。空を裂いたその拳は、そのまま少年の後ろの木に激突したあと、太い幹を揺らして無数の葉を散らせた。


 それでもなお、澪丸は彼女と目を合わせない。――いや、目を合わせないどころか、その体の一部すらも視界に入れないように、ほとんど首を後ろへと回してしまっている。


「……それなら、はっきり言ってやる」


 そこでようやく、少年はぽつりと口を開いた。


 あくまで平静を装った、低い声を作りながら。



「――川から上がったなら、はやく服を着ろ。その格好は、健全なおのこである俺には、少々目に毒だ」






 「丹呉たんごの町」を出てから、十日。


 澪丸たちは、ここから西の方角にあるという「鬼ヶ島」に向けて旅を続けていた。それがどれほど遠い場所であるかは分からなかったが、「島」というからには、そこは海の上にある場所に違いないだろう。澪丸がかつて見たことのある地図によると、「丹呉たんごの町」をようする片倉藩かたくらはんから西に進むと、およそ二十日で海に出る。澪丸たちは、ひとまずはそこまで進んでから、さらなる情報収集を行うことにしたのであった。



 ここまでの道中は、危険な魔族や敵意ある人間に出くわすこともなく、平穏な旅が続いた。日が出ている間はひたすら西に向けて歩き、夜になると適当な場所で野宿をする。食い物は一日に五食をくうという雅々奈が勝手にとってきてくれるので、特に困ることはなかった。今日もまた、彼女は「腹へった!」の掛け声と共に、道の脇を流れていた川へと(服を脱ぎ捨てて)飛び込んでいき――大ぶりの魚を素手でつかみとるという芸当を見せたのであった。



「……おいしい。やっぱり、魚はとれたてがいちばんよね」


 火であぶられ、綺麗な焼き色がついたイワナを頬張りながら、茜がほころんだ笑みを浮かべる。その、「いつも通り」の彼女の姿を見て、澪丸は安堵の息を吐いた。



 十日前に、大切な仲間を失うことによって彼女が受けた心の傷は、だんだんと塞がりつつあるようだ。もちろん、あの出来事が、彼女の心の奥底に、泥のようにこびりついていることは間違いないだろうが――彼女は少しづつ、前を向いて歩きはじめている。辛く苦しい記憶を乗り越えて、未来に向かって進もうとしているのだ。


 澪丸がなにを言わなくとも、彼女はじゅうぶんに強い心を持っていた。向かい風の中、歯を食いしばってでも前に進もうとする、たしかな意志が、茜の小さな体には秘められていた。



 澪丸がじっと彼女を見つめていると、その視線に気づいたのか、赤い瞳がこちらを向く。茜は一瞬だけ不思議そうな顔をしたあと、ほころぶような笑みを少年に向かって浮かべた。


(――――、)


 その笑顔は、少年がこれまでに感じたことのなかったような温かい波紋を、その胸の内によびおこす。溶けるように心地いいその感覚が、いったい「何」であるか、澪丸には分からなかった。けれど、すぐさま忘れてしまうには惜しいほどのその感情が、自分にとって大切なものであるということは、誰に言われずとも理解できた。


 雲ひとつなく晴れわたる青空を見上げて、澪丸は思う。


(……俺がこいつに抱いている思いは――きっと、もう、同情などではないのだな)


 心の内に広がる、優しいまどろみのような感覚を確かめながら、少年は静かに目を閉じた。




「……よし、そろそろ行くか。あまり長居していても仕方ないだろう」


 くすぶった焚き火に水をかけて、それが完全に消えたことを確かめてから、澪丸は仕切りなおすようにそう言った。その言葉に、胡坐あぐらをかいて座る雅々奈が不満そうな声をあげる。


「えー、もうちょいと休んでから行こーぜ。ほら、碗太郎の奴も眠そうだしよー」


 彼女が指さした先には、横に転がり、今にも鼻提灯はなちょうちんを膨らましそうなほどゆるみ切った顔をした巨犬の姿があった。そのなまけぶりに、この犬が魔族であることを忘れそうになりながらも、澪丸は弛緩しかんした空気を正すように、決然と言い放つ。


「駄目だ。俺たちがここで呑気に昼飯を食っているあいだにも、『厭天王えんてんおう』によって、多くの人間が殺されているかもしれないんだぞ。行動するならば、できるだけ急いだほうがいい」


 澪丸は力の抜けた様子で転がる巨犬の頭を揺さぶって、彼を起こす。腕太郎はしばらく動かなかったが、茜に「わんちゃん、起きて」と呼びかけられて、ようやくそのまぶたを開いた。そうして、面倒くさそうな挙動で体を持ち上げ、ひとつ、大きな欠伸あくびをする。


 二人の娘と一匹の犬が後ろに着いてくることを確かめてから、澪丸は河原を抜けた先、前方にそびえたつ山を指さして、告げる。


「今日中に、この山を越えたい。見たところ、それほど険しい道ではなさそうだし、なんとか日が暮れるまでには――――」


 向こう側に辿り着けるだろう、と言おうとした少年の目に、ふいに、翠色みどりいろの光がうつった。


 はっとして澪丸が目をこらすと、山の中腹あたり、洞窟のようになっている場所から、翡翠ひすいのような色をした輝きが漏れ出ているのが見えた。暗い洞穴の奥から発せられたその光は、優しく、淡くゆらめいて、静かに明滅をくりかえす。それは明らかに、自然によって生み出されたものではなかった。


(――あれは)


 まるで誰かを誘うかのように瞬くその光は、澪丸の脳裏に「ある記憶」を呼び覚ます。


 炎上し、崩壊した都の大通りで、血だまりの中に見た景色。ふところから転げ落ちた「それ」は、ちょうど、あそこで輝く光のような、綺麗な翠色をしていた。


(……気の、せいか? あそこに見える洞窟から、「常磐ときわたる勾玉」と同じような気配が感じられるのは……?)


 意識を集中させ、より鮮明な気配を探ってみても、その感覚は消えるどころか、いっそう強く澪丸の体を震わせる。この気配は、魔族のものでも、ましてや人間のものでもない。ただ、あの勾玉のほかには感じたことのないような、独特で不可思議な「気」とでも呼ぶべきものが、あの洞窟からは漂っていた。



 あの光はなにか?


 あの洞窟はなんなのか?


 なぜ「常磐たる勾玉」と同じ気配がするのか?



 尽きない疑問に対し、それ以上なにかを考える前に――少年の足が、ひとりでに動きだした。疾風のごとく駆けるその背中に、茜の驚いたような声が届く。


「――お師匠! どこに……」

「すぐに戻る! おまえは、そこで待っていろ・・・・・・・・!」


 そう言い残し、澪丸は振り返ることもせず、一心不乱に走りつづけた。河原を抜け、草木が生い茂る山道をかき分けて、少年はただ、駆ける。


 

 頭上、見上げるほどに遠く――洞窟の奥から発せられる不可思議な光が、なおも少年を誘うように揺れつづけていた。


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