穿ち、貫く、力と願い
それは、あまりにも突然の出来事だった。
澪丸の視界に文彦の影が映った瞬間、その体が回転する満月へと吸い込まれていき、青い血を撒き散らしながら宙を舞った。小さな体はやがて汚れた床へと打ちつけられ、力なく転がる。
一方で、「障害物」にぶつかり、その軌道を逸らされた「法力の刃」は、そのまま後ろの土壁へと衝突し、まるで豆腐を切り裂くかのようにどこまでも進んでいった。やがてそれの発する音が、光が消えたとき――地下牢に、暗い静寂が戻る。
「――文彦ぉっ!」
震える手で、わななく声で、澪丸は横腹から青い血を流す鬼の少年を抱き寄せた。「満月」の直撃は免れたようだが、この出血量、いくら魔族といえど致命的であることに変わりはないだろう。
それでも、文彦の顔には、苦痛の色はひとつも見えなかった。むしろ、どこか誇らしげに、かすれる声を発する。
「澪丸、兄ちゃん……。おれ、勇気、だしたよ。怖かったけど、兄ちゃんを助けるために、がんばった……」
その言葉に、澪丸はなにも返すことができなかった。ただ、鬼の少年の、いまにも消えてしまいそうな瞳の奥の瞬きを、じっと見つめる。
そんな澪丸の顔を見て、文彦は少し、笑った。激痛に
「こんなやつに負けちゃ、だめだぜ……兄ちゃん。兄ちゃんは、茜姉ちゃんを、これからも守っていかなくちゃいけないんだから……」
「それ以上は、喋るな……! 出血がひどい。このままでは――」
「死ぬのは、怖くはないよ。ただ……茜姉ちゃんのことだけが、心配だ」
額に角を持つ少年は、遠くを思い出すように、ゆっくりと目を細めた。血がこぼれおちる、その小さな唇から、絞り出すような声が生まれる。
「茜姉ちゃんはさ、寂しがりやなんだよ。周りには、気をつかわせないように、気丈にふるまうことも多いけど……心の中では、きっと、誰かがいなくなっちゃうこととか、なにかを失ってしまうことを、誰よりも恐れてる」
「文彦……」
「だから、おれが死んじゃうのは、茜姉ちゃんに申し訳ない。……けどさ、いまはもう、澪丸兄ちゃんがいるから。昨日の昼間からの、短いつきあいだったけど……おれには、わかるよ。兄ちゃんは、きっと茜姉ちゃんを幸せにしてくれる。だって……兄ちゃんと喋ってるときの姉ちゃんは、すごく……すごく、楽しそうだから」
文彦は、死の淵にあって、心の底から安堵したような表情をしていた。
彼の、茜を思う気持ちに、偽りはなく――どこまでも純粋な「思い」が、そこからは見てとれた。
「だから……頼むよ、澪丸兄ちゃん」
「たとえこの先、どんな……どんなことが、あっても」
「茜姉ちゃんを、守って、あげて、くれ――――」
かくり、と。
そこで、鬼の少年は力尽きた。
静かな、静かな世界が広がる。
音も、感覚も、すべてが死んでしまったかのような静寂の中、それでも、澪丸の心臓は動いていた。刻まれたその鼓動は、不思議と、穏やかだった。
それはきっと、この少年の無念を晴らすため。
否――この少年の、
「……『菩薩の剛刹』」
やがて亡骸を手放し、静かに横たえたあと、澪丸はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「力や信仰によって救えぬ者を、おまえは救うと言ったな」
手には、宝石のように青く輝く、一振りの刀。
目には、何者をも貫く、修羅の如き
「ならば俺は、おまえを――俺自身の『力』と、文彦の『願い』によって、打ち倒してみせよう」
「
「茜を守ってくれ」という、願い。
そのふたつが、合わさったとき。
澪丸の体は、なにかに導かれるようにして、自然と動きはじめた。
低く構え、鋭く尖った刃の切っ先を相手へと向ける。そうして、音も残さず、風よりもはやく、澪丸は突進を始めた。
「
それは、突破力において右に出るもののない、必殺の一撃。まるで彗星が尾を引いて飛ぶように、少年のあとに残像が続く。
「……むん!」
その刹那――白袈裟の大男は、気合いと共に、白く半透明な「法力の壁」を、体の前面へと展開する。それもひとつではない。二重、三重と重ねられたそれは、まさに鉄よりも固い絶対防御であった。
そして。
宝刀「王水」の切っ先が、「法力の壁」と激突する。
陶器のひび割れの音を何十倍にも大きくしたような、凄まじい破砕音が生まれた。それと同時に、澪丸の渾身の刺突が、ひとつめの壁を打ち破る。
「ぬぅ……っ!」
剛刹が唸り声をあげた瞬間には、もう、ふたつめの壁も破られていた。少年は鬼神の如き表情を浮かべ、ただ、まっすぐに、最後の壁へと、勢いをそのままに突進をつづける。
そして、研ぎ澄まされた刃の切っ先が、岩よりも硬い感触をとらえた、その瞬間。
「ぬ……おおおおっ!」
「お……ああああああああっ!」
空気を割り、地を裂くような、ふたつの雄叫びがこだました。
ギギギギギギギギ! と――刃の先と、最後の壁が、一点で拮抗をつづける。白袈裟の大男の頭にはいくつもの青筋が浮かび、力をこめる澪丸の体から鮮血が噴き出した。
少年の視界が、明滅する。世界が白と黒に染まる。半月の刃によって切り裂かれた体が、悲鳴をあげる。
――それでも。それでも、澪丸は止まらなかった。ただ、全身の力を込めて、敵を貫くため、力を振り絞る。
やがて、「みしり」という、かすかな音が聞こえた。それは、大男が両手を前に出して展開する壁の、ちょうど真ん中から生まれた兆しであった。
「な……にぃ!?」
とっくに笑みを消した「菩薩の剛刹」が、呻き声をあげる。その顔に浮かぶのは、ただ純粋な、
「馬鹿な……私の法力が、破られるというのですか!? 私の、『救済』のための力が……剣術などに打ち破られると!?」
「おまえの『救い』は、歪んでいるよ――剛刹。おまえのやり方では、ひとつの悲しみを消したところで、もっと多くの悲劇が生まれてしまう」
少年は、強く、白袈裟の男へと告げる。その藍色の瞳の奥に、揺らめく青い炎が灯った。
やがてその輝きは勢いを増し、澪丸の体にさらなる力を与える。全身を巡る血液が暴れ、技を繰り出す筋肉が
ただ、前へ。
愚かしいほどに真っ直ぐなその刺突が、ついに、最後の壁を打ち破った。地下牢を通り越し、屋敷じゅうに轟くほどの破砕音が生まれ――やがて、その切っ先が大男の心臓をとらえる。
断末魔の叫びをあげる暇すらも、与えず。瑠璃色の宝刀を中心として、白袈裟に赤い血が弾け飛んだ。それはまさしく、地獄に咲いた彼岸花のようで――澪丸はしばらく、刀を振り切った姿勢で止まっていた。
やがて、ずるりと。光を失った、虚ろな目で、大男がゆっくりと倒れはじめる。少年はその胸から刀を引き抜き、一歩下がって、肉に膨れた巨体を避けた。
*
「……終わった、のですか」
地下牢の薄汚い床に転がった剛刹の死体を見て、それまで牢の隅で成り行きを見守っていた鬼の老爺が告げる。その言葉に反して、その声に、表情に、安堵の色はひとつも見えなかった。
「……こいつを殺したからといって、誰かが浮かばれるわけではない。ただ――爺さん。おまえが生き延びることによって、救われる娘がひとりいる。それだけで、俺は刃を振るった価値があった」
「…………」
静かに告げる澪丸の言葉に、しかし、鬼の老爺はなにも言わなかった。ただ、神妙な面持ちで、暗い虚空をじっと見つめている。
奇妙な静寂が、地下牢に流れた。
やがて、その皺にまみれた口元を動かして、「夜可郎爺」はぽつりと呟く。
「……その、ことなのだが。少年――あなたは、私を置いて、ここから逃げなされ」
告げられた言葉に、澪丸は目を見開く。だが、少年がなにかを言おうとする前に、老爺は海のように深く澄んだ瞳で、その動きを制した。
彼はひどく傷つき、絶え間なく血を流す自身の体を眺めながら――やけに落ち着いた声で、言った。
「これだけ血を流せば、いかに鬼といえども生きてはいられない。私は、もう、長くはないのです。だから……私を置いて逃げなされ、少年。黒羽織たちが集まってくる前に、ここから抜け出すのです」
「なにを言っている!? 俺たちは、おまえを助けるためにここまで来たんだ! それを――無駄にするつもりか!?」
老爺の言葉に、澪丸は声を荒げる。
「茜は、おまえを助けたいと願っていた! 文彦は、おまえのためにここに戻ってきて、死んだ! その、思いを……すべて、無下にするつもりなのか!?」
激流のような怒りが、澪丸の頭に沸き起こる。少年がこうも感情的になったのは、生まれて初めてかもしれなかった。思考より先に動いた体で、老爺に詰め寄る。
それでも、老爺の意思に変わりはないようだった。その深い眼差しで、地下牢の床に転がる文彦の亡骸をじっと見つめる。――だが、そこに歩み寄ろうとした足は、もう、まともに動かないようだった。
少しだけ悲しそうな顔を浮かべ、彼は語る。
「あるいは、私に罪がなければ、まだ
「……なに?」
「鬼の里が襲われた元凶は、私なのですよ」
ぽつりと、
静まり返った地下牢に、深く重い言葉が響いた。
「私はあるとき、里を離れ、しばらくの間、一人旅をしていました。――ですが、その最中、人里に近いところで、あの黒羽織たちに見つかってしまったのです。しかし、私は人間に見つかってしまったことも、彼らに後を着けられていたことも気づかなかった。そして、結果的に、彼らに鬼の里の場所を教えることになってしまったのです。つまり――私がいなければ、皆が殺されてしまうことも、なかった」
そのとき、鬼の老爺の体から、ほのかな赤い光が生まれた。それはやがて渦を巻き、炎のような熱を帯びる。
「だから、すべての責任は私にある。……里が襲われたあと、せめて連れ去られた茜と文彦だけは助けようと、仲間を売るような発言をして生き延びましたが――茜があなたに救われ、文彦が殺されてしまった今、もう、私に生きる意味はないのです。せめて最後に、あなたが逃げる手助けをして、この命を終えることにしましょうぞ」
やがてその光は、老爺の体をすっかり覆い尽くし、暗い地下牢を照らしながら、勢いを増していった。
――
それは、澪丸が三〇〇年後で戦った鬼も使っていた、火を生み出す術である。すべてを焼き尽くすほどの激しい炎を生み出すかわりに、その
「なぜだ……!?」
驚愕する少年に、老爺は朗らかに笑う。
それは、覚悟のような、諦めのような笑みだった。
「ここが燃えている間に、あなたは茜を連れて遠くまで逃げなされ。そして、願わくば ここから西方にある、『鬼ヶ島』まで、彼女を送り届けてはくれませぬか」
「――鬼ヶ島、だと」
「はい。そこには、私たちの里と同じような、鬼の集落がある。私が最後にそこに行ったのは、もう三十年も前のことなので、いまはどうなっているかはわかりませんが……風の便りによると、まだそこにはたくさんの鬼が住んでいるようです」
燃え盛る鬼火は勢いを増し、とうとう、本来なら燃えるはずのない土の壁にまで引火する。焼けるような熱い感覚が、澪丸を襲った。
「少年。どうか茜を、よろしくお願いします。彼女を孤独から、悲しみから、救ってやってください。老いぼれが最期に望むのは、たった、それだけ……」
そこで、ついに老爺の体は炎に包まれて見えなくなった。彼の側にあった文彦の亡骸も、灼熱の炎にのまれる。
澪丸は老爺に向けて何かを叫ぼうとしたが、こらえるようにして息を飲み込んだ。
そうして、一度だけ炎の向こう側を見るように目を細めたあと、
決して立ち止まらず。決して振り返らず。
少年は、ただ、駆けつづけた。
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