文彦
澪丸たちが、茶屋から遠くはなれた人気のない路地裏で立ち止まったときには、すでに日は暮れていた。薄暗い闇に包まれた周囲からは、どこからか
「……もう、追ってはこないみたいだな」
辺りの気配を探って、澪丸は一息をつく。そうして、いまだ息を切らしている、鬼の少年――文彦へと問いかけた。
「聞きたいことは山ほどあるが……最初にこれだけは、はっきりさせておきたい。おまえは、何者だ?」
厳しい眼差しで自身を見つめる澪丸に対し、文彦はその小さな体に強い意思をみなぎらせて、言った。
「おれは、
その言葉に、嘘偽りはないように思えた。澪丸はしばらく思案するように目を閉じると、やがて、ぽつりと言葉を紡ぐ。
「……なるほどな。事情は理解した。俺は鬼の味方ではないが、茜の味方ではある。だから、おまえのことも、ひとまずは斬らないでおこう」
「お師匠……」
少年のその言い方に反応したのは、茜である。彼女は編み笠の下から、澪丸と文彦を交互に見つめ、語気を強めて語る。
「文彦は、とってもいい子。そんなに警戒しなくても、わるいことはしない」
「だから、俺はこいつになにもしないと言っているだろう」
ほんの少しだけ声を荒げて、澪丸は告げる。
少年は、わずかに苛立ちを覚えていた。ひとまず、危機は脱したとはいえ――「余計なこと」に首を突っ込んでしまったのは間違いないのだ。このままでは、魔神の情報集めどころか、この町で自由に動くこともままならないだろう。言いようのない焦りが、澪丸の心の中で渦巻いていた。
そこで、長い走りにも息ひとつ切れていない雅々奈が、不思議そうな顔を浮かべて、文彦に尋ねた。
「おい、鬼っ子二号。あのいかつい野郎は、いったい何者なんだ? 岩でも砕ける雅々奈ちゃんの本気の一撃が、あいつには効いてなかったぞ? ばけもんか、ありゃ」
茜が「鬼っ子」であるのに対し、文彦が「鬼っ子二号」というのは、彼女らしい安直な命名であったが――鬼の少年はそんなことを気にしていないふうに、真剣に語る。
「あいつは、
「ぼさつのごーせつ、ねぇ 」
「あいつは元々、名のある寺院で修行を積んでいた僧侶だったらしい。他の僧侶の数倍もの力を持つ、すごい法力使いだったそうだけど――その法力を私欲を満たすために使い、破門されたみたいなんだ」
その説明を聞きながら、澪丸は考える。
そもそも「僧侶」とは、明神歴が二桁のころに生まれた職業であり――魔族に怯える人間を、信仰の力で救おうとしている者たちのことを指す。宗派が細かく枝分かれしているため、その教義を一言で言い表すことは難しいが、どの宗派にも共通しているのは、修行を積めば「法力」と呼ばれる不思議な力を使えるようになるという点である。
だが、あの剛刹という男ほど強い法力を扱える人間は、澪丸の生まれた時代にも存在しなかった。気配を消して澪丸に近づき、雅々奈の一撃を受けてもびくともしない。そんな
「『
そう語る文彦の目に、暗い影が宿る。
澪丸が茜のほうを向くと、彼女もまた、恐れと悲しみに耐えるような表情で、口を固く引き結んでいた。
茜があの男を指差して言おうとしていた、言葉。その続きを思い浮かべて、澪丸は彼女の心中を察し、静かに目を閉じる。
(つまりは……親の仇、ということか)
彼女が剛刹という男に向ける恐れの感情は、澪丸も痛いほどに理解できた。少年にとってのそれは、魔神や魔族であり……「
思い出しそうになる辛い記憶を振り払って、澪丸は仕切り直すように言った。
「……とにかく。『抜多組』とやらが、警団とも懇意にしている以上は、俺たちはこの町をおおっぴらに歩けないわけだ。鬼がうんぬんはともかく、先に手を出したのはこっちだからな。やつに怪我はなかったとはいえ、文句をつけられて暴力罪かなにかで訴えられてもおかしくはないだろう。――どうする? 夜のうちに町を抜けて、どこかに逃げるか?」
魔神の情報集めができなかったのは、心残りだが――今はどうこう言っている場合ではない。やろうと思えば警団くらいは蹴散らせるだろうが、澪丸はこれ以上事を荒だてるつもりはなかった。
「――ちょっと、待ってくれ!」
そこで、焦ったように声をあげたのは、文彦であった。
その場の全員が見守る中、鬼の少年は少しばかり躊躇ったようなそぶりを見せたあと、口を開く。
「まだ……
「――え」
勇気を振り絞るように告げる彼の言葉に反応したのは、茜だった。驚愕に目を開いて、続く言葉を語る。
「じいさんが、どうして……!?」
「もともと、おれたちの里から『抜多組』に連れ去られたのは、おれと、茜姉ちゃんと、
「なに……!?」
今度は、澪丸が文彦の言葉に驚愕した。食い入るようにして、鬼の少年に向けて問いかける。
「そいつは、他の鬼の住処を知っているのか!?」
「……それは、分からない。そもそも夜可郎爺さんは、俺と、別の経路で連れ去られた茜姉ちゃんを助ける機会を伺うために、あえて他の鬼を売るようなことを言ってまで生き延びたんだ。この町に着いてから、爺さんは『抜多組』にひどい拷問を受けたけど――結局、口は割っていない。それが、爺さんが何も知らないからなのか、それとも知っていて黙っているのかは、おれには分からないけど……」
「じいさんは、きっと、知ってるわ。里でもいちばんの『ものしり』だったもの」
そこで、茜が文彦の言葉を遮った。その口調には、確信が見て取れる。
彼女は澪丸に向き直り、訴えるように告げた。
「お師匠。その夜可郎じいさんっていうのが、さっきわたしが言った、ものしりのおじいさんよ。夜可郎じいさんなら、きっと、お師匠が探している鬼のことも知っているわ」
だから、と付け加えてから、茜は澪丸に対して、懇願するような表情を浮かべて、言った。
「――お師匠。どうか、夜可郎じいさんを助けるために、力をかして」
赤い瞳が、まっすぐに澪丸を見つめていた。その眼差しは、少年に有無を言わせぬほどに、強く。
澪丸は一度、深く呼吸を整えてから、返す。
「……まったく。
その声からは先ほどまでの苛立ちは消え失せ、代わりにどこか観念したような響きが感じられた。
「仕方ない。『
その言葉を聞いた鬼の娘の表情が、花開いたように明るくなった。彼女の喜ぶ顔を見て、少年は目を細める。
これまでの澪丸であれば、答えを出すまでに、もっと迷っていたかもしれない。いくら魔神の情報が得られるかもしれないとはいえ、鬼を助けるために人間の町で暴れるなど、あまりに常識外れだったからだ。
だが、いまの澪丸には、その答えを後押しする、もうひとつの理由があった。
(茜にこれ以上、同族を失う苦しみを背負わせたくはない。俺はこれ以上、こいつが悲しむ姿を見たくはない)
茜は、同族を滅ぼされ、故郷を失い、たった一人で過酷な世界に放り出された、孤独な存在だった。澪丸は彼女と自分の境遇を重ね、一言では言い表せぬ感情を彼女に抱いていたが……これまでは、茜が鬼であるという理由で、心の距離を縮められずにいたのだ。しかし、雅々奈と碗太郎と出会ったことで、人と魔族の間にも、確かな「つながり」が生まれうることを知った。
だから、澪丸はもう、彼女を大切に思うことを、躊躇ったりはしなかった。思うように彼女を守り、望むように彼女のために戦う。たとえ誰かに血迷っていると言われても、澪丸は止まるつもりはなかった。
やがて、鬼の少年へと向き直り、澪丸は尋ねる。
「文彦といったな。その爺さんは、どこに捕らえられているんだ?」
「この町の端にある、『抜多組』の屋敷……その、地下牢だ。俺が兄ちゃんを案内するよ。あいつらのところまで戻るのは、正直に言ってこわいけど……夜可郎爺さんを助けるためだ、おれも男を見せてやる」
小さく細い体に確かな決意をみなぎらせて、文彦はそう言ってのけた。
その闘志に感化されるようにして、今まで黙っていた雅々奈が、肩をぶんぶんと回しながら口を開く。
「なーんか、おもしろそうな展開になってきたじゃねーの。――で、雅々奈ちゃんは、どうすりゃいいんだ?」
「うむ。おまえは留守番でもしていてくれ」
「はいはい、留守番ね、任せとけ……って、はぁっ!? なんで雅々奈ちゃんにはヤらせてくんねーんだよ!?」
周囲の民家から人が出てきそうなほどの大声で、雅々奈が叫ぶ。
澪丸は、子供を諭すときのようにゆっくりした口調で、彼女に向かって説明した。
「俺たちの目的は、あくまで鬼の爺さんを助け出すことで、『抜多組』とやり合うことじゃない。だから、できれば誰とも戦わずに事を成し遂げたいんだ。そんなところにおまえを連れて行ったら、どうなるか――」
と、そこでふと、澪丸は「あること」を思いついて、言葉を切る。
そうしてしばらく考えたあと、少年はふたたび顔を上げて、薄い笑みを浮かべるのであった。
「――いや。やっぱり、おまえには重要な役割を果たしてもらおうと思う」
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