菩薩の剛刹


 夕暮れ時の「丹呉の町」に響いた、悲鳴とも叫びともつかない言葉を耳にして、澪丸は目を見開いた。


 そのまますぐに、後ろに立つ茜のほうを見やる。だが、もちろん彼女は編み笠を目深にかぶったままで、その角は一寸たりとも見えない。彼女じしんも、困惑したような表情で澪丸を見上げていた。


(なぜ、茜が鬼だとばれた? もしや、俺と同じように、気配で鬼がわかる人間が近くにいるのか……?)


 緊張した面持ちで、澪丸は宝刀の柄に手をかけた。もしもそんな芸当ができる人間がいるとすれば、そいつは間違いなく澪丸と同等か、それ以上の使い手であるはずだ。戦うことになれば、茜を守りきれる保証はない。額に汗を浮かべて、少年は構えをとった。


 だが、しばらくその姿勢で固まったあと、澪丸は異変に気づく。



 通りを歩く人々は、誰も澪丸や茜のほうを見ていないのだ。仕事帰りの大工も、道端で話をしていた女たちも、声がした方向、通りの向こうに釘づけになっている。


(……なんだ? 茜のことを言ったのではないのか?)


 訝しむようにして目を細め、澪丸が彼らの眺める方向、通りの北のほうへと視線を移した――その、瞬間に。


 少年の目が、こちらに向けて駆けてくる小さな人影をとらえた。色褪せ、擦り切れた服をまとった「それ」は、息も切れ切れに、必死で走る。


(子供? いや――)


 地面の土を勢いよく跳ね上げながら、「それ」は何かに追われているかのように、時折後ろを振り返っては切羽詰まったような表情を浮かべる。そして、思い出したように両手を動かし、頭から生えた角・・・・・・・を隠そうとするのだった。


(――鬼、か!)


 町人たちが後ずさりをするように道をあける中、その影が澪丸たちへ肉薄した。痩せ細った少年のような容姿をした「鬼」は、滝のような汗水を流しながら、その前を通り過ぎようとして――


文彦ふみひこ!」


 澪丸の後ろに立つ茜の呼びかけに、その足を止めた。


 鬼の少年が、弾かれたようにこちらを向く。短く切りそろえられた黒髪と、まだ幼い顔立ち。人間でいえば齢八つほどに見えるその鬼は、編み笠の下に隠れた茜の顔を見るなり、驚きと喜びを含んだ表情で、叫んだ。


「――茜姉ちゃん!?」





 鬼の娘と、鬼の少年の瞳が交差する。それはまさに、生き別れた姉弟が偶然にも再開したかのような、そんな瞬間であった。


「文彦、どうしてここに……!?」

「茜姉ちゃんこそ! 無事だったのか……!?」


 戸惑いと歓喜が混ざった表情で、互いが互いの名を呼ぶ。ふたりともが、「信じられない」とでも言いたげに唇を震わせていた。


 やがて、文彦と呼ばれた鬼の少年は、今にも泣きだしそうな顔で、茜に向けて抱きつく。小柄な彼の体は、小刻みに震えていた。


「姉ちゃん! 俺……」

「文彦……」


 自らの腕の中の少年を愛おしそうに抱きとめながら、茜がつぶやく。彼らは、今ばかりは周囲のことなど気にもとめず、「再開」を喜ぶのであった。



 澪丸はそんな光景を見守りながらも、いまだ事態が飲み込めず、思考を続ける。


(この少年。鬼であるにも関わらず人間のような外見をしている、という点については、茜の例があるから驚きはしないが……そもそも、こいつはなんで角も隠さずに、人間の町にいたんだ? なにかに、追われているようだったが――)


 と、澪丸が少年の走り来た方角を向いた、その瞬間。


「見つけたぜぇ!」

「ちょこまかと逃げやがって……観念しやがれ!」


 鬼の少年を奇異の目で見つめる観衆をはねのけながら、数人の男たちが姿を現した。彼らはみな黒地に白い虫の紋様がつけられた羽織をまとい、その手には鞘から抜かれた短刀が握られている。


 その出で立ちを見て、澪丸は例の「人売り」を思い出す。たしか、あの二人もまた、この集団と同じような服装をしていたはずだった。


(なるほど……こいつらは、俺が倒した人売りの仲間で……この鬼の少年は、茜と同じくこいつらに捕まっていたが、自力でなんとか逃げ出したと……そういうことだな)


 ここまで情報が集まれば、状況は自然と理解できた。


 黒羽織の男たちは、短刀をぎらつかせながら、鬼の少年へとにじり寄る。茜は、少年をかばうようにして、彼を抱きながらその背中を男たちに向けた。


(……またしても、面倒事に巻き込まれたものだ)


 澪丸はひとつため息をついて、茜とその男たちの間に割って入る。「なんだぁ!?」「邪魔すんな、てめぇ!」と、男たちが怒気をはらんだ声で威嚇をするが、澪丸にとってそれは、羽虫の鳴き声以下の、とるに足りない囁きであった。


「俺はべつに、おまえたちに恨みがある訳ではない。だから、おまえたちが刀をおさめてくれれば、それに越したことはないのだが……」


 そうして、瑠璃色の刀、その柄を握り、しゃらん、と流麗な動きで抜刀する。


「やるというなら、俺が相手をしよう」


 静かな、宣言。


 気迫のこもった少年の物言いに、構えていた男のうちのひとりが、思い出したように口を開いた。


「こ この、青い刀! 権兵衛ごんべえたちがやられたっていう、謎の妖術使いじゃねぇか!?」

「なに!? 気がついたら意識を奪われていたという、あの……!?」


 そこで、男たちは態度を一転して、ざわめきだした。どうやら、澪丸がかつて倒した、人売りの話をしているようだが――


(妖術?)


 どうやら例の人売りは、澪丸に一撃で昏倒させられたときのことを、「妖術で気絶させられた」と勘違いしているようなのだ。実際には、妖術など微塵も使わず、たんに首の後ろを刀の峰で叩いただけなのだが……あの男たちは、それすらも理解できなかったらしい。


 そこで、羽織の男たちのうち、中央に立っていたものが、喝を飛ばすように叫んだ。


「なにびびってんだ、お前ら! 妖術使いだろうとなんだろうと、邪魔するやつはぶっ殺せ! どうせ、剛刹ごうせつさまほど強い力は持ってねえはずだし……こいつをらなきゃ、おれたちが剛刹さまに殺されちまう!」

「――いや、いや。私が、部下に対して、そんな物騒なことをするわけがないでしょう?」


 突然の、声。


 澪丸が弾かれたようにして、それが聞こえてきた方向――後ろ・・を向くと、そこには、僧侶がまとうような純白の袈裟に身を包んだ、見上げるほどの大男が立ちはだかっていた。彼は、はちきれんばかりに贅肉ぜいにくがついた顔に菩薩のごとき柔和な笑みを浮かべ、澪丸を見下ろしている。


「――――ッ!?」


 後ろを、とられた。それも、気づかぬうちに。


 それは、澪丸が「鬼界天鞘流きかいてんしょうりゅう」を継承してから初めての出来事であった。どれだけ相手が強かろうとも、たとえ暗闇の中で戦っていたとしても、少年がそんな状況に陥ることはなかったのだ。それが――この男には、いとも簡単に、背後への接近を許してしまった。


「ご、剛刹ごうせつさま! わ、わたしらは、こいつにびびっていたわけではなくて、ですね……」

「わかっています。そんなに怖がらなくてもいいでしょう? まったく、あなたたちは、鬼よりも私のほうが恐ろしいというのですか……」


 恐れおののく黒羽織たちに向けて、見た目に似合わぬ甘ったるい声で、剛刹と呼ばれた白袈裟の男は告げる。


 そうして、彼は澪丸に向き直ると、少年を見下ろした姿勢のまま、にこやかな笑みを作った。


「はじめまして。私は、剛刹ごうせつという者です。一応は、彼ら『抜多組ばったぐみ』の頭領をしている者でしてね。うちのゴロツキがご迷惑をかけたことを、ここにお詫びします」


 丁寧な口調で話す男を見上げたまま、澪丸は身動きがとれなかった。それほどまでに、この男には隙がなかったのだ。下手な動きを見せれば、そこで致命的な一撃をくらうと少年に思わせるほどに、剛刹という男はただならぬ雰囲気をまとっていた。


「おや、今の私の技が気になるのですか?」


 白袈裟の大男は、髪の毛ひとつない禿頭を太い指で掻いて、半分は困ったように、そして半分は嬉しそうに、言った。


「そうですね、部下が無礼な態度をとったお詫びとして、特別にお教えしましょう。……あなたの背後をとったのは、『無歩むほ』という、気配を消す法力ほうりきです。身につけるのにかなりの修行を必要とする反面、習得すればご覧の通りの効果を発揮します」

「法力、だと……?」


 男が語った言葉を、少年は鸚鵡返おうむがえしに呟く。しかし、剛刹と名乗った大男は、それ以上の説明をするつもりはないようであった。かわりに、視点を澪丸から肩を寄せ合うふたりの鬼に向けると、ため息をついたように、告げる。


「大事な商品・・を逃した、と聞いて、さすがの私も慌てて駆けてきましたが……どうやら、結果的には幸運であったようですね。取り逃がした別の鬼を、ここで見つけることができたのですから」


 その目線の先では、文彦という鬼の少年のみならず、茜までもが、目を見開いて恐怖に震えていた。その怯えようを見て、澪丸は事態が只事ではないことを再確認する。


(人売りに対しても、自身を疎む村人たちに対しても、必死で耐えて抵抗する様子を見せていた茜が……ただ怯えるだけで、にらみ返しもしない……?)


 彼女は、まるで自身の恐怖そのものが形をなした存在が目の前にいるかのように、男を見つめたまま歯を鳴らしている。


 その、震える指先が、ゆっくりと男に向けられた。




「お、師匠。こいつが、父さまと、母さまを――――」




 だが。


 彼女が言い終わる、その寸前。



 ガラリと扉が開く音がして、澪丸たちが先ほどまでいた茶屋の、扉が開いた。


「いやー、遅くなってすまねぇ! ここの店主の爺さんに、口説かれちまってなぁ! ほら、雅々奈ちゃんは可愛いから、わかる男は放っておかねぇのよ! 雅々奈ちゃんの好みじゃなかったから断ったけど、そんなら飴ちゃんを持ってけって、うるさくてなぁ! 仕方なく、いっぱいもらってきてやったぜ!」


 そこから現れたのは、身の丈ほどもある巨大な金棒を担いだ女であった。彼女は能天気な顔で店の暖簾のれんをくぐると、目の前の不穏な空気に顔をしかめる。



 その、影に向けて。


 澪丸は全霊を持って、叫んだ。


「雅々奈ァッ!」


 その一言だけで、彼女は全てを悟ったようであった。呑気な顔から一転、野生の獣のような眼光がその瞳に映る。間髪入れずに、背負っていた金棒を引き抜き――彼女は、ただならぬ雰囲気を放つ剛刹という男、その白い袈裟に包まれた体に向かって、全力の一撃を叩き込んだ。


 バギンッ! という、硬く重いものがぶつかる音・・・・・・・・・・・・が、丹呉の町に響いた。


 大男は後方へと吹き飛ばされ、道端にあった蕎麦屋そばやの屋台にぶつかる。またしても激しい音が生まれ、木組みの屋台が粉々に砕け散るが――剛刹という男には、傷ひとつつけられていなかった。代わりに、いつの間にか彼の体を覆うようにして展開されていた、白く半透明な壁のようなものが、ひび割れとともに砕け散る。


(防御の、法力か……!)


 背筋に悪寒が走る感覚を覚えながらも、澪丸は茜と鬼の少年のふたりを抱き寄せて、家と家の隙間へと駆けだす。黒羽織たちが呆気にとられてそれを見送る中で、雅々奈も続いて走りだした。


「なんだよー、どこ行くんだよ!? せっかく、強そうなやつだったのによぉ!」

 

 不平を述べる彼女になにかを喋る余裕は、いまの澪丸にはなかった。



 得体の知れない白袈裟の男から逃げるように、少年はただ一心不乱に走りつづける。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る