口惜しき記憶、ひとつの誓い


 一跨ひとまたぎ。


 それが、かつてあの都で、魔神「厭天王えんてんおう」が、宝刀を構えて闘志を燃やす澪丸に対して行った、たったひとつの動作だった。


 そもそも、魔神が澪丸を視界に入れていたのかすらも分からない。「鬼界天鞘流きかいてんしょうりゅう」の継承者である澪丸も、それ以外の武者たちも、等しく地面を這う蟻のように見えているかのように、魔神は少年の上をただ淡々と通り過ぎていった。


 自身を無視するかのような魔神の振る舞いに、澪丸は一秒だけ呆気にとられたあと――より強い闘志を体に漲らせて、「鬼界天鞘流」の奥義、「禍瑠璃天鞘まがるりてんしょう」を魔神の足へと放った。



 だが。


 少年が血反吐ちへどを吐く思いで身につけた必殺の天鞘は、魔神の硬い皮膚に当たると、いともたやすく跳ね返された。行き場を失った鞘が、澪丸の目の前の石畳に落下し、大きな音をたてる。


 今度こそ、澪丸は言葉を失った。


 澪丸はおろか、すべての人間が繰り出せる攻撃の中でも、「禍瑠璃天鞘まがるりてんしょう」は屈指の威力を誇る技のはずだった。それが全く通用しないとなれば――人間はどうやって、かの魔神を倒すことができるというのか。


 周囲の武者たちも弓を引いて魔神を狙うが、その矢は一本たりともその黒い皮膚に刺さりはしない。そうしている間にも、「厭天王えんてんおう」は多くの人が避難している都の中央へと進撃していく。


 本音を言ってしまえば、澪丸はそこで膝から崩れ落ち、己の無力を嘆くために叫びたかった。しかし、地を這うようにして襲いくる魔族の軍勢を食い止めるために、少年は諦めることすらも叶わない。


 誰かを守るためでも、魔神を殺すためでもなく、ただ目の前の敵を斬り伏せるためだけに、澪丸は刀を振るった。そこには、希望も、大義もありはしない。そんなものを抱えて戦うことすらも許さぬかのように、かの魔神は絶対的で、絶望的であった。



 少年の体が魔族の爪に切り裂かれ、炎上する都の石畳に倒れたときには――もうすでに、魔神の軍勢と人間の戦いは、決着を迎えていた。



 人間の敗北という、最悪のかたちで。






 草木ひとつ生えない大酷山だいこくやまの険しい岩場を、澪丸は軽々とした身のこなしで駆けあがっていく。その背中に乗せられているのは、少年の脚力に驚きながらも、どこか神妙な面持ちでその後ろ頭を見つめる茜。


 疾風はやての如き速さで駆ける澪丸の額には、大粒の汗が浮かんでいた。その理由は、背に娘を乗せたまま激しく動いているから、というだけではないだろう。これから始まるかもしれない「戦い」に向けて、少年の血潮ちしおが熱くほとばしっているのだ。


 抑えきれない激しい流れが澪丸の体を駆け巡り、その呼吸を荒くする。


(この時代において、「厭天王えんてんおう」がどれほどの力を持っているかは分からないが――あの魔神のことだ。たとえ生まれ落ちてから数年しか経っていなかったとしても、恐ろしい力を持っているに違いない)


 それは予感ではなく、確信だった。いかに「魔神が最も弱い時代」に跳躍してきたからといって、澪丸がそれを倒せるという保証はどこにもないのだ。相手と刺し違えることができれば上等、というほどの覚悟で、澪丸は岩山を駆け抜けて頂上を目指す。



「……お師匠。ちょっと、止まって」


 そのとき、少年の背中から、真剣な響きを帯びた茜の声が飛んできた。澪丸は平らな岩場の上で止まると、彼女に促されてその体を地面へと下ろす。


「なんだ、いきなり。こんな殺風景な岩山の、景色でも楽しみたくなったのか?」


 茶化すようにそう言ってみるが、彼女がそんな理由で自分を止めたのではないことを、澪丸はよく理解していた。


 ごうごうと、岩肌を削るほどに荒い風が、二人の間を吹き抜ける。


「話が、あるの」


 少年に向かい合って立つ茜は、決然とした表情で、澪丸の目をまっすぐに見据えていた。そこには、「決して退かない」という彼女の固い意思が見える。


「お師匠は、このさきにいる鬼が、『えんてんおう』っていう名前だったら……その鬼を、殺そうとしているのよね」

「殺すとは言っていない……とかいう問答は、いまさら不要か。――そうだ。俺はそいつを探し出し、殺すために、旅をしている」

「……その、鬼は。なにか、悪いことをしたの?」


 芯の通った、強い言葉が、澪丸の耳に届く。


 茜は、いま、力ではまったく敵わない澪丸に対して、正面をきって「戦おうと」しているのだ。――同族である鬼を、傷つけられまいとして。


「もちろん、わたしだって、わかってる。お師匠みたいな人間がいれば、人売りみたいな人間がいるみたいに……ぜんぶの鬼が、いいひと・・ばかりじゃないってことくらいは」

「…………」

「それでも。それでも、わたしは、お師匠に鬼を傷つけてほしくない」


 それは、下からものを頼むときのような、懇願こんがんなどではなく。


 少年を対等な存在として見た、彼女からの「意見」であった。


「どうにかして、その鬼をころさなくてもすむ方法はないの? どうやっても、お師匠はその鬼を斬らなければいけないの?」

「……………………」


 娘の言葉に、澪丸はただ、黙る。


 彼女の編み笠が飛ばされてしまいそうなほどに強い風が、辺りに吹き荒れていた。岩の間を縫って走る風が、亡者の叫びのような音を発する。



「……無理だ」


 やがて、ぽつりと、少年は漏らした。


「『厭天王えんてんおう』は、数えきれないほどの人間の命を奪うことになる・・・・・・・。やつを野放しにしておけば、それだけ多くの血が流れることになるんだ。そういう意味で、これは俺ひとりの問題じゃない。何千、何万……いや、数ではとうていあらわしきれないほどの人間の未来が、俺にかかっているんだ」


 「未来」で起こることを茜に話すことは、まだ、できない。だから、彼女がその言葉に納得するかは、澪丸には分からなかった。


 しかし、茜は少年の真剣な表情からただならぬ事情を察したように、それ以上は詰め寄ってこなかった。そのかわり、もう一度澪丸の目をまっすぐに見据えて、確たる口調で言葉を紡ぐ。


「お師匠が、そこまで言うなら。その鬼については・・・・・・・・、わたしが口をだすべきことじゃないのかもしれない」

「……」

「――そのかわり。『それ以外の鬼はころさない』って、ここで約束して」


 茜の口から飛び出した言葉に、澪丸は驚きのあまり目を見開いた。


 「厭天王えんてんおう」以外の鬼を殺さない、なんてことは、この先の道中を考えるに、まったくもって理不尽な要求だった。魔神に近づけば、それ以外の鬼と戦うことになるのは必至であるからだ。そもそも自分が生きて帰れるかもわからない戦場で、相手の命のことまで考えて戦うなど、いくら澪丸といえども不可能に近い。


 それでも、茜は「一歩も退かない」という意思を紅い瞳にみなぎらせて、澪丸をじっと睨んでいる。


「もちろん、お師匠がこの約束を守ったところで、ひとつも得をしないなんてことは、わたしにもわかってる。――だけど、もしお師匠がここで約束をしてくれなかったら、わたしはお師匠が鬼をころそうとするのを、全力で止める。角が折れても、首が飛んでも、わたしはお師匠の邪魔をする」

「おまえ……」


 茜の目は、本気だった。


 彼女はきっと、本当に澪丸を止めようとするだろう。たとえその結果、自身の命を失うことになったとしても。


「……仕方が、ない」


 茜がこうなったら絶対に退かないことを、澪丸はこれまでの短い付き合いの中でも知っていた。彼女は、大人しそうに見えて、とんでもなく強情なのだ。


「わかった。俺は、『厭天王えんてんおう』以外の鬼は、殺さない。神でもなく、仏でもなく――ほかならぬおまえに誓って、約束する」


 自分でも「甘いな」と澪丸は思う。


 やろうと思えば、そんな約束など交わさずに、彼女をここで見捨てて旅を続けることだってできたのだ。


 だが――それをしなかったのは、ひとえに、この娘に少なからぬ情が湧いていたからである。澪丸は、どうしても、茜を見捨てたり、彼女を裏切ったりする気にはなれなかった。


「……ほんとうに。ほんとうに、約束してくれるのね?」


 茜の表情が、一転して太陽のように明るく輝く。いっそ眩しいくらいの笑みを、彼女は澪丸に向けていた。


 少年はその顔を眺めながら、目を細めて――やがて、岩場が続く「大酷山だいこくやま」の頂上へと目線を移す。


 曇り空の下、もうすぐそこまで迫っている山頂には、「何者か」の気配が感じられた。まだ少しの距離があるため、その主が鬼であるかどうかは分からなかったが――あそこまで行けば、何かが起こるのは間違いなかった。


「……約束は、守るさ。やつ・・でなければ、俺は手を出さん。だが、もしも、『厭天王えんてんおう』であった場合は――容赦は、せん」


 そう告げて、澪丸はふたたび茜を背負い、急な斜面が広がる岩山を駆けのぼっていくのであった。


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