金棒の雅々奈(ががな)
やがて坂道が終わり、
その、黒くごつごつした岩が転がる山頂の、ちょうど真ん中に。
――ひとつの影が、
(あれは……)
じりじりとにじり寄りながら、澪丸はその正体を探る。
影は、近くに建てられた石造りの小屋のほうを時折ながめて、なにかを話しながら、肉のようなものを焚き火であぶっていた。どうやら、まだこちらには気づいていないようだ。
澪丸は茜を背から降ろし、岩陰に姿を隠しながら、徐々に近づいていく。そうして、彼我の距離がおよそ二十歩ほどになったところで、少年は改めてその影をまじまじと見つめた。
長い黒髪に、ぼろぼろにすり切れた
(「
正面からその顔を見ようと、澪丸が足音を殺して動いたとき――
こつん、という音をたてて、後ろにいた茜が、足元の小石を蹴飛ばしてしまった。それと同時に、女のもとに向けてころころと小石が転がっていく。
「……なんだあ!?」
そこでついに、肉を焼いていた女が、澪丸たちの存在に気づいた。彼女は手にしていた食い物を放り投げると、小石が転がってきた方向を睨む。
(まずい……!)
澪丸は茜を抱き寄せ、とっさに大きな岩の陰に体を隠した。だが、その位置はすでに相手にばれてしまっている。
ざり、ざり、とゆっくり歩いてくる音が、澪丸の耳に届いた。その足音から察するに――彼女はただの「野生児」ではない。
(明らかな、殺気。あいつは、俺たちに攻撃を仕掛けようとしている)
息を飲んで、澪丸は宝刀「王水」を鞘から引き抜いた。左腕に茜を抱いたまま、少年は刀を構える。
やがて、足音が止まった。その気配は、澪丸たちの隠れる岩の、ちょうど反対側に位置している。
(来るならば、右か、左か……)
心臓の鼓動が早くなる。全身から、冷たい汗が噴き出す。右、左、そして頭上。いかなる方向から相手が来ようとも迎撃できる姿勢を整えて、澪丸はただ、相手が動くのを待った。
だが。
「すううううううっ……」
聞こえたのは、大きく空気を吸い込むような、音。
「――――うをらああああああああっ!!」
次の瞬間、空気を引き裂くような雄叫びとともに、
砕け散った黒い岩の向こうに、巨大な金棒を振り下ろした姿勢で固まる女の姿が、澪丸の目に映った。
*
(嘘、だろ……!?)
粉々になった巨石と、その向こうに立つ女を交互に眺めて、澪丸は言葉を失った。右、左、そして頭上。あらゆる方向からの襲撃を予想していたつもりが、その斜め上を行く「正面突破」をきられて、さしもの「
固まる澪丸の前で、女は振り下ろしていた巨大な金棒を軽々と肩にかつぎ上げた。その、以外にも端正な顔立ちに野蛮な笑みを浮かべ、どこか嬉しそうに彼女は言う。
「どうだ、
嬉々として語る彼女の額に、鬼が持つはずの
ただの人間が魔族を
澪丸は目の前の女を警戒しながら、彼女が最初に座っていた場所を見やる。――そして、その近く、石を積み上げて建てられた小屋の中から、「魔族」の気配を感じ取った。
だが。
(この気配……魔族ではあるが、鬼ではない……?)
石の小屋の内部から漂う「におい」は、鬼のものではなく、もっと獣臭いものであった。
意識を研ぎ澄まして探ってみるが、この山頂には、ほかに気配と呼べるようなものはない。澪丸たちのほかには、金棒の女と、小屋の中の魔族しか、ここにはいないのである。
「……待て、女。おまえと争う気は、ない……!」
そこで澪丸は、刀を
その行動に、女のほうがどう反応するかを、澪丸は冷や汗をかいて見守ったが――幸いにも、彼女は殺気をおさめて、拍子抜けしたような顔で金棒を下げた。
「なんだあ? もう降参か?」
「降参もなにも、そもそも戦うつもりはない。俺は、ここにいるという、鬼に用があるんだ。そいつがどこにいるか、知らないか?」
できるだけ穏やかな声を作って、澪丸は言った。もちろん、この女が鬼の仲間である可能性がある以上、「そいつを殺すために来た」と告げることはできない。はぐらかした言い方になってしまったが、正直に言うよりはいくらかましだろう。
――という、澪丸の心中を知ってか知らずか、その女は少しだけ含み笑いをしたあと、大口を開けて笑い出した。
「――――っはっはっは! おめえも、
「……え?」
「最近多いんだよなー、そういうやつ。
彼女は笑いながら、後ろに建てかけられている小屋のほうを振り返って、ひゅう、と指笛をふいた。
すると、石の小屋の入り口から、大きな四つ足の影がのそりと這い出てくる。
「なっ……!?」
そこに魔族がいることは分かってはいたが――実際にその姿を目の当たりにして、澪丸は驚愕の声をあげる。
それは、澪丸の背丈よりもはるかに大きな「犬」であった。人懐こそうな顔立ちに、真っ白な毛で覆われた体。人が飼っているそれをそのまま大きくしたような見た目に、少年は本当にこれが魔族か、と疑わずにはいられない。
「紹介するぜ。こいつは
白い巨犬は、太い尻尾を振りながら、「飼い主」の前に歩み寄り、行儀よく座った。愛嬌のある、丸っこいふたつの瞳が、澪丸と茜を物珍しそうに眺めている。頭を女に撫で上げられると、「碗太郎」は気持ちよさそうな鳴き声を発した。
その様子を見て、澪丸の後ろに隠れていた茜が身を乗り出した。先ほどまでの緊張感はどこへやら、彼女は犬に夢中になったように目を輝かせている。
苦笑いを浮かべる澪丸の前で、金棒を持った女は、空いた手で自分自身を指さして、言う。
「――そんでもって、
あまり正確でない言葉遣いで、
だが、澪丸はまだ、完全には警戒を解いていなかった。低い声で、
「何も悪いことをしていないと言ったが……おまえは、追い剥ぎをしていると聞いたぞ。そして、剣術や法力の使い手がおまえに挑んだが、帰ってきたものはいない、とも。まさかその人間たちを、殺したわけではあるまいな」
迫る澪丸に対して、彼女はしかし、「めんどくさい」とでも言いたげな表情を作る。
「なんだなんだ、誰が
土で汚れた端正な顔立ちに
そのとき、澪丸の後ろに隠れていた茜が、こらえきれなくなったように、犬の魔族――
まるで布団にくるまるようにして自分の体毛に身を預ける娘を、犬の魔族はまんざらでもなさそうにじっと見つめている。その眼差しは優しく、これまた澪丸が知るような血生臭い魔族の雰囲気は、その巨犬からは感じ取ることができなかった。
「なんだなんだ、
その反応に澪丸は驚き、思わず口を開く。
「……鬼が、恐ろしくはないのか?」
「ああん? 鬼が、恐ろしい? そりゃなんでだ」
重量感のある金棒を軽々と肩まで持ち上げ、
「弱っちいやつは、べつに人間だろうと魔族だろうと恐ろしくはねーよ。逆に、強いやつは、人間でも魔族でも怖……くはねーか。むしろワクワクする。ありゃ、そういう意味じゃ、
びしっ! と人差し指を向けられて、澪丸はハッとしたように彼女を見た。
――人間だ、魔族だという
彼女の思考が論理的であるかどうかは置いておいて、その言葉は、深く澪丸の心に刺さった。激しい波のような揺らめきが、少年の心中で渦を巻く。
(――そんな考え方ができる人間も、この世にはいるのだな。……ならば。ならば、俺もまた――)
深い思考に入り込もうとした澪丸であったが、とつぜん目と鼻の先に金棒を突き付けられて、ふと顔を上げる。そこには、野蛮な笑みを浮かべた、雅々奈の姿があった。彼女は風に長い黒髪をたなびかせながら、嬉々とした声で、告げる。
「魔族が魔族どうし、遊んでるんだ。こっちも人間どうし、じゃれ合おうじゃねーの」
彼女はそこから一歩下がると、金棒を大きく振りかぶった。そして、澪丸がなにかを言う前に、恐るべき速度で少年との間合いを詰め、両手で握った鉄の塊を振り下ろす。
がぎん! という破砕音と共に、澪丸が一瞬前まで立っていた地面が砕かれる。無数の石の破片が、曇り空にまで飛翔した。
「……おい! 俺はおまえとやり合う気はないって、言――」
「おめえにその気はなくとも、雅々奈ちゃんはおめえとヤりてえんだよ! 見たとこ、そうとう腕が立つみてーじゃねえか!」
後方に大きく飛びすさりながら、澪丸は刀をふたたび抜き放ち、雅々奈へと抗議する。しかし、彼女は好戦的な笑みを崩さないままに、またしても黒い金棒を振りかぶった。
いかに「
「避けてばっかじゃ、つまんねーだろォ!」
長い黒髪を振り乱し、金棒を振り回す女が叫んだ。
しかし、澪丸は「これ以上は何を言っても無駄だ」と判断して、口を閉じたまま反撃の機会を伺う。
(こいつの、攻撃。大振りなようでいて、隙が少ない。なるほど、
冷静に分析をしながら、相手を「不揃いな岩が多く転がっている場所」まで誘い込む。
雅々奈は巨大な
逃げ続ける澪丸に、女がしびれを切らしたように叫んだ。
「くそっ! いい加減……雅々奈ちゃんのブツを食らいやがれぇッ!」
自分が澪丸に誘導されているとも知らずに、不安定な足場の上で、無理やりに金棒を大きく振りかぶる。
(――ここだ!)
次の瞬間、澪丸は風を斬り裂くほどの神速で、瑠璃色の宝刀を振りぬいた。
がきん!! という音が、大酷山の頂上に響き渡る。
それと同時に、黒く太い鉄の棒が、持ち主の手を離れて宙を舞う。金棒はしばらく吹き飛んだあと、はるか後方の地面へと激しい音をたてて叩きつけられた。
「……勝負、あったな」
金棒を失い、茫然と立ち尽くす雅々奈の喉元に、澪丸は宝刀の刃をつきつける。もちろん首をはねるつもりなどなかったが、こうでもしなければ、この女はまだ抵抗を続けそうで――――
「いーや、まだだね! 雅々奈ちゃんは、負けてねえ!」
否。
この女はまだ、この
「――なっ!? おまえ、自分がなにをしているか分かっているのか!?」
「わふぁっふぇるほ!」
刃によって切れた口の中から血を流しながらも、雅々奈は刀を離そうとはしない。そうしている間に、彼女が
「嘘、だろ……!?」
その、あまりにも強い「噛む力」に驚愕をあらわにして、澪丸は慌てて彼女の口から刀を離そうともがく。
「お……おおおっ!」
全力を振り絞り、ようやくその口から刀を引き離すことに成功した澪丸は、間髪入れずに、雅々奈の首の後ろへと峰打ちを狙う。
だが、彼女は意識をすぐには手放さなかった。岩の転がる地面に倒れ伏し、もがきながら、澪丸を強く睨む。
「負けるか……負けるか……負けるか! 雅々奈ちゃんは、
野生の獣をもしのぐような、生命力。澪丸はここまで丈夫な人間を、これまでに見たことがなかった。
「強いこと、負けないことが、雅々奈ちゃんの生きる意味なんだ……! こんなところで、それが揺らいで、たまる、か、よ――――」
だが。
脳を揺らされた衝撃には、さすがに耐えきれなかったらしく。
吠えるように叫んでいた彼女は、眠るようにしてその場で意識を失った。
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