聴くエロス

雲出鋼漢

エロは心の目で見ろ

 ピリリとした痛みを感じ、黒沢は右手を見た。

 親指の腹と、人差し指の先、中指の関節部分が割れ、出血している。

「クソッ」

 悪態を吐き、目覚まし時計が鳴る前に布団を出た。吐く息が白い。

 枕もとの白色ワセリンと非伸縮テーピングテープを取り、慣れた手つきで傷口を塞いでいく。

 顔を上げると、姿見の中の自分と目が合った。

 ひどい顔だ。隈が濃く、目に生気が無い。

 長い労働時間、少ない休憩、少ない休日、少ない手当てに劇物・毒物・有機溶剤。

 労働が彼の心を削り、肉体を苛む。二年前に素手で有機溶剤を使わされてから、指先が痛まなかった日は無い。身体は常に重く、頭に靄が掛かったようだ。

「ああ――――――」

 せめて、そうせめてこれだけは、という思いがある。

 せめて、夜だけは自由に。

「――――――オナニーしてえ」



音声作品販促短編 エロは心の目で見ろ



「すればいいじゃない。指が痛いなら、オナホールという選択肢もある」

 小岩井はそう言って缶コーヒーを啜った。

 月に一度の連休設定週末の前夜。残業のため一時間だけ参加した柔術の練習の後、黒沢はエロに詳しい友人を部屋に招いていた。

「オカズの問題? 遅くに帰って来てPCの電源を入れるのが怠いのは分かるけど、スマホで十分だろう。おすすめの動画でもプレゼンし合おうか?」

 グラスのビールを煽った黒沢は右手を掲げる。三本の指がテーピングされていた。

「指がこれなんだよ。上手くフリック入力出来ねえし、画面がテープで白く汚れる」

「動画なら操作は必要ないだろう」

「動画なあ。俺エロ漫画とかエロCG派なんだよ。次点で小説」

「あー、好みはあるものな」

 畳の上で向かい合って座っていた小岩井がPCデスクに向かい、ウェブブラウザを開くと、FANZAに接続した。ログアウトして自分のアカウントでログインする。

「二次が良いならエロアニメという手もあるけど」

「レベルがアレ過ぎるだろ」

 小岩井のアカウントの膨大な量の購入履歴を前に、ああでもないこうでもないと議論する。

「コスプレものは? 2.5次元だろう」

「三次元なら三次元らしく素人ものとかが好きかなあ。そもそもAVがそんなに好きじゃないからさあ」

「よしVRゴーグル買おう。細かい性的嗜好なんか没入感でカバーできる」

「汗かきだからあのスポンジが我慢なんねえんだよ」

 話がまとまらない中、ふと小岩井がPCの上にあったmp3プレイヤーを手に取った。

「これは使えるの?」

「ああ、会社で昼休みに耳栓と目覚まし代わりに使ってる奴だが」

「ふむ……」

 小岩井はFANZAのタブを閉じ、同人ソフトの取り扱いの多いDLsiteにアクセス。また自分のアカウントでログインした。

「DLsiteよりFANZAの方が安くね? DLsiteはレビュー書いたりしねえとポイント還元ないだろ。専売もFANZAの方が多い気がするし」

「こいつらはDLsiteの方が圧倒的に多いんだ」

 購入済み履歴画面で小岩井が選択したタブは、“音声”。


「音声作品に興味はない?」


 黒沢は新たな扉を叩いた。






 小岩井がクリップボードとペンを持ち、黒沢に問う。

「リアルとファンタジーならどっちが好き?」

「ファンタジーとかあんの?」

「サキュバスは鉄板だね。コミックアンリアル的な展開が多いよ」

「うーん。だったらリアルかなあ」

 クリップボード上のコピー用紙にリアルと記入される。

「風俗は抵抗ない? 純愛や処女じゃないと嫌かい?」

「いや、問題ないけど」

 リアル/初心者向け/短編/抜き/高品質……。質疑応答のたびにメモが増えていく。

「じゃあこれだね」

 小岩井がPCに作品を表示する。

「サークル声好雨読。『あまとろ性感エステ~百合色リラクゼーションへようこそ~』」

「…………」

「1プレイに一時間以上かからないけど、ボリュームもある。何よりエロに癖が無くて分かりやすい。

 本当なら一番好きな、はこさんに這い寄られるのを推したいところだけど、あれは最低限の音声作品を聞く能力を身に着けてからの方が良いし、そうしないともったいない。語らないエロスと間合いの感覚とか環境音はもう絶対こっちなんだけど最初にこれを聞いても分かんないだろうっていうか」

「お、おう」

 早口で語りだした小岩井をなだめる。大して興味を持てない事に、こちらから言えることはなかった。

「イヤホンはカナル型? Panasonicの安いのか。全然良いよ。とりあえず今日は僕のをデスクトップに置いとくけど、気に入ったら買ってレビューも書きなよ」

「分かった、分かったから」

 飲んでないのにテンションがおかしい小岩井が落ち着いたら、このエロ談義はお開きとなった。




 消灯して布団に入り、イヤホンをして目を閉じる。勤務日の昼休みはこれで寝ているので、大して邪魔には感じなかった。

 スリープモードの時間設定をしてから、再生ボタンを押す。

 まずドアベルの音が聞こえてから、

『いらっしゃいませ、チェリーブロッサムへようこそ』

 その夜黒沢は、仕事のストレスも、ストレスから生まれた心身の不調も忘れ、久々に“溺れた”。






 月に一度の定時帰宅設定日。ブラジリアン柔術道場からの帰り、道場近くの自動販売機で黒沢と小岩井が温かいコーヒーを飲んでいる。

「あれはVR以上のもんだな」

「そうなんだよ。世界は全て、感覚器官を通して脳内に映し出されるものなんだ。視覚を使わなくても、音だけで頭の中に世界を作れる。どんなにリアリティのある映像でも、脳内のリアルには勝てないんだ」

「声もいいんだけど、声だけじゃないんだよな」

「それ。効果音とシナリオね。サークルによっては、風呂に抱き枕とか沈めて温泉シーンの効果音録音したりしてるんだってさ」

「すげえなそれ」

 指のひび割れは治らない。どれだけ傷口を塞いでも、手を動かす限りまた新しい傷口が生まれる。

 それでも、と。黒沢は思う。

 俺は自由を手に入れたぞ。



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