第153話 いとしいとしと呼ぶ声は 終
そんなこんなで富士さんにも納得してもらえてほっとしたのもつかの間。
あたしにはまだたくさんやることがある。「その日」に向けて、とにかく少しでも準備をしていかないと。
お内儀さんともいろいろ調整しないといけないし……。
でも今日は。
今日は、いちばん気の進まない準備をする日だ。
あたしが吉原をあがること、桜と梅の前から「山吹」としてのあたしはいなくなること、二人に伝えなきゃ。
本当はこんな話したくない。ずっと二人の姉女郎として面倒を見たいって気持ちももちろんある。だけど、なにも言わないで急に消えるのはもっとひどいことだから、ちゃんと話すよ。
でも、やだな……二人がいない毎日なんか……寂しくなるね。全部、あたしが前に進むために必要なことなんだといっても……二人からしたらそれはただのあたしの都合だから……。
「山吹どん、大事な話とはなんでありんすか?」
「わっちらなにかご粗相でも……」
あたしの前に並んで座った桜と梅が、おずおずと聞く。
もちろん「粗相」なんて二人がするはずがない。
……いつかは来ると思ってたけど、こんなに早く来るとは思ってなかった。二人にさよならする日。
「いないな、そたあ話ではありんせん。実はの、わっち……」
二人の目がじっとあたしを見つめてるのがわかる。
あたしは思わず息をつめた。
歌舞伎町のキャバでどんな偉い人と話したときより、江戸時代ではじめて徳之進さんと話したときより、今の方がずっとどきどきしてる。
桜と梅はもう、本物のあたしの妹と同じ。ううん、それ以上かもしれない。
「……わっち、近々、勤めをあがりまする」
ぱちん、と二人の目が大きく見開かれた。
「……いま、なんと」
三十秒くらいの間のあと、桜がゆっくりと声をあげた。
梅はきゅっと唇を噛みしめてる。
「急なことで申し訳ござりんせん。さる大名の……二人には行ってもよござんすな、土浦藩の土屋さま、そのお方のもとに嫁入りいたしんす」
「それは……おめでとさんでござりんす……」
「……桜姉さんの言う通りでありんす……」
すっと桜と梅が三つ指をついた。
二人はそのまま顔を上げない。
ぽた、ぽた、と畳に落ちる水滴。――涙!
あたしは下を向いたままの二人の肩に腕を廻す。
ごめん……ごめんね……!
でも二人はもう大丈夫だから。芸事はしっかり仕込んだし、手紙の書き方も文句ない。そのうえ英語も話せる! 桜と梅はあたしの自慢の弟子だよ!
「申し訳ござりんせん……ほんに、めでたいお話の席で泣くなぞ……」
「笑って送り出すのが筋なのは重々承知しておりんすが……山吹どんがいなくなるのが悲しゅうて……」
いいよ。いいよ。あたしだってキャバの先輩があがって泣いたことがある。逆に、泣くほどの先輩に自分がなれて、嬉しいよ。
「気になさんすな。二人の行く末はお内儀さんと桔梗殿によく頼みなんしたゆえ、なにも気煩いはござんせん」
あたしは二人の背中を撫でる。
最初に会ったときよりずいぶん大きくなったね。
「お内儀さんは二人を振新にすることも考えておりますえ。二人がよう育った証でありんす。のう、二人とも、わっちがのうなっても巳千歳をよろしゅう頼みんす……」
あたしの声に、ちいさく二人が頷いた。
そして、二人が顔を上げる。
桜の小さな手が自分の目元をぐっと拭いた。
梅も濡れた目を必死にしばたたかせている、
「わっちら、山吹どんのお言葉通り、きっと巳千歳を盛り立てまする……!必ず……必ず……立派な花魁になりんす……!」
「わっちも、もう、寂しいなぞと
涙交じりの二人の覚悟と祝福。
それにあたしまで泣きそうになって、あたしは二人の体を、いつまでも抱きしめていた。
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