第152話 いとしいとしと呼ぶ声は 拾七~土屋~


「富士、山吹に会いに行ったというのはまことか」


 平伏している富士に私――土屋――は尋ねる。


「はっ。わたくしの一存で……申し訳ないことでございまする」

「謝らずともよい。まことか、否か、どうだ」」

「……はい、参りました。吉原の、巳千歳へ」

「そうか……それで、どうした」

「とは?」

「直截に答えよ。おまえが山吹を厭うておるのは知っている。山吹になにを言った?」


 富士がさらに頭を深く下げる。

 私の心の中は後悔で一杯だった。

 山吹から土浦に来るという言質を取り、安堵していたころだった。そのせいですこし浮かれていたかもしれない。けれどそれを、重臣の中でもうるさがたの富士に悟られるとは……。

 面倒なことになる、と思った。

 山吹は金や妻の座になびく人間ではない。その上、誰が見ても最上級の女性だ。私に言いはしないが、土屋家よりいい条件の落籍ひか先もあったろう――悔しいことだが。だから、半ば諦めかけてもいた。

 それがなんと、山吹の口から直接、「土浦に来たい」という言葉を得ることができたというのに……。

 嬉しさが顔に出てしまっていたのだろうか。

 すべてのはじまりは、山吹が他の大名の宴席に出ているのを見たことだった。

 華やかな笑顔、舞い踊るしなやかな手足……それになにより、その侠気のある気風に一目で魅了された。

 彼女は、末席に座る目立たない私にも気を配り、上座の大大名ともなにひとつ分け隔てをしなかった。

 美しい、と思ったときにはもう遅く、すぐに私の胸は彼女で満たされていた。春に山吹の花が咲き乱れるように、野山がその鮮やかな色に染まるように、私は山吹に恋をしていたのだ。

 そして、そんな私を、山吹も同じように好いてくれた。他の大名のように大金を払うこともできず、身分を偽って巳千歳に通う私のどこがいいのかと聞けば、自分のためにそこまでしてくれるのが好いたらしいと。

 なんという女性だろうと、私は思った。吉原三千人の頂点近くまで君臨しながら、彼女がいちばん大切にしたのは銭金にならぬ「心」だけだった。

 それから私たちは、文を交わし、ときに廓に通い、距離を縮めていった。なかでも、ともに相聞歌を送りあった喜びは忘れがたい

 そして、私とともに土浦に来る、と決めた山吹のやり方も、奇想天外ながら、彼女らしい粋なもので、私はそれへの協力を約束した。

 ……そのやり方を富士に言えば納得させられるだろうか?私に負担をかけまいとした彼女のやり方を。

 いや、生真面目な富士のことだ。土屋の蔵の中身のことなどを持ち出して、それでも、それでも、と反対をするだろう。

 もともと、巳千歳に通うのにもいい顔はされていなかったのだから、致し方あるまい。

 しかし……私は山吹を失いたくない。いや、失うわけにはいかない。山吹は、いまの私の、すべてだ。

 山吹がいるからこそ、私は政務に身を粉にし、自らの財を投げうっても、藩の領民のために働くことができる。


「富士よ、どうした。面を上げい」


 私が重ねて声をかけると、富士はゆっくりと顔を上げた。


「まこと申し訳なき……!」

「それは先ほど聞いた!」

「いくら藩の御為を考えたこととは言えど、わたくしは殿のお気持ちをないがしろにいたしました。その非礼、殿のお怒りはごもっともでございます。腹を切れと仰せになられても否やは申しませぬ。しかし、ただひとつだけお聞きになってくださいまし! 山吹殿は、わたくしの思うお方とはまったく違っておりました!」

「なに?」

「お恐れながら、わたくしは、山吹殿に金子を積み、秘密裡に殿の申出をお断りしていただこうといたしました。贅沢な暮らしの保障さえあれば、女子おなごに言うことを聞かせるのは容易いとあのお方を侮っていたのです。されど」

「されど、どうした」

「山吹殿は……自由な風のごとき方でした。金子ごときではそよとも動かず、誇りを汚されれば烈風のように激しくなり……。その姿勢に向き合い……わたくしはわたくしの不明を恥じました」


 言いながら、富士が額の汗をぬぐう。

 その言葉を聞いて、私はどこか誇らしい気持ちを覚えた。

 私の山吹は本当に見事な女なのだ! この頭の堅い重臣が賞賛するほど!


「殿が山吹殿を娶ることに、もはやなんの異存もございませぬ。江戸でも華やかな暮らしを捨てる上に、自らの糧食まで携えてくるお方になんの否やがありましょう」

「……糧食?」


 聞き覚えのない単語が聞こえてきて、私は富士に聞き返した。

 山吹、おまえはなにをした?


「恥ずかしながらわたくしは、土浦藩のお蔵の事情も山吹殿に説明いたしました」

「富士は、まったく、なにを……山吹は土浦の事情などとっくに知っておる」

「はい。その上で、山吹殿は、土浦で米の代わりになるものを考えると言われ、見事にそれを解決されました」

「なんと?!」

「水の多い土浦の土地のあり方なども良く勘案され……そんな土地に合ったレンコンを植えるべし、と。実際に、レンコンで団子を作り、米代わりに食するやり方も教えていただきました」

「……で、富士はそれを食べたのか」


 我ながら間の抜けた問いだとは思ったが、あまりの予想外の展開に、私はそれしか思いつかなかった。


「はい。擂ったレンコンと片栗粉だけでできているとは信じられぬ、餅のように腹ごたえのあるものでした。山吹殿は、土浦に来るためならば、米は食べずその団子だけでもいいと言われ……。わたくしはその胆力に敬服した次第にございます」


 また、富士が頭を下げた。

 けれどそれは、最前までの申し訳なさそうなものではなく、自然な敬意の発露に見えた。その敬意は、とても喜ばしいことに、山吹へのものだろう。


「そうか……」

「わたくしの方でも種々お調べしましたが、確かにレンコンは土浦の地に向いておりました。山吹殿の言う通り、米の作れぬ場所でも作れるかと。……正直わたくしは、これまで吉原いちの評判を軽くみておりました。所詮は贅沢に慣れた人形であると。けれど今では……さすが殿のお選びになった方だと、そう思うのみです」


 富士の言葉を聞くうちに、私の中にふつふつと喜びが沸きあがる。

 土浦に来させることで、山吹を華やかな世界から引き離すことになるのでは、本来手に入れられるはずだった暮らしを奪うのでは、という懸念が私になかったわけではない。たとえそれを山吹本人が是としていても、だ。

 だが、山吹はそんな枠の外にいた。

 山吹は、私よりもっと先を見据えていた。

 富士はまだ頭を下げたままだった。

 私は、その富士の姿に心の中で礼を言う。

 富士、ありがとう。私はまた自分の知らぬ山吹を知る事ができた。

 そして山吹よ、おまえがさらに恋しくなった。

 早く、土浦にお前を連れて帰りたい。

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