第139話 いとしいとしと呼ぶ声は 肆
「山吹どん? お顔の色が青うござんす」
桜の手があたしを揺する。
「ほんに大丈夫でありんす。ほんに……」
心配そうに顔を覗き込んでくる梅に手を振って答えてから、あたしはしゃんと座り直す。
こんなわけのあわからないことで二人に心配をかけるわけにはいかない。
『杏奈』のあたしのことは、ここでは誰にも秘密なんだから。
「ああ、では、熱いコーヒーを一杯持ってきてくんなんし。なに、今日はもう客は来やしやんせん」
「されど……」
「桜、気ぶっせいな顔をなさんすな。気がかりがあれば、わっちは梅とともにおりんす」
「ならばようござんすが……梅、山吹どんのことをよう見ていてくんなんし」
「あい、わかりんした」
桜が階下に降りてコーヒーを取ってくる間、梅はその言いつけを守って、あたしの前にちんまりと座っていた。
あたしは、まだ混乱したままの頭をなんとか立て直そうとしていた。
夢だけれど夢だとは思えない鮮やかすぎる阿嘉也さんのこと、それを裏付けるような、この時代にはないはずのキーチェーン。
きっとなにか関連がある。
あたしは夢の内容をもっとしっかり思い出そうとする。
歌舞伎町、夢じゃない夢、誰も知らないはずの『杏奈』を知っている阿嘉也さんの言葉――。
――いま、記憶の中をなにかが通り過ぎた。
懐かしいスクランブル交差点、そこを歩いてるあたし、そして……一緒にそこにいたのは、スーツを着た阿嘉也さん……?
……それは、夢じゃない……? 現代でも、あたしは阿嘉也さんに会ったことがある……?
会ったことが……ある……?
「痛っ……!」
そのとき、つかみかけていた記憶の尻尾を吹き飛ばすような痛みが頭を走り抜けた。
思わずあたしはこめかみに指先を当てた。
強い炭酸がいっぺんにはじけたような、きつい痛みだった。
ダメだ。これ以上なにも思い出せない――!
「山吹どん?!」
梅のちいさなてのひらがあたしの肩を掴む。
その泣きそうな声を聞きながら、あたしは薄れかけていく意識の中、必死に「大丈夫」と繰り返していた。
※※※
「……や……やま……やま……ぶき」
あたしを呼ぶ……声? これはお内儀さん?
そう思っていたら、唐突に視界がクリアになる。
自分が目を開けたことに気づいたのは、たっぷり三十秒はたってから。
まず見えたのは、なんともいえない表情を浮かべたお内儀さんの顔だった。
うんと苦いものを口に含みながら笑おうとしたら、きっとあんな顔になるだろう。
「ああ、やっと目を覚ました。まったく、あんたときたら、あたしたちにあんまり心配をかけるんじゃあないよ。……あんた! 山吹が起きたよ! その変な薬を仕舞いな!」
「わっちは……」
「自分の座敷でいきなり気を失ったんだよ。梅が血相変えて内所に来てねえ」
いまいち状況のつかめないあたしが起き上がろうとすると、慌てたようにお内儀さんに押しとどめられる。
「ああ、まだ寝てな。医者が来る。動くのは一通り診てもらってからにしなね。なに、ここはあんたの座敷だから遠慮はいらないよ」
そういえば、周りの光景に見覚えがある。
は、と思わず息をついてからあたしは天井を見上げた。
なにがあったとしても、勤務時間中に倒れるなんて情けなさすぎる。恥ずかしくて、できることならお布団の中に潜り込んで隠れたい。
「わっちのために医者を……申し訳ござりんせん」
「あんたはうちのお職だ。いまいなくなられたら困る。あたしが思うのはそれだけだよ。なにも情けなどかけちゃあいない。いいね?」
お内儀さんがそっぽを向く。
でも、その耳の先はふんわり赤くなっていて、あたしの胸の中はなんだかあったかくなった。
ありがとう、まあむ ふらわあ。
それからお医者さんが来て、いろいろ聞かれたけど、結局どうしてこんなことになったかはわからなかった。
とりあえず疲れてたんじゃないかな……ってことでその場は決着。
でもあたしは、そんなことが原因じゃないのはわかってる。
原因は――きっと阿嘉也さんだ。
いまはまだ切れ切れの記憶だけど……全部思い出せたとき、あたしが江戸に来た理由も、わかる気がするんだ。
でも今日は、お内儀さんの言葉に甘えて眠りにつこう……。
あ、明日起きたら、桜と梅にも「大丈夫だよ」って言わなくちゃ――……。
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