第140話 いとしいとしと呼ぶ声は 伍

 そして翌朝!

 あたし、めっちゃ元気!

 ぐっすり寝たせいか、頭の中がぐんと澄んでいて、昨日の具合の悪さが嘘みたいだ。


「ありがとうござりんした」


 一晩中、枕元に付き添ってくれていたっぽい桜と梅にもお礼を言って、あたしは布団の上へと起き上がる。

 あー……赤い目。ごめんね、本当に。


「山吹どんになにかありんしたら、わっちらこの身を投げ出してもと……思いなんして……」


 桜が涙声を絞り出すようにする。

 梅は震える手で袖口を握りしめていた。


「山吹どんへの恩、わっちらまだ、ちいとも返しておりんせん。吉原の稲荷神にお百度でもしようかと……かと……!」

「申し訳ないことでござりんす!」


 言いながら、あたしは思わず二人をまとめて抱きしめた。

 もちろん、抱ききれなかったけど、それでも精一杯両腕を広げて、二人をその中に閉じ込めようとした。


「ほんに申し訳ないことでござりんした。わっちの身なら大事のうござんす。ここのところ、婚礼やなにやら騒ぎが大きく、血の道でも上りんしたのでありんしょうよ」

「さよでおりんすか……?」


 すん、と鼻をすすりながら桜が聞く。


「あい。医者もそう言っておりんしょう?」

「疲れから来たのでは……と、言っておりんしたが……」


 こくこく、と梅が桜のその言葉にうなずいた。

 二人から手を離したあたしは、その可愛らしく結った頭をひと撫でして、意識してにっこりと笑う。


「その通り。だからの、心配なさんすな。今日もわっちは勤めに出まする」

「え……」

「なにも言うては駄目でおりんすえ。休んでおれとか、寝て過ごせとか、わっちに聞く気はありんせん」

「でも……」

「わっちは巳千歳のお職。わっちがのうなりんしたら廓はどうなりまする。つまらぬと帰ってしまう客がおるやもしやんせん。これが花魁の心意気、二人にもぜひにわかってほしゅうおりんす」


 あたしがそう言い切ると、なにか言おうとした桜を梅が押しとどめ、綺麗に三つ指をついた。


「さすが天下の山吹花魁。よい勉強になりんした」

「梅……!」

「桜姉さん、ここで山吹どんを止める方が無粋だと思いなんしえ」

「されど……」

「桜、その忠義な心根、まっこと嬉しゅうおりんす。ただの、いまは梅の言うことの方が、わっちの虎の名にふさわしゅうござんすよ」


 このときあたしの頭をよぎったのは、前に女比べをした羽織芸者の虎吉さんのことだった。

 あたしと花街の虎の座を賭けて競った、辰巳ではナンバーワンの芸者さん。振ればちゃきちゃき音がしそうだった彼女も、今みたいな状況になれば、あたしと同じことを言うだろう。

 それが、この街の女の誇りだ。


「……わかりんした。ただ、すこしでも具合が悪うなりんしたら、必ずお伝えくんなんし。それだけはわっちからのお願いでありんす」


 桜もすっと三つ指をつく。

 そして、あたしを振り仰いだその目には、少女ではなく禿としての覚悟が見えたような気がした。

 それを確認して、あたしはその場に立ち上がる。

 昼見世に間に合うように支度をして――お内儀さんたちにもお礼をしに行かなきゃ――それから――。

 いろんな方向に飛ぶ思考。それが阿嘉也さんのところに差し掛かったとき、また、ずきんとこめかみに痛みが走る。同じことは何度も繰り返したくなかったあたしは、ひとまず、考えるのをそこで打ち切った。

 今度は桜と梅に心配をかけないように、あたしは平気な顔で歩き出す。

 こんなの、なんてことない。あたしはこの子たちの姉女郎なんだ。

 でも。

 きっと。

 阿嘉也さんのことを最後まできちんと思い出せたとき、あたしの中のなにかは大きく変わる。

 それは予感じゃなくて、確信だった。





<注>

お百度:お百度参りの略です。神社などに百日間通しで通い祈願する熱心なお参りの形です

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