第138話 いとしいとしと呼ぶ声は 参~髪結い異聞録弐~

 ……疲れちゃったな。

 お殿さまが帰ったあとの座敷であたしはため息をつく。

 いつも陽気に騒いでいくお殿さまも、あの告白のあとは静かだった。

 そして、早い時間で帰っていった。

 ざわざわとした吉原の喧騒が聞こえる。

 なんだか……眠くなって……きた。


 あれ?

 あたしは周りの景色が変わっているのに気づいた。

 もう見慣れた低い建物や土の道の代わりに、背の高いビルや敷き詰められたアスファルトが目に入る。

 え、もしかして……元の世界に戻った……?

 ふと見上げた目の前には歌舞伎町一番街のアーチ。

 うん、間違いない。ここはあたしの街、歌舞伎町だ。

 あたしはここでナンバーワンになって、ここで生きてきた。

 なんで? どうして?

 突然の急展開にあたしの頭が追い付かない。

 あたしは自分の座敷にいたはず。

 え、じゃあ、桜と梅は? 巳千歳は?

 もしかして、全部、ゆ……。


「夢であり夢でない。そうなんですよ、花魁。――いいえ、杏奈さん」


 背後から声がして、あたしは慌てて振り向く。

 そこにいたのは――阿嘉也さん、だった。

 不思議なの。江戸の街で会ったときと同じ服装なのに、周りを通り過ぎる人たちは振り向きもしない。

 まるで、阿嘉也さんが見えないように――。


「それはあなたもですよ」


 心を読まれたみたいだった。

 阿嘉也さんは穏やかに笑ってる。

 はっとあたしは自分の姿を確認する。あたしは、花魁の仕掛を着たままだった。

 なのに、誰もあたしを見ない。


「すこしだけ、あなたに干渉させていただきました。それには、あなたと相性のいい場所の方が都合がいい……あなたが元いた場所だから当たり前なのですが」


 阿嘉也さんがぱちんと指を鳴らす。

 絶え間ない雑踏が、消えた。

 こんな歌舞伎町、見たことない。早朝だってお正月だって、ここには、誰かが、いた。

 賑やかで、ひっきりなしに人が行きかって、でもそこが大好きな理由なんだから。


「失礼。人がいると気が散ります。こちらの事情で申し訳ありません」

「……あなたは、なんなの」

「ん?」


 阿嘉也さんが首をかしげる。

 あたしはぐっと歯を噛みしめる。

 そうでないと、気圧されてしまいそうだった。

 こんな気分になるのははじめてだ。杏奈のころも、山吹になってからも、命の取り合いくらい平気でしてきたのに……!


「あなたはなんなのって聞いてるの。これが夢じゃないなら、あなたはなにがしたいの?」

「そろそろ、花魁には心の準備をしていただこうと」

「どういうこと? 答えになってないわよ」


 こぶしを握ったあたしが一歩を踏み出すと、「まだご勘弁を」と阿嘉也さんが後ずさる。

 そして、もう一度指を鳴らした。

 音を立てるようにして街並みが変わる。まるでプロジェクトマッピングのように、あっという間に見慣れた吉原に代わる。


「なぜ花魁がここにいらしたのか。なにが招いたのか……」

「いま話して! でないと殴る!」

「これは恐ろしい。大丈夫。近いうちに参ります。もうすぐあなたは思い出すでしょうから」

「だから答えになってない!」


 振りかぶったあたしのこぶしは、阿嘉也さんがかざしたてのひらに吸い込まれた。

 嘘?! 全力だよ?


「花魁、そうおむずかりにならずに。必ず、また参ります」


 なにもなかったように笑う阿嘉也さん。

 あたしは悔しさのまま、こぶしをさらに握り締めた。

 なんで、どうして、こんなうすっぺらな手のひらが振り抜けないの――?

 阿嘉也さんのもう片方のてのひらが、こどもをあやすようにあたしのこぶしの上に重ねられる。


「さ、手を開いてください。いいものを差し上げましょう」


 その言葉は穏やかなのに有無を言わせない響きがあって、あたしは握っていたこぶしを開く。

 すると、その上になにかがとん、と落とされた。


「ただの夢ではない証にこれを――」


 そして、そのてのひらが次にあたしの目の前を覆った。目の前には、闇。そこから聞こえる声。


「ねえ花魁、歌舞伎町は、ちっとも変っちゃいなかったでしょう?」


 最後に耳に残ったのは、はじめて会ったときと変わらない、落ち着いた優しい音だった。



                ※※※



「山吹どん、山吹どん」

「目を覚ましてくんなんし。いかがなさんした」


 あれ……。


「お体の具合でも悪うおりんすか」

「桜姉さん、どういたしんしょう」

「お内儀さん……いないな、やり手に……」


 この声は……桜と、梅だ。

 ゆっくり、ゆっくり、意識が目覚めていく。

 あたしの目の前には、いつもの通りに桜と梅がいた。とても心配そうな顔をして。


「あ、お起きなんした!」

「よござんした! 声をかけても眠っておりんしたゆえ、心配いたしんした」

「大丈夫でありんす。ちょいと居眠りを……」


 なんだ、やっぱりただの夢か。

 あたしどうしたんだろうなー。疲れてるのかなー。お殿さまに告られたりしたし、けっこう毎日考えることあるもんなー……。

 そこまで考えたとき、あたしはてのひらの中の違和感に気づく。

 冷たくて、堅い。

 慌ててあたしは手を開く。


 ――そこにあったのは、現代のあたしが好きだったブランドのキーチェーンだった。

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