第110話 髪結異聞録
「山吹どん、山吹どん」
「なんですかえ」
ぱたぱたと座敷に入って来た桜が、あたしの声でぴたっとストップをかける。
「あ、あい、髪結いさんが来なんした」
すると、後ろからついてきた梅も、桜の背中に追いついたみたいで、その場で話し始めた。
「その、いつものお千代さんの代わりに殿御が……」
「吉原に男の髪結いはめずらしゅうござんすなあ。されど、一人もいないわけではおりんせん。そたあ大騒ぎをすることではありんせん」
「いないな、それが……」
二人がもじもじと顔を合わせて、ぽっと頬を赤くする。
「その、役者のような男ぶりでありんす」
……そっちか。
「それでその役者に会ってわっちにどうしろと」
「どうとかはござんせん。ただ、わっちらなんだか胸が早く打って……」
「桜姉さんが、山吹どんにもはよ知らせた方がよござんしょうと……」
マジか。そんなイケメン?
二人ともそれなりに遊び慣れてる人たちの姿は見てて、同じ年の女の子よりそういうのに免疫はあるはず。
それがこんなに乙女になっちゃうなんて……どんだけなんだろう?なんか興味が湧いてきた。その髪結いに。すこしかっこいいかなーくらいなんだろうけど……。
※※※
「どうも、千代さんの
すごいイケメンでした。
嘘マジ歌舞伎町のホストみたい……!
大きな目はやさしくて、笑うと目じりにシワができるのもほんとよき。これは桜と梅の気持ち、わかりまくり。
「本日は花魁の髪を結わせていただきます。では、失礼いたします」
阿嘉也さんの指があたしの髪に触れる。
声もいい感じだー! 忘れかけてた歌舞伎町の雑踏の音が聞こえてきそう!
「ところで花魁、あの禿の方々の髪を結われたのは花魁だとか」
「さよでありんす」
「めずらしい型でございますね」
この日の桜と梅は山吹髷を結ってたんだ。
それが本職の人の目にも止まって、あたしはちょっと、いやかなり、嬉しくなった。
「でござんしょう? わっちの考えた髪型でありんすよ。わっちしか結える者はおらんせん」
「なるほどなるほど。巻き髪、盛り髪、確かにここでは結えぬ髪」
……え……? いまなんて言った?
思わず振り向きそうになったあたしに、阿嘉也さんの穏やかな声がかかる。
「ああ、花魁、動いちゃあ駄目ですよ。綺麗に結えなくなります。伊達兵庫は巻き髪よりも難しい」
やっぱり! どういうこと? なんでこの人は「巻き髪」を知ってるの? 現代の髪型を知ってるの?
なにから聞けばいいかわからなくなったあたしに、相変わらず穏やかな声が話しかける。
「花魁、どうかお静かに」
阿嘉也さんが自分の口元に人差し指を当てた。
「みなさまご事情は知らぬのでしょう? 私にも言う必要はございません」
え、え、え、どゆこと、どゆこと、待って阿嘉也さんも、現代の、人、なの?
でも確かにここで下手なことを言って阿嘉也さんを騒がせない方がいい。近くには桜と梅がいる。なにより、全部あたしの思い過ごしだったときが怖い。あたしの方がおかしくなったって思われちゃう。
とりまあたしが黙ったら、阿嘉也さんも黙々と髪を結ってくれて……。
「さあ、仕上がりました。お千代さんと違い不行き届きなところがあるかもしれませんが、どうかご勘弁を」
鏡の中のあたしは、いつも通り、見事な伊達兵庫だった。
なんだか狐につままれたような気分のまま、あたしは阿嘉也さんに髪結い代を支払い、入り口まで送っていく……というのは口実で、本当はもっと話したかったから。「知ってるの?」とか……。
でもその日に限って廊下の人が途切れなかったり、お内儀さんが内所から出ていたりして聞けなくて、なにも聞けないうちにもうさようならするところまで来ちゃった。
仕方ない。お千代さんに阿嘉也さんの素性を聞こう、また髪結いにも来てもらおう、そう思ったとき。
通りに出かけた阿嘉也さんが振り向いて、こう言った。
「花魁、歌舞伎町はちっとも変っちゃいませんよ」
あたしは目を見開いた。
本当に驚くと、声も出なくなるんだ。知らなかったよ。
追いかけたくても、阿嘉也さんの姿はたちまち人込みにまぎれて、見えなくなって――。
※※※
あとでお千代さんに聞いたけれど、その日は熱で床についてしまったので休ませてもらう、という詫びの使いを送ったはずだということ、阿嘉也なんて髪結いは名代に出していないし、名前を聞いたこともないということだった。
それきり阿嘉也さんはあたしの前には現れず、いまでもその日の出来事を思い出すたび、あたしは夢の中にいるような気持になる。
<注>
伊達兵庫:花魁がよくしているウサミミのような髷のついた髪の結い方
名代:代理
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