第93話 小夜鳴鳥が囀るとき 弐

 体を起こそうとする小夜さんを、徳之進さんが慌てて支える。


「小夜、無理をするな」

「あ、兄さま、ありがとうございます」

「もう起きられるのか」

「はい。あの苦しみがまるで嘘のようでございます」


 お布団の上に置きあがった小夜さんの肩に、北邑さんがそっと着物をかけた。


「とは申されましても、まだ二、三日はご静養くださいませ。小夜姫さまは、お輿入れを控えられた大事なお体でおられます」

「心配症ね、北邑は。それよりもわらわは、山吹の結ってくれた髪を早く兵吾さまにお見せしたいのです。これはわらわだけの髪ですもの。やっとわかったのよ」

「まあ、姫さま」


 ふふっと小夜さんが笑うと、北邑さんもつられて笑った。

 いい笑顔だった。

 あれ……? 徳之進さんだけ、なんか渋い顔してる……?


しゅ、もうしゅは落ちたか」

「はい。呪の気配はもうしませぬ。されど、あのようなやり方は二度となさいませぬようあの女性にょしょうにお伝えくださいませ。此度はご無事で済みましたが、次の身の安全の保障はしかねますゆえ」

「わかっておる。山吹、次にあのようなことをするときはまずは私に言え」

「あい、わかりんした」

「とはいえ、我が妹のためにしてくれたこと、その真心、私は本当に嬉しく思う。咄嗟に呪物に手を出すなど、なまなかにできることではなかろう。なにか礼を……と言いたいところだが、そちは玉の輿にも金子きんすにも興味のない女子おなごゆえに困る」

「わっちには今まで通り、自由に飛べる籠をくださんせ。それだけで十分でおりんすよ」

「こうと来た! まったく、私の自由にならぬ女子など初めてよ。このいきの良さ、松平が入れ込むのも良くわかる。__ああ、御主らは下がられよ。またなにかしらあればすぐに呼ぶ」

「承知つかまりました。では呪物の鏡はいただいてまいりましょう。良く供養をし、二度と悪さをせぬよういたします」

「ああ、そうしてくれ」


 お坊さんたちは割れた庭の鏡を拾って、部屋から下がっていく。

 それを見送ったあと、徳之進さんは渋い顔のままで大きくためいきをついた。


「小夜」

「はい」

「そちを兵吾ひょうごのもとに嫁がせるわけにはいかなくなった」

「……え? なにをおっしゃられるのですか、あにさま」

安心院あじむ刀自とじがそちを気に入っていなかったのは知っていた。それでも、そちと兵吾が覚悟の上ならば良いと私は思っていた。なにも欲しがらなかったそちが、唯一欲しがったのが兵吾だ。だから私はそちと兵吾の幸せを願っていた」


 衝撃的な婚約破棄宣言と、過去形で語られる徳之進さんの想い。

 ぶっちゃけると、徳之進さんは、小夜さんと兵吾さんの結婚を応援「してた」という。てことは、いまは違うの……?

 さっきまで笑ってた小夜さんも、焦ったみたいに目を忙しくまばたかせてる。


「だが……刀自が実際にそちに手をかけようとしたならば別だ! そちは我が妹、権現ごんげんさまの血を引く娘ぞ! どのような家にも嫁げる娘だ! それを……言うに事を欠いてあのような呪を大奥にもたらすなど! とうてい許せぬ!」

「そんな! 兄さま、どうかお考え直しになってくださいまし! 小夜はもう大丈夫です。桂子かつらこさまにもなんの恨みも持っておりません。終わり良ければすべて良しと言うではありませんか。こうして声も元に戻り、山吹のおかげで、この髪だからこそ小夜は小夜なのだと思うようになれました。小夜は……なにがあっても兵吾さまの妻になりたく思います!」

「ならぬ!」

「そんな! 兄さま!」

「ならぬと言えばならぬのだ! 良いか、小夜。安心院の刀自がしたことは、そちだけではない、我らが徳川の面体めんていを打ったことにもなるのだぞ」

「ならばせめて桂子さまとお話し合いを……!」

「刀自と話すことなぞもうない。それほど気に入らぬのならば、私に申し入れれば、また別の道も考えたというのに……。刀自だけではない。安心院の家にもなにがしかの処分を下す。これまでの私は甘すぎた」




<注>

権現ごんげんさま:仏や菩薩が現界して神となったものをさす神号です。金毘羅権現さまなどがいらっしゃいます。ここでは東照大権現(徳川家康に捧げられた神号)をさします。江戸期には権現さま=徳川家康でもありました

面体めんてい:顔

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