第92話 小夜鳴鳥が囀るとき 壱

 ごうっと、風が鳴った。

 一瞬のような、永遠のような、いままで経験したことのない時間の流れ方。

 割れた鏡から、低い女の呻き声が聞こえた。半透明の『なにか』が白い煙のようになり、着物姿の女の人の形になる。

 それは、そのまま引き上げられるように空の上の方に昇っていき……ばらばらに、散らばった。

 ふわふわした白いものが空気の中に消えていく__。

 ひときわ強い痛みがこめかみを突き抜けて、それでもあたしは立っていた。なぜだか、『終わったんだ』と思えた。鏡はもうただの鏡で、そこには映る風景以外、なにも見えなくなっていた。


「山吹!」


 徳之進さんがすごい勢いで近づいてくる。

 え、なんで?

 それではじめて、あたしは顔をつたう液体に気づいた。

 なんだろ。涙じゃない、生暖かいそれ……。

 てのひらでそこをぬぐうと、ぬるりと滑る指先が、錆びた鉄のにおいを鼻まで届かせる……って、マジ? 指、赤いんですけど! これ、血? 血!


 あとで、『しゅの籠った鏡を割り捨てる気勢があるのに、なぜ一筋の血であのような顔をした』って徳之進さんに聞かれたんだけど、物理なあたしには、呪いなんて見えないものより、それが実際に発動するものだって理解できたときの方が気持ち的にしんどかったんです! わかるかなあ、この感じ。いや、わかってくださいお願いします!


「大丈夫か? 医者を呼ぶか?」


 徳之進さんが、顔を拭くための懐紙を渡しながら聞いてくれるのに、あたしは首を横に振った。


「大事のうおりんす」


 とりま、指で確かめてみた感じ、どこにも傷はなかったし。

 さすが呪い。

 原因がないのに血が出るとか、物理法則に反しまくりでしょー。


「まことか? ならば良いのだが」

「血は出ておりんすが、傷はどこにもありんせん。体の痛みものうなりんした。まっこと、呪というものは不思議なものでござんす。それより小夜姫殿の様子を……」

「あ、ああ、そうだな」


 徳之進さんが慌てた様子で小夜さんに近づいた。

 北邑さんは小夜さんの手をぎゅっと握ってる。

 ちな、お坊さんたちは唖然としてました。

 ごめんね。打ち合わせもなんもせずにあんなんして。つい体が動いちゃった。

 でもまあ結果オーライちゅーことで許してください。


「北邑、小夜は」

あにさま、小夜のことは北邑でなく小夜に聞いてくださいまし」

「小夜、その声は……治ったのか?!」

「はい。山吹の口上と鏡を投げ捨てた音が聞こえて……気が付けば痛みも熱さも去っておりました。喉の奥に居座っていた塊も取れて、いまは久方ぶりにせいせいとした心持ちでございます。……しゅは、本当にあったのですね」


 え、うっわ、小夜さん、すげい声綺麗! かすれてるときも「耳に気持ちいい声だなー」って思ってたけど、いまはそんなもんじゃない。囀るような声色は、本当に鳥みたいで、いまさらもう一回、小夜さんについた小夜鳴鳥ってあだ名の意味が身に沁みた。


「小夜姫さま!」


 北邑さんが小夜さんの手を握ったまま、ぽろぽろと涙をこぼす。


「北邑にも心配をかけました。ごめんなさい」

「いいえ、いいえ! 小夜姫さまがご無事ならば北邑はこの命を差し上げても惜しくはございません! ご快癒……まことに……おめでたき……」

「まあ、泣かないで。わらわこそ、北邑になにか悪いことをしてしまったのではないかと思うではありませんか。そんなのいやだわ」


 ふわっと笑った小夜さんが、お布団から手を伸ばして、着物の袖で北邑さんの目元を拭った。

 そして、その手をお布団の上に戻して、小夜さんが顔をあたしの方に向ける。


「山吹、心から礼を言います。あなたのおかげでわらわは無事に戻ってこれました」







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