第72話 山吹江戸城華いくさ 四


 梨木さんの顔はすでに青かった。

 いや、青いを通り越して白かった。


「た、助けてくれ」


 梨木さんの口から小さな呻きが漏れる。

 その様子を日本語はいまいちわからないロッコさんが不思議そうな顔で見ていた。

 いや、いまさらそんなこと言われても、どう助けろと。


「無体なことを。このチーズの菓子は先ほどお味見も勧めんしたはず。断りささんしたのは梨木殿でござんしょう」

「……それとこれとは話が別だ」


 ……なにが別なのか言ってみろ。

 万が一にもロッコさんが日本語理解したらまずいから、言葉では断ったよね?って優しめに表現したよ?

 けど、実際の梨木さんはチーズの製造過程を見て味見から逃げたんじゃん!

 だから知らないよ、もう、自業自得。


 まあ、その製造過程が江戸時代的にヤバかった___牛の第四胃に牛乳をそそぎ、2、3日置くと牛の胃の酵素でチーズができる。チーズはイタリア人のロッコさんには欠かせないものだけど、その作り方を始めて見た梨木さんにとっては白い異形。(梨木さん談)てゆかたぶん江戸時代の人にとってはまあほぼ異形___のは否定しないけど……でも、それはそれ、仕事は仕事、でしょー?


「桜、構わず給仕しなんし」


 あたしの声に応えて桜が梨木さんの前にもお皿を置く。

 そのお皿の上に載ってるのはカンノーリっていうデザート。薄く焼いたクッキーを熱いうちに鉄の棒に巻き付けて筒形に形を整え、中に甘く味付けしたフレッシュチーズを付けたシチリア伝統のお菓子。

 クッキーが江戸時代にあるわけないって?瓦せんべいがある!

 だからクッキー生地に近いものはもともと日本にもあった。丸みをつけて焼くやり方もねー。

 ただ、ここではそれを「イタリア風に生かす」という発想がなかっただけ。


「さ、梨木殿。ロッコ殿より信頼を頂戴しんすにはこれがいちばん。チーズの菓子を梨木殿がんでみせれば、ロッコ殿もこれからはへちりあ料理がたまには膳に上ること、得心いたしんしょう」

「た……」

「助けてくれ、は、なしでおりんす。まったく困った方でござんすなあ。ではまずはわっちが……ああ、その前に」


 一度手に取りかけたデザートフォークとナイフを置きなおして、あたしはロッコさんに話しかける。


『わっちら、ここにこうしてチーズを作りんした。リコッタのようなチーズだけでおりんすが、それでもこれがわっちらの精一杯であること、信じてくんなんし。本国のように朝な夕なと膳に出すことはできんせんが、それでも何かの折には出すこと、約束いたしんしょう。ここな膳奉行の梨木殿もそれには合点ささんした』

『この素晴らしいコースを調えてくれた貴女が……いや、東洋の人形ドールのような麗しい貴女方が言うのならばどんなことでも信じましょう。美しい女性を疑うなど、男ではないですからね』

『うまいことを言いんすの。これ以上はわっちの心の臓が持ちんせんわあ』


 相変わらずイタリア男なロッコさんに微笑みかけて、あたしはざくりとカンノーリにナイフを入れる。


 それから梨木さんに目配せ。


 あたしが食べたら絶対に食べろよ、とロッコさんにはわからないようにガンつけて。


 梨木さんが震える手でナイフを持つのを視界の端で確認して、あたしはたぶん江戸時代初のチーズのお菓子を口に運んだ___。







<注>

瓦せんべい:せんべいという名前ですが、味付けは素朴なクッキーに近い日本古来のお菓子です。発売時期は諸説ありますが、最も古いものをここでは採用しています。そのため江戸時代にも存在します。

得心:納得

リコッタのようなチーズ:あまり発酵させない柔らかいフレッシュチーズ。レアチーズケーキをイメージして下さい。これの水を切り、適切に発酵させるとゴルゴンゾーラやパルメザンなどの固いハードチーズになります。

ガンつけて:にらみつける。ヤンキー用語です。「ガンとばす」などとも使います。

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