第58話 悪しき蒼い梅の季節 弐

「いな、桔梗殿は寮に出養生ささんす前に療治をいたしんす」

「いま、なんと?」


 桔梗の座敷で差し向いになってうちらは話していた。

 間には椿ちゃんが淹れてくれたお茶。


「出養生ささんすのは瘡が出てからでおりんしょう?それでは遅うござんす」

「何を言うやら。瘡が出るまでは働くのがわっちら女郎の務め。いくら山吹殿の言いささんすことでも……」

「わっちは医者でも薬師でもありんせん。ゆえに瘡が出てからわっちの療治が効くかは……」


 この時代では知られてないけど、体内のウイルス量が少ないほど梅毒の治療は簡単。梅毒だけじゃなくてほかのウイルス性の病気も。

 あたしはなったことないけど、お水の子ならみんな知ってる性病の基礎知識。

 軽いうちに薬を飲むほどよく効くんだ。


「ほう。それはまるでまじないのようでありんすなあ。で、いかような療治を?」

「これでおりんす」

 

 あたしはことりと桔梗の前に小さな箱と大鉢を置く。

 想像通り、桔梗の目は大きく見開かれた。


「石見銀山と……鉢一杯の海苔……?!わっちを殺す気でおりんすか!それほどお職が大事でありんすか?!山吹殿のことだけは信じておりんしたというのに!」

「落ち着きなんせ、桔梗殿。お疑いささんすならまずはわっちが飲みんす。されば飲んでくだしんすか」

「されど石見銀山は鼠殺しの……」

「海苔は石見銀山の毒を殺しんす。殺して……臓腑の中で瘡の薬になりんす」


 あたしは桔梗の指を必死でつかんだ。


 この時代の人にはきっと信じてもらえない。

 石見銀山に含まれた無機ヒ素が、海苔に大量に含まれるシアノコバラミンで有機ヒ素になって体内で無毒化されるなんて。

 その上、ある種の有機ヒ素が、ペニシリンの大量生産方が確立されるまで、サルバルサンと呼ばれて、梅毒に効く魔法の弾丸だと呼ばれてたなんて。


 これはあたしの苦肉の策。

 あたしは毒性ばかり持ってる単なる青カビ株から、毒性のない希少なペニシリン株だけの大量培養なんてできない。文系だもん。理論はわかってても実技が無理。

 なら、体内でサルバルサンに似たものを作り出すしかない。


 ごめん、桔梗。

 あたしが理系ならペニシリンであなたを治せたのに……。


「……信じて、ようござんすか」


 ついと座り直した桔梗があたしの顔を見据える。

 そして、つかんだ指を握り返してきた。


「あい」

「わっちの人生、騙されてばかりでおりんした。山吹殿にまで謀られたらもう生きていけやしやんせん」

「ならば安心なんせ。わっちが桔梗殿を謀ることなどありんせん。ともにお職勝負をしようと契った仲でござんしょう」

「あれ、まるで情夫まぶのような」

「ともに戦う人は情夫まぶより近うおりんすよ。それではわっちは海苔を食べてから石見銀山を飲みんす。よう見ていてくんなんしな。手妻などだと思われたら嫌ですえ」


 そしてあたしは大鉢一杯の海苔をなんとか噛んで飲み下し、それから耳かき一杯の石見銀山を飲み干した____。






 <注>

 ※この章に書かれている医療行為、薬学理論はけして実行しないでください


石見銀山:江戸時代の殺鼠剤。無機ヒ素が主な成分の毒物です。無機ヒ素は海藻類に多く含まれるシアノコバラミンによって体内で有機ヒ素に変成します。

サルバルサン:有機ヒ素製剤を利用した薬剤。ペニシリンが安定して大量供給されるまでは梅毒の唯一の根治薬でした。発見者は日本人です。多少の副作用はありますが、殺鼠剤にも使われる無機ヒ素に比べれば非常に安全でした。

あたしは毒性ばかり持ってる青カビから、毒性のない希少なペニシリン株の大量培養なんてできない:青カビのほとんどは猛烈な細胞毒性を持っています。その中で有害な菌を殺しペニシリンの原料となる青カビ株だけを抽出して大量に安定培養するのはペニシリン発見初期は研究者でもとても困難でした。現在でも薬学部やそれに関する学部で培養を学習しており、培養に適した施設がない限り、個人での培養はとても困難です。JINで主人公が純度の高いペニシリンを作れたのは、研究経験、臨床経験、豊富で正確な知識のある腕の良いドクターだからです。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る