第57話 悪しき蒼い梅の季節 壱
ようやく時間の取れたあたしは、お内儀さんに頼まれた通り桔梗の様子を見に行く。
お内儀さんまでおかしいと思うなんて、あのプライドの高い桔梗がどうしたんだろう?
「桔梗殿、入ってようござんすか」
「ああ、山吹殿、よござんす」
座敷の前で声をかけるとすぐに桔梗の返事が聞こえた。
客への文を書いていたらしい桔梗と、それにお茶を出していた椿ちゃん。
椿ちゃんがいたら話しづらいこともあるだろうから申し訳ないけど……。
「椿には下がってもらえんせんか」
「……椿、お下がり」
桔梗が声をかけて、椿ちゃんが座敷から出るのを見届けてから、あたしは桔梗に向かって座り直す。
うん。ここは直球で行こう。
あたしも桔梗もうじうじしてるのは性に合わない。
「お内儀さんから何やらお悩みのご様子と聞きんした。どうなすった?桔梗殿」
「どうもこうも。わっちはいつも通りでありんすえ」
「……桔梗殿、わっちに遠慮は無用でござんす。正々堂々お職勝負をしようと話しんしたでありんしょう?何を聞いても桔梗殿の望みならわっちの胸一つに仕舞う所存でおりんす」
一息に言って、あたしはじっと桔梗を見る。
諦めたように目を伏せた桔梗は、ぽつりとこぼした。
「……わっちは
え。
それって、梅毒じゃん!!
ヤバいじゃん!!
「足の付け根にしこりが……。まだ瘡は体に出てはしやんせんが……」
「瘡……」
「なに、寮でしばらく養生ささんせば良いだけのこと。瘡は女郎には良き病でござんすよ。瘡にかかれば子もできにくうなりんす」
桔梗はむりやりな顔で笑うけど……。
そういう問題じゃない。
その言葉をあたしは飲み込む。
治療されない梅毒は、確かにしばらくはおとなしい。ちょっと熱が出てリンパ節が痛くなって、すぐに消える発疹ができるだけ。むしろ子供ができにくくなるから遊女に歓迎されてたっていうのも文献でよく見た。
もっと症状が進んで軟骨が潰れて鼻がなくなるのも、ゴム腫って現代では言われてる腫瘍で顔が変形するのもそれほど恥ずかしいとはされてなかった。
でも、違うんだ。
梅毒は治療しないで何年も放っておくと最後は脳を犯す。
感染した人をなにもわからない廃人みたいなどろどろの病人にしてしまう。
江戸時代にはそこまでの時間が長すぎたのと、もともと寿命も短かったからそれが梅毒と関連付けられなかっただけで。
あたし、桔梗がそんな目に会うの、嫌だよ。
だけどどうしたらいい?確かにあたしは梅毒を数回治せるくらいの抗生物質は持ってる。けどそれを江戸時代の人間に使う自信はない。
現代だってペニシリン・ショックで死んじゃった人や、臨床試験をきちんとして発売したのに、販売したのを飲んだら突然気絶する人がたくさん出て販売中止になった抗生物質を知ってる。
それに、あたしは医者じゃない。
もし桔梗がそんな反応を起こしても何もできない。
桔梗の、江戸時代の人間の体にふさわしい量なんかも見極められない。
梅毒の薬は血液の中に同じ濃度でずーっとあるのが大事だって聞いた。
だから、舌下投与とか適当な飲み方は厳禁だって。
記憶の糸を
あたしでもできそうなこと。この時代でも手に入ってもし副作用が出てもあたしがなんとかできそうなもの。
あ……。あれがあった。
あれならペニシリンができる前の梅毒の特効薬に近くて、もし効果がなくても日本人なら解毒ができるはず……!
「桔梗殿、ならばわっちの療治を試してはくだしんせんか」
「療治?良い医者の
「いな。どうかおがみんす。わっちを信じて……」
「たかが瘡でそたあ顔をすることもありんせん。まあ寮で養生する間はお茶挽きでおりんすから、山吹殿の酔狂に付き合ってもよござんしょう」
<注>
※この章でこれ以降出てくる医療行為は絶対に真似をしないでください。
真似をされて損害を負われた場合、作者は責任を負いかねます。
また、医療情報の真偽に関しても責任を負いかねます。
悪しき蒼い梅の季節:梅毒の別名、蒼梅から。
ペニシリン・ショック:ペニシリン製剤による強いアレルギー反応(アナフィラキシーショック)のことです。これはショック死を起こすことがあるため、厚生労働省は、ペニシリン製剤投与の際は事前に既往歴等について十分な問診を行うこと。抗生物質等によるアレルギー歴は必ず確認すること。アナフィラキシーショックに備えることなどの指針を2,004年に出しています。ペニシリンはもともとアレルギーを起こしやすい薬物のため、皮内パッチテストがそれ以前は行われていましたが、これにより薬品添付文書などの記載も改訂されました。薬物はきちんと問診と診断を受け、医師の指示に従い服用してください。
突然気絶する人がたくさん出て販売中止になった抗生物質:テリスロマイシン
※薬物は医師の指示に従い服用してください。
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