第30話 桔梗
翌日、あたしはいつものように笑って、客を迎えて、いつもの山吹でいた。
まだたくさんの迷いはあたしの中に降り積もる。
それでもいまのあたしの居場所はここだ。
だから向き合わなくちゃいけない。桔梗とのことも。
桔梗はまだ座敷で臥せっているらしい。
その閉じられた座敷の前で、あたしはためらっていた。
ねえ、入ったとして何を言う気?
せめて、殴り合いのケンカをした相手ならラクなのに。
ごめんとか、許さないとか、そんな言葉ですむなら。
「あれ、山吹花魁。桔梗どんに御用でありんすか」
「あ……」
「申し遅れんした。桔梗どん附き禿、椿でござんす。桔梗どんに
桜と梅とは雰囲気の違う、大人びた禿の子が「入りんす」と声をかけて桔梗の座敷にするりと身を入れる。
しばらくの間のあと、襖が開く。
「山吹花魁、お入りなんせ」
椿ちゃんの声。
ここまで来たらもう逃げるわけにはいかない。
桔梗とだけじゃなく、あたし自身とも向き合うために。
「山吹どん……」
分厚い布団と箱枕に埋もれた桔梗の顔はいつもより小さく見えた。
「いま、椿に茶を用意させんす」
「あれ、お構いなく」
なんとなく気まずい沈黙。
その口火を切ったのは桔梗だった。
「庇ってくだしんしたなあ」
まるで独り言のような声。
「なにゆえでござんしょう。わっちは性悪ですえ。山吹どんにも桜と梅にもひどいことを
「嫌だったんでござんす」
「何が」
「桔梗どんがぶたれるのが。わっちがぶつなら理にかなっておりんしょう。されどわっちはもう桔梗どんへの意趣返しはしんした。これ以上のことは……無益でござんす」
「無益ときなしんしたか。どれだけ欲のないことか。
……わっちは、羨ましかったのかもしやんせんなあ……」
「羨ましい……?」
「同じ売られた身……されど山吹どんはいつも笑っておりんした。禿の頃も新造になっても花魁になっても、一言も恨み言は申さなんだ。桜と梅を拾ってきなんして、やり手に叩かれても。されど、いつもいつもわっちを売った親を憎う思い続けささんすわっちは……のう、山吹どん」
「……なんでござんしょう」
「まだ遅うはのうござんすか。死ぬように生きるこの身を改めるのは」
桔梗の切れ長の目のふちから涙がこぼれ落ちた。
「遅いなど……生きてさえおりんすれば、遅いことなどなんにもありやしやんせん」
「さよでござんすか……勝てないわけでありんすわあ。わっちがいかほど
桔梗の細い腕が布団から伸びる。
「これからは正々堂々、お職勝負と行きましょうえ」
涙声で告げられた宣戦布告。
あたしはそれを喜んで受け取る。
「あい。手加減せんから覚悟しなんし」
あたしは桔梗の手を取り、強く握った。
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