第4話 仕方ない。天然痘ワクチンを作ってみよう

 あたしは恐る恐る厚めのファンデーションケースのように見える箱を開いた。


 やっぱり!


 指先サイズのスタンガン、アフターピル、抗生物質のPTPが数シート、性病検査キットの紙、その他いろいろ……それから……お母さんの指輪。

 こんな商売してるとどんなヤバい男に当たるかわからない。

 同伴ついでに拉致られそうになった時も無理やりヤられそうになったときもある。

 そんなときのためにいつも持ち歩いてたギミックだらけのあたしの大切な箱。

 てことはここはやっぱり現代?

 店の仲間たちに日光江戸村にでも連れてかれた?

 あたしは慌てて窓の格子から下を見下ろす。


 いや、やっぱりここは江戸だ。


 だって日光江戸村に棒手振ぼてふりや髪をまともな勝山髷まげに結った女たちが歩いていると思う?


 そのとき、窓辺にあった小さな丸鏡を見てあたしはヒッと悲鳴をあげて膝をつく。

 鏡の中のあたしも、花魁だから当たり前だけど、歯に黒く鉄漿かねをつけていた。

 でもそれより驚いたのは、その顔が元のあたしのままだったことだ。


「山吹どん、なんぞありんした!」

「申しつけお破りして申し訳ござんせん!されど山吹どんには敵がおりんす!」


 ささささ、と小走りにどこからか現れた梅と桜が部屋に駆け込んでくる。


「なんもありんせん」


 あたしはできるだけ優雅に笑って見せる。


「ちょいと足が痺れんしてな。この山吹が恥ずかしいことでおりんすわぁ」


 座るのも商売のうちでありんすのになあ、と付け加えて。


「それより、桜、梅、わっちの顔、昨日となんぞ変わりはありんすえ?」

「ありんせん。吉原一の山吹花魁のかんばせでござんす。のぅ、桜姉さん」

「あい。されど……わっちらなら内々にすましんす。山吹どん、疱瘡神ほうそうしんに魅入られたとでもお思いなんしか?」

「桜姉さん!」

「無礼は承知でござんす。天下の山吹花魁でも疱瘡神は避けては行きんせん。わっちらも巧い口を作りささんす。はよぅ寮で養生を……」


「恐ろしいことを申しんすの、桜」


 はっと顔を上げた桜がコロコロと笑うあたしを見てほっと表情を緩ませる。


「されど二人の忠義、嬉しゅう思いんす。なぁに、女は鏡を見るたび自分の顔が気になるもの。それもあとはもう大年増になるだけのわっちなら、その気持ちもわかりなんしえ?」


 ごまかせたかな。

 だって!だって!

 あたしの宝箱にあたしの顔。だけどここは江戸時代であたしは花魁。


 びっくりするに決まってるじゃん!


 あたし、体ごと江戸時代にきちゃったの?!


 てか、山吹さんってあたしのそっくりさんなの?マ?!


「ほぉれ梅、山吹どんはいつもの山吹どん。梅は気ぶっせいで困りんすなぁ」

「気ぶっせいとは酷い言いよう。おいらは山吹どんの身が……桔梗がまたなんぞ……」

「桔梗花魁。悔しゅうてもおいらたちはそう呼ぶのがここの掟」

「……あい。桜姉さん」


 なるほど。あたしのライバルは桔梗花魁で、梅の口ぶりだとかなりの性悪だと。


 ……性悪ったって鉄火のアンナほどじゃないだろうけどねえ……!


「桜姉さん、山吹どんが悪い顔で笑っておりんす」

「いつものことでござんしょう。なぁに、その気風の良さと侠気が山吹どんでござんす」

「気風とはまた違うような……」


 2人の会話を片耳で聞きながら、あたしはさっきのやり取りで気になった部分を脳内再生する。


『疱瘡神に魅入られたとでも』


 もしあたしの予想が当たってるなら……あたしはこの世界ではチートな体とアイテムを持ってる。


 でもそんなあたしにも一つだけ勝てない恐ろしいもの。


 疱瘡。現代語だと天然痘。


 江戸時代、何より恐れられていた病気は『労咳』つまり結核、それに疱瘡だった。

 結核は死に至る不治の病、疱瘡は死なずに治ったとしても顔や体にひきつれた炭粒をまぶしたような酷い有様になる者が多いとして。

 あたしの体が元の琴屋杏奈のものなら、BCG、日本脳炎、その他諸々、日本によくある伝染病の予防接種は全部してる。


 でもその中で唯一してないのが天然痘の予防接種『種痘』だ。


 当たり前だ。1980年にWHOが天然痘の根絶宣言を出してから種痘はなくなった。病気そのものが消滅したんだから予防する必要もない。


 でもここ江戸ではよくある流行病はやりやまいで、現代人でまったく天然痘ウイルスに触れたことがなかったあたしが触れれば……天然痘患者の使った毛布でコロンブスに壊滅させられた原住民のように、酷い症状を起こすのは間違いない。


「山吹どん、わっちらはまた下がった方がよぅござんすか……?」


 梅がおずおずと聞く。


「気が変わりんした。桔梗に負けぬためにも寮に下がり一度│芸事げいごとを見直しんす。桜と梅もついてこれるよう手配ささんすがよぅござんすか」

「良いも何もわっちらは山吹どんについていくだけでありんす」

「あい。桜姉さんの言うとおりでござんす」

「ならばよぅござんした」


 あたしは余裕の笑いを浮かべながら、頭の中では細い知識の綱を必死で繋ぎ合わせていた。


 種痘がないなら自分で作ればいい。

 寮に下がるのはそれには時間がかかるから。

 失敗して天然痘になったらって?


 誰かにうつされて恨みながら死ぬより、自分のせいで死んだ方がマシ!




<解説>

アフターピル:避妊に失敗した場合、また望まぬ行為を強要され妊娠を避けたい場合に事後72時間以内に服用する緊急避妊薬です。ただし成功率は100%ではないため気を付けてください。

同伴:現代の水商売用語。出勤前に客と待ち合わせ、一緒に店に入ること。たいていは店に入る前に客に食事を奢られたりなどの擬似デート的な部分があった。また、同伴にはノルマがある店が多い。

かんばせ:顔

疱瘡神ほうそうしん:死亡率の高さと生き残っても水疱瘡のあとをさらにひどくしたような跡が残り、将来を悲観して自殺するような女性もいたことから、非常に恐れられ「神」の名前を病名のあとにつけることがありました。

寮:体調の悪い女郎を休ませるための施設。とは言っても下位女郎は入れず、高位女郎が使った。抱えぬしの性格にもよるが、売れっ子花魁ならば多少の無理を言って寮に下げてもらい休むことも可能だった。

大年増:おばさん

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