第105話 ローラ様の為に、私を

 まるで眠っているように横たわるシャーナに、私はアリス様から託された白い布を掛けてあげる。

 綺麗な寝顔。

 何処か笑っている様にも見えるシャーナの顔はアリス様を救えた彼女の安堵の表情に思えて来る。

 どうか、安からに。

 どうか、心朗らかに。

 この国の宗教観ではないが、私は眠っているシャーナに手を合わせた。

 どうか、神様、仏様。

 友を助けたこの心優しい少女の。

 この心美しい少女の。

 この子の来世が素晴らしいものになります様に。

 そう願いを込めて。

 

「おい、ローラ。この壁か?」

「ええ、恐らく」


 私がシャーナに手を合わせていると、後ろからランティスに呼ばれ、私はシャーナの頬に別れのキスを送ると彼等の元へ行く。


「確か、ここら辺でローラは炎に焼かれて苦しんで死んだ筈よ」

「……なんだその悪夢は。自分の事だろ? 何でそんなに平気なんだ?」

「私もローラだけど、炎に呑まれたのはゲームの中のローラだもの。と言っても、アスランの件で炎に焼かれそうになった経験から言えば、怖かったでしょうね。そんな彼女はここで助けを求めた。この壁の向こう側にいるキルトに」

「普通の壁の様に見えますが……。何か壁を壊すものを持ってきた方が良いですか?」


 流石にフィンの剣でも漫画の様に壁を切る事は出来ないのか。

 当たり前か。


「いえ、時間がかかり過ぎる。少し待ってて」


 私は壁を触り何か仕掛けがないか確認を行う。

 何かここに仕掛けられている。

 でなければ、ギヌスはこの壁の向こうに行けなかったはずだ。

 漫画で見る様な壁を叩く仕草を行っていると、音が違う箇所がわかる。

 本当に、そんな事があるのだな。

 今更、自分でも呆れてしまうが驚きを覚えてしまうのは致し方ないだろうに。

 確かに、普通に生きていたら必要ない作業だ。


「ここが、向こうに続く扉になってる」

「分かるのか?」

「ええ。よく見ると、ここだけレンガの仕組みがおかしいわ。ランティス、押してみてくれる?」

「分かった。ローラ、どいてろ」

「お願い」


 私が場所を退くと、ランティスが力を入れて壁を押した。

 しかし、何も起こらない。

 ただ、押すだけではダメなのか?


「びくともしねぇ!」

「もう少し力を入れて押し続けてみて」

「ああ。フィンも手伝ってくれよ」

「非力な男だな。少し退け」


 二人がかりでも力を入れて押した所で、この壁が開く事はあり得ないだろう。

 ギヌスは、そんなそぶりすらしなかったしな。

 あの時、ギヌスは確かに入り口に向かって走っていた。

 ギヌスの行動を真似れば、何かわかるんじゃないだろうか?

 軽率にあの時のギヌスの行動を真似てみるが、変わった様子はない。


「あれ?」


 でも、一つだけおかしなところがある。


「床が、軋んでる?」


 赤い絨毯に隠れた床が、微かに鳴る音が聞こえた。


「この下は……石畳じゃないの?」


 赤い絨毯がそれいてる場所では、外同様に石畳が顔を覗かしている。

 この場所だけ、木で出来た床があるのか?

 私の隣では、フィンとランティスが壁を押している。

 私の手ではギリギリその床に届くが、ギヌスの手ならば、伸ばせば十分届く範囲。

 まさか……。


「二人とも、力を入れてっ!」

「今、入れてるよっ!」

「これ以上ないぐらいに入ってます!」


 ならば……。

 私は、木で出来た床の端を力一杯踏み込んだ。

 その瞬間だ。


「わっ!」

「ぎゃっ!」


 隣で、ランティスとフィシストラの悲鳴が聞こえる。

 そして、横を向けば、二人の姿はどこにも無かった。

 成る程。


「忍者屋敷ね」


 つまり、床のスイッチを押す事により、あの壁の一部が回転すると言う仕組みだ。


「はっ。何が中世ヨーロッパの様な世界観よ。小物は日本式なんて、笑えないわ」


 私は再び板の縁を踏み込むと、ギリギリ届いた指先で壁を押してみた。

 先程はどんな力で押してもびくともしなかったと言うのに、指先の微かな力だけで壁が回ってしまう。

 これはスイッチだ。

 赤い絨毯の効果によって、人は真ん中を歩いてしまう。だから、ただ、歩いていただけでは、この効果はわからない。

 淵を踏む事により、微かに踏み込んだ重みで床が下がり、恐らく下のスイッチやレバーが引かれ、隠れた扉の間抜きが外れる仕組みだろう。


「ローラ様、これは一体?」


 回った壁の向こう側に足を踏み込むと、倒れたまま驚いているフィンとランティスが転がっている。


「これが、ギヌスが消えた仕掛けね」


 ギヌスは素早い動きで一連の動作を行い、この壁のこちら側に入ったのだろう。

 そんなものが存在するなんて知らない人間が見れば忽然と姿を消した様に見えたのはそのせいだ。


「確かに、これはローラじゃないと気付かないな」

「ええ。どこの扉の存在を知り、尚且つ仕掛けがある事に気付かない限りは見つけられなかったでしょう」


 だから、ゲームの中のローラはこの扉を開けられなかった。

 火が身体を這いずり上がる恐怖の中で、こんな繊細な作業は出来なかったのだろう。


「しかし、本当に螺旋階段があるだなんて……」


 扉を出て目に入るのは、いつしかの夢でローラが登っていた螺旋階段そのもの。

 唯一違うのは、螺旋階段に松明が燈っている事ぐらいだ。

 誰かが、上にいる。

 これは、その明らかな証拠なのだ。


「矢張り、ギヌスはここにいるわね……っ!?」


 その時だ。

 凄まじい音と共に、大地が揺れる。


「な、何?」

「大砲です、ローラ様」

「また……!?」

「時間がない。上に急ぎましょう」


 私はフィンの言葉に頷き、三人で螺旋階段を登り始めた。

 暫くすると、螺旋階段の先に扉が見えてくる。

 夢で出た見覚えのある扉だ。


「……あそこに大砲が?」

「いえ、登った高さを考えれば、まだ大砲には届かないはずです」

「まだ、先に?」

「ええ。恐らく」


 確かに、キルトが待っていたあの部屋には大砲はなかった。

 しかし、甲冑で覆われたキリトの背後には、大砲の弾らしきものは積み上げられていたな。

 恐らく、大砲の弾の貯蔵庫だろう。


「中には、ギヌスがいる」


 ポツリと、フィンが呟いた。


「え?」

「……ローラ様、ランティス。下がって下さい。私があの扉を開けますので」

「フィン」

「私は、此処にギヌスとの決着をつけに来たのです。私には、開ける権利がある。ローラ様、そうでしょ?」


 いつも我儘を言うのは私なのに。


「……ええ。そうよ、フィン」


 フィンが自分のことで初めて私に我儘を言う。

 叶えてやるのが、筋だろう。


「では、私の後ろに二人とも隠れて」


 私とランティスはフィンの後ろに隠れると、フィンは剣に手をかけたまま、扉を開ける。

 すると、そこには……。


「早いな、フィシストラ」

「矢張り、お前はここにいたか。ギヌス」


 ギヌスが中央で待ち構えているではないか。

 矢張り、フィンの予想通り、そこにはギヌスがいた。


「おばさんと弟王子もいるのか」

「ギヌス、そこを退きなさい。まだ、上に誰かいるのでしょう?」


 ギヌスが此処にいると言う事は、大砲を撃った人物がギヌスではないと言うことを指している。

 この部屋には、フィンの言葉通り大砲もなければ窓一つもない。松明の明かりに照らされているだけの光しかない場所だ。


「居るよ。俺の雇い主が」

「叔父貴かっ!」

「そうそう。学園長先生がいる。あの人が、蟻を虐めてるんだ」


 蟻?


「辺境貴族の隊の事かっ! 蟻なわけないだろっ! 人をなんだと思っているんだ!」

「そんな説教してる暇あるの?」

「く……っ!」


 確かに、ギヌスの言うお通りだ。

 そんな暇がある訳がない。


「次の発射までのタイムラグを考えて行動した方がいいよ」

「……ならば、そこを退けっ!」

「どうしよっかなぁ?」

「退かないなら……」

「退いてもいいよ」


 え?

 今、何て?


「俺はさ、主人公になれるからって、あの爺さんに手を貸したんだよ。でもさ、結果はこれな訳。無理じゃん。もう、俺大人だよ? おばさんと違って、もう少年少女でも何でもないし。砂漠の国に手を貸した訳で、この国の王様にもなれない訳じゃん? もう、何でも良いかなって思って」

「お前、何を……?」

「俺はさ、あの世界からこの世界に来て、自分が主人公になれると思ってきたの。ラノベやゲームみたいに、悪い奴を倒して、魔物や魔王をバサバサ倒して、スキル上げして、レベルアップして、道ゆく困ってる奴助けて、好かれて、最強のパーティー組んで。パーティーの中の女の子と恋に落ちて、世界救って、結婚して、幸せなハッピーエンドで、終わるんだと思ってた」


 でもさ、この世界には何一つないじゃん。

 そう、ギヌスが笑った。


「努力して強くなっても、貴族は貴族だし。魔王も魔法もない、人間ばっかり。悪い奴も悪い奴らで人間で、ラノベの様にすっげぇ汚い奴なんていない。可哀想な女の子を助けても、大人の力で簡単に取り上げられるし、何も残らない。なのに、歳ばかり食って俺は大人になって行く。主人公から、離れていく。強くなったのに。可哀想な奴を助けたのに。俺はずっと、俺のまま。一、貴族。それだけ」


 ギヌスは自分の後ろにある扉を指差す。


「そこから上がれば、大砲のある所に行けるよ」

「……本当に?」

「本当に本当。罠もなんもないよ。ゲームじゃあるまい、ある訳ないじゃん」

「お前は、戦わずして譲ると言うのか……?」

「だって、誰よりも強くなっても英雄にもなれないんだぜ? たかが、聖騎士団団長、それだけしかないじゃん。俺より、強い奴なんて誰ももういない。楽しくないよ、この世界は。前の世界と同じだ」


 主人公に執着するギヌスを見つめ、私は頭を振るう。

 理解しようとするのは可笑しい。間違いだ。

 ギヌスが戦う意志がないと言うのならば、それは願ってもないチャンス。


「……お前の気持ちは悪いが一ミリも分からん。だから、同情も反感も何も感じないし、かける言葉は何もない。けど、戦わずして通してくれると言うのならば有り難く通させて貰う」

「どうぞ、お好きに」

「……フィン、ランティス。行きましょう」


 本当に、何もしてこないんだな。

 しかし、それについて異論を唱える様な事はしない。

 寝た子を起こす様な愚行など、する必要はないだろう。


「ああ」

「……」


 私が扉を開けて、ランティスが先に上がる。

 続いて、フィンが上がろうとした瞬間。


「だけど、フィシストラ。お前はダメだ」

「っ!」


 剣と剣がぶつかる音がした。


「フィンっ! どう言う事だっ! ギヌス! 話が違うだろ!」

「いいや、一緒だ。別に上に行くのは構わない。戦わずして通してやる。だけど、それはおばさんと弟王子だけだっ! フィシストラ、お前は此処で俺と戦えっ!」

「……ローラ様、先にお進み下さいっ!」

「フィンっ!」

「ローラ様、この男の気が変わらぬうちに早く。早く、学園長をお止め下さいっ!」

「で、でも……」

「ローラ様」


 フィンはギヌスの剣を横に逸らすと、後ろに大きく飛び下がり剣を構える。


「貴女の騎士が、こんな雑魚に負けるとでもお思いで?」

「雑魚とは、酷いな。一応、お前の師匠的な位置にいると思っていたけど。けど、いい選択だぜ、フィシストラ。おばさん、フィシストラが言う様に俺の気が変わらないうちに上に上がりなよ。でないと、俺はあんたを人質にしながらフィシストラと戦うぜ? そしたら、大砲はあと何発撃ち込まれるかな?」

「っ!」

「ローラ様、早く上へ。直ぐに追いつきますから」

「ローラっ! ここは、フィンに任せるんだ。俺達がいたら、フィンも思うように戦えるはずがない」

「でも……」

「ローラっ!」


 ランティスが私の手を掴む。


「俺達しか、ここにはいないんだ。俺達が助けるしかないんだ。お前は、決めたんだろ? 皆んなを助けるって」

「……」


 でも、でも、でもっ!


「ローラ様」


 それでも迷う私の名をフィンが呼ぶ。


「私は、誰かを守ろうとするローラ様が大好きです。その信念を決して曲げないローラ様が、好きなんです。だから、私のために大好きなローラ様でいて」


 私のために先に行って。

 そんな言葉だったら、私は動かなかっただろう。


「私も、……フィンが好き。嘘をつかない、フィンが好き。だから、絶対に、絶対に追いついてきて」

「勿論です。だって私は……」


 フィンが剣をギヌスに向かって突き出した。


「貴女だけのフィンなのですからっ!」


 ここにフィンを一人置いてはいけない。

 当たり前だろ。私の可愛い可愛いフィンだ。

 だけど、彼女は私の自慢の騎士なのだ。


「行きましょう、ランティス」

「あ、ああっ!」


 ここは、フィンを信じる。

 信じて、上に上がる。

 フィンがフィンにしか出来ないことをする様に。私にも、私しか出来ないことをする。

 だから、ギヌスになんて負けないでね! フィンっ!





「結構、あっさり捨てられたな」

「捨てられてはいないさ。あの方は、お前とは違うからな」


 剣と剣が幾度もなくぶつかり合い、激しい音を鳴らす。

 ギヌスが踏み込めば、フィンは体勢を低めにギヌスの内側に入り込もうとするが、その技は既に彼には見た技だ。

 通用する訳がない。

 低くなる体勢を見越し、自分の懐に入り込もうとするフィン目掛け剣の鞘を左腕から繰り出した。

 見破られているがわっているのは、フィンも同じだ。

 低い体勢からスライディングをする様に右側に身体を逸らしてギリギリに鞘を躱す。

 鞘と言っても、硬いは硬い。モロに入れば、数秒は動きが止まるし、骨だって折れる。

 矢張り、低めを狙うのは最早自殺行為だな。

 確かめるための行動一つにも、命を賭ける必要がある様だ。


「割り切るのが早いな」

「ああ。要領が悪い馬鹿は早死にするからな」

「良いね。これぞ、異世界って感じだよ。お前と、フィシストラと戦っている時だけ実感できる」

「意味不明なことを喚くな。気持ち悪い」


 恐らく、他の技も同様。

 ギヌスがフィンに教え込んだ技なら特に、フィンが打てば打つほどギヌスが優位になる。

 初見殺しも、小手先の技も、ギヌスには効かない。

 もう、正面を切った打ち合いしかない。

 どちらが剣士として、戦士として、強いのか。

 純粋な勝負しかないのだ。

 フィンは剣を握りなおすとギヌスに向かって猛進していく。


「正面から? 正気か?」

「正気だからだっ!」


 フィンが打ち込む剣を、ギヌスは難なく受け止める。


「羽の様に軽いよ、フィシストラ」


 どうあがいても、男と女。

 力の差は埋められない。

 だが……。


「そうか。ならば、鉛の様に重い女は如何かな?」


 フィンは、ギヌスに倒れ込む様に全体重をかけて剣を押し込んだ。


「っ!?」


 確かに、全体重をかければ、その分だけ剣は重くなる。

 当たり前だ。

 力で負けるならば、重しをかける。

 しかしながら、力で負けているとはいえ多くの剣士はその技を使うことが無い。

 それもそうだろう。

 次の攻撃が出せないばかりが、隙ばかりになるのだ。


「勝てないからと言って自暴自棄かっ!?」


 ギヌスは重みに負け、剣から手を一瞬離しフィンの力を受け流す。

 勿論、フィンは全体重をかけていたのだ。前のめりのままに倒れるしかない。


「隙だらけだぞっ!」


 体勢を素早く立て直したギヌスが、フィシストラの首目掛けて剣を振り下ろす。


「お前もな」


 その瞬間、体勢を崩したまま剣ごと前のめりになったフィンの腕が横に振り払われる。


「っ!」

「がっ!」


 フィンの横に振り払った剣は、ギヌスの脇腹を掠め取った。

 そのお陰が、フィンの首からギヌスの剣筋はそれ彼女の肩に振り下ろされる。

 切り裂かれた肩は、斬られたのに焼ける様な痛みを孕む。

 しかし、なんだと言うのだ。

 彼女の主人は、腕一本この男に持っていかれたと言うのにそんな些細な事は気も止めずに、彼の足を掴んで離さなかった。

 痛みなど知らない貴族の娘である彼女が。

 剣など握ったことすらない心優しい彼女が。

 ならば、戦士として育て上げられ、剣士として生きた私がこれ如きの痛みで足を止めてどうするのだ。

 フィンは痛みで止まりそうになる手を、必死の思いで動かし立ち上がる。


「……まだ、手は動くぞ」


 ぼたぼたと音を立てて流れる血を見ながら、フィンはギヌスに向かって構えをとった。


「……ああ、やっぱり。最高だよ。フィシストラ」

「気持ち悪い事ばかり、言うなよ。お前があの時、私を止めなくても、私は一人でここに残るつもりだったんだ。お前との勝負をつけるためにな」


 そうだ。

 なんと言われても、止められても。

 ギヌスとの決着を付けるまで、フィンは先に進めない。

 ローラと共に、前に進む為には。

 ギヌスがいる限り、フィシストラ・テライノズは生き続ける。

 ここで、倒しておかねばならない。

 前に進む為に。

 先に進む為に。

 フィシストラ・テライノズを作り上げたギヌス共々。


「私はここでお前を討つ」

「ああ、そうした方がいい。賢いよ。だって、フィシストラを倒した後、俺は上の階にいくつもりだからな」

「何?」

「言っただろ? もう、どうでも良くなったて。どうでもいいんだよ。この国も世界も、皆んな。皆んなどうでもいい。結局、あの爺さんも俺を騙していたわけだし、あのおばさんは、俺から主人公の座を奪って、今は楽しそうに魔王退治。俺の夢を全部叶えてる。それなら、いっそ全部壊してやろうと思って」

「お前は……何を?」

「フィシストラを倒した後は、学園長先生に、弟王子。そして、あのおばさん。そう、ローラ・マルティスを殺して、王子も王も殺して、みんな殺して……。うーん。平民も殺せばいいのかな? そこら辺は、追々決めて……、俺がこの世界の魔王になる。俺を選ばなかった事を世界に後悔させてやる」


 主人公になれる。

 この世界で自我を持った時、ギヌスはそう思った。

 前世では、彼は群衆の一人だ。

 何処にでもいて、何処にもいない。とるに足らない、群衆の一人。

 何かに誰よりも秀でているわけでもなく、かと言って何か致命的に出来ないわけでもない。

 可もなく不可もなく。

 平凡と言うのならば、彼の事を指すのかと言うぐらいに、彼は何処にでもいる少年だった。

 だからこそ、絶望を覚えた。

 しかし、絶望を覚えるたびにお前はマシだ。

 お前よりも下がいると言われる。

 だからと言って、希望を見出してしまえば上には上がいる。

 その他大勢から抜け出せる事がないと教え込まれる。

 まるで、楔だ。

 だからこそ、この世界で誰も彼も自分よりも知識も思慮も劣るこの世界に、前世の記憶を持って産まれてきたと知った時には心が踊った。

 だってそうだろう?

 上には、上がいないのだ。

 誰も彼も、皆一様に現代では子供すら信じないものを信じ、現代では何と劣った生活だと嘲笑う様な生活を送っている。

 だからこそ、何をしても褒められた。

 だからこそ、誰よりも特別になった。

 困っている人には、心から手を差し伸ばし救ってきた。

 勿論、主人公ならば、こうするべきだと思いながら。

 でも、時間も世界も残酷だ。

 彼が優秀で特別でも、それを使える場所を世界は与えてくれなかった。

 彼が特別になれる時間は、刻一刻と迫ってきている。

 主人公の筈なのに。

 世界を救う筈なのに。

 彼はただただ、時間と言う虚空に飲み込まれる。努力も力も何もかも。何も起きないと言うだけの世界と共に。

 この世界に人生が溶け込むしかない。ただの、そう。ただの人間。その一人として。

 悪夢だった。

 そう気づいた時には、もう時間は残されていなかった。でも、焦ったところで世界の危機はやってこない。魔王だって現れてくれない。

 前世の様に、群衆の一人になってしまう。

 その時だ。

 彼に悪魔たちが手を差し伸べたのは。

 一緒に世界を救おうと、彼が異世界から転生している事を知って、それでも尚、彼に手を差し伸べてくれたのは、旧王族の友達と、学園長のみ。

 世界を救う。

 その為に、彼はキルトを殺した。

 ロサを言葉巧みに騙して操り、彼らの言葉のまま働いた。

 しかし、残ったものは何だろうか。

 世界は危機にもなっていないし、救う必要もない。それでも、それでも縋り付きたくて必死になったのに。

 今、主人公になれない現実しか、彼の前には残っていないのだ。


「手始めに、フィシストラ。お前からだ」

「……馬鹿馬鹿しいな。本当に馬鹿馬鹿しい。魔王が何かは知らんが、馬鹿馬鹿しい。お前は、世界一つも壊せないのか」

「だから、今から壊すんだよ。話聞いてたか?」

「だから、壊せないんだよ。話聞けよ。お前は、ここで私に負けるんだ。学園長どころか、ローラ様に指一本触れれずにな」

「……それで、俺に勝つ気か?」

「自信はなかった。けど、今ついたよ」


 フィンはニヤリと笑う。


「馬鹿は早死にするからな。お前が馬鹿なのは良くわかった」

「……その言葉、そっくりそのままお前に返すよ。後悔するなよ、フィシストラ」

「矢張り、馬鹿だな。何回言ってもわからないのか? 私は、もうフィシストラじゃない。フィンだっ!」


 フィンとギヌスが同時に踏み込む。

 お互いがお互いの正面を切り込む様に斬りかかるが、正面同士。剣が剣と打つかる反動でお互い一瞬身を離すが、すぐにまた体勢を立て直し斬りかかる。

 最早、二人とも防ぐ事を忘れた攻めの一手。

 その為、致命傷にならない傷が二人を染め上げる。

 何度も何度も飛び散る血飛沫は、最早どちらの物かも分からない。

 どちらが戦士として上なのか。

 ただ、それだけを決める戦い。

 何度も何度も剣を打ち込んでいると、急にフィンの動きが鈍くなる。

 血だ。血が無くなっていくのだ。

 最初に喰らった肩の傷が、今もなお血を流し続け、フィンの動きを鈍くしている。

 今迄、ギリギリの体力を精神力だけで使い続けていたフィンに限界が来たのだ。

 不味い。

 このままでは、負ける。

 フィンだって、それがどう言う事か理解をしていた。

 その時、フィンのふらつく頭に思い描いたのは、自分の主人。

 ローラ・マルティス。

 ローラ様なら……。

 彼女なら。

 その瞬間、フィンの足元がふらついた。

 その隙を、ギヌスは見逃す事はなかった。


「貰ったっ!」

「っ!」


 フィンの胸の真ん中を、ギヌスの剣が貫いたのだ。


「ははははっ! これで、何方が馬鹿かはっきりしたなっ! フィシストラっ!」


 フィンは激しく血を吐き出し、倒れる様に崩れ落ちる。

 そう、ギヌスが思った瞬間だ。


「ああ、お前の方が馬鹿だったな、ギヌスっ」


 フィンはギヌスの剣をしっかりと左手で掴んだまま、自分の剣を振り上げる。


「え」


 その刹那、ギヌスの首が胴から離れた。


「言った、だろ? 私の、名前は、……フィンだ、って……」


 もう、自分がギヌスと対等に戦えない事は分かっていた。

 だからこそ、わざとふらつき隙を与え、ギヌスの剣を受け止めた。至近距離で剣をつかんでいれば、首を撥ねれる。そう、確信を持っていたのだ。

 本当は、こんな事はしたくなかった。

 ローラはきっと、怒るだろう。

 貴女なんて、私の騎士ではない。騎士失格だと、言われるかもしれない。

 それでも。

 このまま倒れてローラにギヌスの刃が届く方が、何よりも怖かった。

 彼女はフィンにとってたった一人の恩人なのだ。

 たった一つの花であり、たった一つの太陽だ。

 彼女がいない世界なんて、フィンの中ではあり得ない。

 フィンが生きる地獄を、彼女は優しく照らし出し、全てを変えてくれた女神。

 それに、きっとローラが彼女だったらフィンと同じ事をしただろう。

 あの人は、誰よりも自分を犠牲にしてしまうから。

 そんな彼女がギヌスの刃で汚れるなんて、許されない。

 彼女が笑ってくれるなら……。

 彼女が生きてくれるなら……。

 彼女が、ローラが……。




『あれ?』


 フィンが起き上がれば、其処はいつしかの裏庭にある木の木陰。


『あら、フィン。もう、起きてしまったの?』


 上を向けば、フィンに膝枕をしていたローラが本を読んでいる。


『ローラ様っ!』

『ふふふ、珍しくお寝坊さんね』

『ごめんなさい。私……』


 急いで起き上がろうとするフィンを、ローラは優しく制して頭を撫ぜる。


『疲れたのでしょ? 今はゆっくり、休みなさい』

『でも、お茶を淹れなきゃ……。皆んなが来てしまいますよ?』

『そうね。でも、眠いのでしょう?』


 ローラが言うように、フィンの目蓋はフィンの意思とは裏腹に重たく下がっていく。


『でも……』

『いいのよ。ゆっくりおやすみなさい。皆んなが来たら起こしてあげるから』

『……ローラ様』

『何かしら? フィン』


 優しく、名を呼ぶローラの声にフィンの体はゆっくりと沈んでいく。


『私のお茶、美味しいんですよ……』

『ええ。そうね』

『起きたら、一番に、ローラ様に、飲んで欲しい……』

『ええ。楽しみだわ。だから、今はゆっくりおやすみ、フィン』


 ゆっくりとゆっくりと、フィンの意識が消えていく。

 夢も現も分からないぐらいに。




「ローラ様、おや、すみ、なさい……」


 そう笑うと、彼女はそのまま力なく床に崩れ落ちる。

 今度こそ、彼女が起き上がる事は二度となかった。




_______


次回は1月26日(日)24時頃に更新予定となっております。お楽しみに!

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