第80話 貴女の為の偶然を
アイナ・ヴィサージュという少女は取り分け目立つ少女では無かった。
いつも物静かで、教室の片隅で本を開いている少女と言う印象が強い。
雀斑を散らした鼻の上には、目が悪いのか丸い眼鏡がいつも掛かっている。
髪は誰もあるかなんて知らない校則を一人守る様に、長い髪を二つのおさげに垂らし、特に仲良くもないであろう令嬢達の後ろを一人俯きながら付いていく。
つまならなそうな人生だな。
自分の人生すら大概なのに、戦士と言う仮面を外されたが為にこの学園に来たばかりのフィシストラ・テライノズは彼女を見てそう思わずにはいられなかった。
それが、彼女に取っとのアイナと言う名の少女の全てだった。
「アイナ」
後ろから自分の名を呼ばれただけと言うのに、アイナ・ヴィサージュはびくりと肩を震わせ驚く素振りを見せる。
彼女が振り向けば、銀色の髪を持つ美しい女子生徒が自分の名を呼んでいるではないか。
アイナ・ヴィサージュはその事実にさらに驚き大きく目を見開いた。
「フィシストラ様……」
アイナは呆然としながら、目の前にいる美しい彼女の名を呼ぶ。
いつかのクラスメイトである彼女。
凛として、何にも染まらない白き百合の花。
そんな彼女が、自分の名を呼んでいるのだ。
「お久しぶりね。アイナ」
「は、はい」
フィシストラ・テライノズこと、フィンはこの時、噯気にも外面には出さないが内心ほっと胸を撫ぜおろした。
ベッドに臥せる主人の命に胸を張って任せて欲しいと大見栄を切ったフィンだが、その自信はアイナを探している間にすっかり消沈していたのだ。
それもそのはず。
フィンは、アイナの名は覚えていても、顔を覚えていた訳ではないのだ。
同じクラスメイトだった、アイナ。
しかし、フィンにとったらその程度の関わりならば一週間前の夕飯の内容よりも劣るもの。
そう、ローラにあれだけ威勢よく返事をした彼女だが、彼女のアイナへの記憶はとても曖昧であったのだ。
暗そうな奴だったな。
アイナの名を聞いて思い浮かんだのは、それだけだ。
顔なんて浮かんできてくれる訳がない。
そもそも、それ程同い年への対人関係なんて築く事が無かったフィンである。
彼女の周りは歳の離れた婚約者、彼女を褒め称える一族の汚物達、そして彼女が文字通り命を掛けて戦ってきた騎士団員。皆、大人ばかりが彼女を取り囲んでいたのだ。
子供、いや、同い年の子供達と接したのは、一番歳が近い兄かアスランぐらい。
そもそも、子供と子供らしく遊ぶと言う事をフィンはしてこなかった。
いや、出来なかったと言う方が正しい。
彼女にそんな時間は許されていない。
来る日も来る日も、彼女は剣の鍛錬に明け暮れ、大人の男相手に互いの命を掛けて決闘を行う。
それが彼女の日常だった。
一瞬でも気を抜けば、鍛錬を怠れば、即ちそれは自分の死を招く事であることを、聡い彼女は知っていたのだ。
だからこそ、彼女は全てを捨てて、全てを掛けて、強くなった。誰にも負けない程に。誰も彼女には勝てない程に。
それが、彼女の普通なのだ。
そんな幼少期を過ごしていたせいか、この学園に来た時、彼女の周りには誰も居なかった。
この学園に来たばかりの時だけではない。ローラ・マルティスと言う名の令嬢に出会う迄、彼女は常に一人だった。
誰とも関わらず、誰とも群れず。
何にも囚われず、何にも捕えず。
それが彼女の生き様だった。
しかし、だ。それを大きく変えたのはローラの存在である。
彼女に手の手を握った時、その瞬間だ。フィンは漸く、人と交わると言う事に関心を持った。人と言うものを、漸く認識し始めたのだ。
彼女の為に生きている。その為には、頭の良い彼女が常に張り巡らせている思考について行かなければならない。
本人はいたく謙遜するが、フィンの中でローラは彼女が知る誰よりも賢女である。
フィンの中では観察力の高さから、その人間の思考を、行動を読み解こうとする人間なんて、彼女しか知らない。
彼女の思考に一歩でも遅れを取れば、彼女の会話に自分の必要が無くなってしまう。
彼女の為に生きる価値が、なくなるのだ。
それからフィンは必死に人と言うものを注意深く観察し、個々と言う名の人物を覚え始めた。
だからこそ、ローラと出会う前に会った人間はフィンの中では酷く曖昧で、尚且つ記憶の片隅にも残っていないモノが多いのだ。
その為、フィンはアイナを良く覚えていなかった。
ぼんやりとした朧げな記憶を辿りながら、一番近い容姿を持つ人間にフィンの中では人生で一番の自信のない声で彼女の名を呼んだのだった。
声を掛けたのも、かなりの賭けだ。どうやらその賭けは見事に成功した様だが……。
その行動だけで、フィンは随分と疲れた気持ちになってしまった。
本題はここからだと言うのに。
こればかりは自分にも酷く呆れてしまいたくもなる。
「まだ、この学園にいらしたのですね……」
アイナの小さな声に、フィンは思わず苦笑を漏らした。
確かに、自分が在籍する教室には長い間顔を出してはいない。
退園したと思われても致し方ない程に。
だから、彼女のその言葉に異議を申し立てる権利は自分にはないとフィンは思ったのだ。
「ええ。まだ少しだけね」
テストは問題なく受けていたし、寮でも数回顔を合わせているとも思うが、何処で噂が立ったか、幽霊令嬢と言う二つ名をもらい受けてしまったフィンに取っては複雑である。
「フィシストラ様は、私に何か?」
「少しお話を聞きたいのだけど、お時間はあるかしら?」
「はい。大丈夫です」
アイナは伺う様にフィンを見る。
アイナは、この時酷く心を震わせていた。
なんたって、あのフィシストラ・テライノズ嬢がまた自分の前に立っているのだから。
アイナに取って、フィシストラは憧れの存在だった。
何処にも属さず、誰とも群れず、何色にも色を変えない百合花の様な令嬢。
気が弱く、いつも誰かの顔色を伺いながら目立たなく生きている『私』。
アイナとは真逆の位置に立っている彼女に憧れを抱いたのは彼女が編入して来て間もない頃だ。
彼女は覚えてもいないだろうが、他の令嬢に嫌味を言われていた時、彼女はアイナを助けた事がある。
いや、本人にしては助けたと言う認識すら持っていないだろう。
ただ、フィンにとっては本心を口にしただけ。
そう、くだらない、と。
フィンの言葉でその場は凍てつく雪山の様に凍りついた。なんたって、彼女が暴言を吐いた先には、名のある公爵令嬢が居たのだからだ。
皆、誰も彼女に逆らえなかった。
彼女を中心として群れを築かずには居られなかった。
その群れに入らなければ、ここでは生きていけない。幼いアイナでも、それぐらいは分かっている。
だから、好きでもない公爵令嬢の付き人の様に彼女の後を追うしかなかった。
そうするしか、生きる術を幼いアイナは見つけられなかったから。
しかし、フィンは違った。
誰にも屈しず、謙らず。
公爵令嬢だろうが、身分が上だとか、この容姿端麗な皮を被った獣には、道端の石ころの様に気にならないのだろう。
我が道を歩く美しい彼女の姿にアイナは目を奪われた。
その時から、アイナの中でフィンはヒーローになったのだ。
しかし、そのヒーローが彼女の前から姿を消す迄そう時間は掛からなかった。
もう、この学園にはいないのだろう。
そう思っていたのに。
諦めていたのに。
弾む心臓が、喉から飛び出して来そうな程、アイナはこの時を喜んでいたのだ。
「助かるわ。何点か質問させて欲しいの」
「はい。何でしょうか?」
彼女の力にならるならば。
アイナは決意を胸に顔を上げる。
今まで姿を隠していたのだ。なのにも関わらず自分の前に姿を表すと言う事は、何か彼女の危機が迫っているという事だろう。
彼女の危機ならば、この命。
「まず、貴女は図書館から本を借りていて?」
しかし、フィンの口から出たのは意外な言葉であった。
フィンの質問に、彼女は首を横に捻る。
一体、どうしてそんな質問が自分のヒーローの口から飛び出したのだろうか。
「え、ええ。少し、借りておりました」
しかし、答えない訳はない。
何だって、自分を助けたヒーローからの質問なのだから。
「それは、どんな本かしら?」
「どんな本? あの、図鑑の様なもので……」
「それは、毒草の?」
フィンの言葉にアイナの肩がびくりと跳ね上がる。
何故?
何故、この人が……?
「……アイナ?」
アイナの様子が可笑しい事に気付いたフィンが彼女の名を呼ぶ。
「あ、御免なさい。何故、フィシストラ様が私の借りた本の事等ご存知なのか、驚いてしまって……」
それもそうか。
フィンは内心溜息を吐く。
確かに、何故自分の借りた本を知っているのか。それも、特に接点もない人間が。
確かに、不審がりたい気持ちもわかるし、自分だったらなんて気味が悪いのかとこの場を去る事だろう。
しかし、説明するにも何と言えばいいか分からないし、検討すら付かない。
馬鹿正直に話ては、ローラ様の騎士の名に傷が付く。折角、彼女が誇ってくれる騎士だと言うのに。
フィンは悩んだ末に口を開いた。
「その本を探しているの」
フィンが思いついた中で一番オーソドックス且つ、明快な理由だろう。
「え?」
そう。一番オーソドックス且つ、明快な誰が聞いても分かりやすい理由なのに、アイナは驚いた顔をした。
「……何か可笑しかったかしら?」
「あ、いえ。フィシストラ様も、なんだと思って……」
「私も?」
「はい。少し前に、上級生の方にも同じ事を言われまして……」
フィンはアイナの言葉に目を見開いた。
ローラ様の仰る通りだ。
そして、同時にローラの叡智の計り知れなさに震え上がる。
自分の主人の、まだ見ぬ無限の力に。
彼女が千里眼を持っていると言われても、今なら納得出来てしまう。
「その生徒は誰!?」
「あ、えっと、確か……、アクト、と名乗ったと思います」
アクト。
あの男が。
フィンの脳裏にあの忌々しい主人を傷付けた男の姿が浮かび上がる。
「その男が、本を?」
何故渡したのか。そう問い詰めたい気持ちを抑えながらフィンが言葉を紡ぐ。
そんな八つ当たりの様な事を、ここで晒す訳にはいかない。
「あ、いえ。既にメイドに渡していたので……」
「メイド?」
その言葉にフィンは弾かれた様に顔を上げた。
「は、はい。メイドに、図書館に返して置くと言われて」
「その、そのメイドの名は、わかる?」
まさか。
フィンの脳内で、そんな偶然あるはずがないだろうと笑い声がする。
そうだ。
そうなのだ。
そんな偶然、あってたまるか。
そんな筈は……。
「メイドの名ですか?」
「ええ。名前が分からないなら特徴でもいいの。何か、覚えている事があれば」
「いえ、名は名乗って頂いたので」
「その名は?」
「確か、ロサと名乗っていたと思います」
ガツンと頭を殴られた様な衝撃をフィンは覚えた。
そんな偶然、あってたまるか。
可能性を否定した言葉が、願望に変わった瞬間でもあったのだった。
_______
次回は11月19日(火)23時頃に更新予定となっております。お楽しみに!
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