第76話 貴女の為に悪夢の向こうを

 熱い。

 身体が燃える様に熱い。

 まるで、炎の海に飛び込んだ様に。


『ローラ様っ! ローラ様っ!』


 誰かが私の手を握り、必死に名を呼んでくれている。

 帰らなきゃ。

 こんな所にいる暇など私にはないと言うのに。

 でも、どうやって帰ればいいんだっけ?

 熱さに身を焦がしながら、私は後ろを振り返る。

 最早、きた道など何処にも無い。

 あれ? 私は、どうやってここ迄来たんだっけ?

 私は、熱さに項垂れながら、呆然と立ち尽くした。

 こんな暗闇に、私がどうしているんだろうか。

 私は、何処に居たんだっけ?


『ローラ様っ、お気を確かにっ!』


 上から聞こえる声は、誰の声?

 私は、ここに何しに来たの?

 あれ?

 ローラって、誰?

 私は、私は……。

 私は、じっと手を見る。

 掌には、小さな黒子が二つ。寄り添うようについている。

 そうだ。私は……。

 私の名前は、安田潔子だよ、ね?




「あれ……?」


 起き上がれば、見慣れた安い布団の中に私はいた。


「……夢?」


 一体、どんな夢を見ていたのだろうか。

 とても、熱かったような……。

 ふと、自分の顔を触っても、汗一つかいたような感覚はない。

 それもそうだ。なんたって今は十二月。日本では冬である。


「変な夢、見たのかな……」


 どんな夢かなんて、最早覚えてもいない。

 悪夢でも見ていたのだろうか。

 折角の、こんな日なのに。

 私はぼんやりと時計を見ると、意を決したように洗面台に向かう。

 随分と寝てしまった。

 会社を休んだと言えど、休日でこんな時間に目を覚ますなんて怠惰の極みだ。

 最早悪夢なんて言い訳でもない。

 それでも、何処かぼんやりしながら、私は顔を洗い歯を磨く。

 家を出るのは正午で十分に間に合う。

 それでも、十時に起きるなんて。

 昨日は遅くまで、手紙を書いていたせいかもしれないな。

 そう思いながら、テーブルの上に置いてある花柄の封筒を目で追った。

 結局、手紙の枚数は十二ページにも及んでしまった。

 最初は何を書けばいいか悩んでいたが、書き出したら止まらなかった。

 私の中にある、ありったけの感謝の気持ち。

 今日は待ちに待った、あのゲームのイベントだ。

 イベントと言っても、声優が出るわけでもない。ファンディスクの発売記念のイベントである。

 そこに来るのは、私が生涯一番ハマったと言ってもいいあのゲームの制作者だ。

 洗顔を終えて、化粧道具に手を伸ばす。まるで、初デートに出かける高校生の様に。

 残念だが、デートなんて人生で一度もした事はない。

 化粧だって、社会人になりたての頃に軽く触れる程度に覚えただけだ。

 だけど、今日は違う。

 馬鹿みたいに、私は浮かれているのだ。

 あの手紙は、ラブレター。いやいや、中身は立派なファンレターなのだが、普段自分では選ばない綺麗な便箋。

 初めて使うカラーコントロールに付け睫。

 二重にする為にテープを使う事を考えたが、いやはや先輩オススメの目の元でハサミを使わなければならない物は流石に初心者には厳しいものがある。

 付け睫て簡単お手軽二重と言う売り文句に惹かれ、そちらを私は選んだわけだ。

 チークは薔薇のモチーフ。チークなんて、使った事がないが、今日の為に吟味に吟味を重ね、小さな勇気を出してお店のお姉さんに付け方を教えてもらった。


「えっと、次は……」


 慣れないメイクアップに手が覚束ない。

 こんなブスが粧し込んだ所で、化粧をしたブスだ。

 何かが変わるわけでもなければ、誰かに見られる訳でもない。

 でも。

 それでも。

 心躍る場に、私は少しでも着飾りたくて。

 少しでも、この日の為に何かしたくて。

 誰の為でもない、自分の為に。

 普段は買わない服を着て、普段はしない化粧をして。

 可笑しくないかなんて、前日深夜まで悩んだはずなのに、また悩み出したりなんかして。

 仕事中の先輩に迷惑を顧みずに自撮りを送って、変じゃないですか? と、聞いたりなんかして。

 直ぐに既読が付けば、めっちゃ可愛い! と、ウサギのスタンプが送られてきた。

 お世辞だなと苦笑いを浮かべるが、心は満更でも無い。

 きっと、本当に、馬鹿なのだ。

 今、この時だけは。

 あれやこれやと追われていれば、時計の針は正午まで後もう少し。

 どうやら、思った以上に用意に時間を費やしてしまったらしい。少しばかり急がなければ。

 行ってきます。終わったら、感想送りますね。妹さんにもよろしくお伝え下さい。

 簡単なメッセージを昼休みに入る先輩に送って、慌しげに必要な物を詰め込んだ鞄を手に、慣れないヒールの靴を履く。

 コートは流石に、会社のコート。

 まるでプレゼントを包むかのように、浮かれた私を綺麗に隠す様にボタンを閉める。

 さて。

 手紙もチケットも、鞄に詰め込んだ。

 今から会場へ向かえば、一時前には着くだろう。

 グッズの販売は、二時から。ネットで確認をすれば、今の時点で列が出来ているらしい。

 でも、五時の開場時間には十分に間に合う時間だ。


「さむっ」


 玄関を開けて直ぐに、外の空気に触れて声が出る。

 茶色のファーの手袋を急いでコートのポケットから出し、私は鍵を閉めて人生初のイベントへ向かった。

 楽しみだ。

 自然と笑みが溢れてくる。

 ワクワク、ドキドキ。

 まるで、小学生の様に私の心は踊っている。

 すれ違う人達を見ながら、通りすがりの店のウインドーに映る自分を見て、髪ぐらい巻けば良かったかな? と、簡易な髪飾りでお茶を濁してしまった後悔が沸いては消える。

 こんな気持ちは初めてだ。

 少し高いヒールを鳴らして、いつもの改札を通った。

 電車の中は少し熱い。冷たくなった頬が、段々と熱を帯びてくる。

 会場に着いたら、グッズの列に並ばなければならない。その前にコンビニ入って暖かい飲み物を調達しよう。

 私は鞄についた、ティール王子のキーホルダーを触りながら、向かいの窓を見ていた。

 いつもは家の鍵に付いているティール王子だが、今日は折角のイベント。一緒に見たいと鞄に付けてみたのだ。

 馬鹿みたいに思われても仕方がない。私だってそう思う。

 でも、彼が居てくれたら私は何だって……。


「本当に、何でも出来ると思っているの?」


 電車が地下に潜った瞬間、前から声がした。

 そこには、金色の髪に赤いヘアバンドの、白い制服を纏った少女が此方を見ながら座っていたのだ。


「え……?」


 私に言われたのだろうか。

 私は周りを見渡すと、昼間の電車の中だというのに、私と少女以外の姿はなかった。

 あれ?

 人が、乗っていた筈なのに。

 あれ?

 そもそも、この線は地下に入る線だっただろうか?


「聞いているの?」


 私が戸惑っていると、何処か苛立ち気な声を少女が出した。


「あ、御免なさい。私に言っているのか、分からなくて」

「ここには、私と貴女しかいないでしょうに」


 確かにそうだ。

 そうなのだ。

 だから、可笑しいのだ。


「あ、あの。他の人も乗ってましたよね?」


 私は不安に駆られながら、少女に問いかける。

 そうだ。乗っていた。

 いや、違う。誰も乗っていなかった。

 どの答えでも、私はきっと震え上がると言うのに。

 それでも問うことを私は辞められなかった。

 少女は訝し気な目で私を見ると、小さな溜息を一つ漏らす。


「貴女と言う人は……」


 まったく、呆れたものだと言いたげに。


「あ、あの?」

「貴女に頼らならばならないなんて、何て皮肉なのかしら。悪趣味だわ」


 私の事を少女は知っているのだろうか。


「あ、あの、何処かでお会いしましたか?」


 随分年下の彼女に伺いを立てる様に問い掛ければ、彼女は鼻で私を笑う。


「そうね。何度も、お会いしてるわよ。私達は。貴方のお陰でね」

「私の? 御免なさい。何処でお会いしましたか?」


 彼女と出会った記憶は何処にもない。

 私が聞けば、彼女は顔を歪めて何か言いたげに口を開こうとするが、少し考える様に目線をずらせば直ぐ様口を閉じてパチンと大きな音を立て、指を鳴らした。

 その瞬間、暗闇しか映さなかった窓が色とりどりな景色を映し出す。


「え……? これは……、ゲームの画面?」


 私は自分の目を疑った。

 なんたって、あのゲームの様々な画面が、窓に一斉に映し出されていたのだ。

 何だ。ここは。

 どうなっているんだ。

 どんな仕組みなんだ。

 私が目を回していると、彼女の後ろによく見たゲームの場面が映し出された。


『私はローラ・マルティス。ティール王子の婚約者ですわ』


 金色の髪に、赤いヘアバンドを付けた少女が、そう言っていた。

 それは、私の目の前に座っている少女そのもの。


「思い出して頂けたかしら? 安田潔子様」


 何故、私の名前を?

 いや、それどころの話じゃない。

 何で、ゲームの中にいる筈の悪役令嬢が。

 私の目の前に!?


「ろ、ローラ・マルティス……」

「フルネームとは、随分と他人行儀だこと。ローラで構いませんわよ」


 ゲーム通り、彼女は憎らし気な笑顔を私に向ける。


「な、何で?」

「何で? 随分と、寂しい事を仰るのね。貴女は」


 金色の髪を揺らしながら、ローラは私の前に立つ。


「げ、ゲームの中の人間が、何でここにいるの?」


 あり得ない事が起こっている。

 ゲームはゲームでしかないのに。

 現実に、干渉出来る訳がないのに。


「ふふふ。現実じゃないからではなくって?」


 ローラがもう一度指を鳴らせば、窓に映っていた画像が消えていく。

 気付けば、映し出していた窓も。

 そして、座席も、何もかも。

 暗闇の中に消えていく。

 残ったのは、ローラと私。


「な、何がどうなっているの!?」


 思わず、恐怖のあまり声が出る。

 現実離れしたこの風景に。

 最早叫び声に近い声が。


「何も、どうも、なって無い」


 怯える私とは対照的に、ローラの口調は冷静そのものだった。


「なってなく無い! だって、電車がっ!」

「電車なんて無かった」


 彼女がそう言えば、私の脳が大きく動く。

 あれ?

 電車なんて、あるはずが無いじゃない。

 だって私が住む世界は……。


「誰かがいる訳がない」


 また大きく跳ね上がる。

 いる訳がない。

 だって私がいる場所は……。


「ゲームの中の人間が目の前にいる訳がない」


 嗚呼……。

 そうだ。

 何を言っているんだ。

 いる訳がない。

 だって私は、安田潔子じゃないのだから。

 だって私は……。


「ふふふ。私がいる訳が無いのよ。だって、貴女がローラ・マルティスでしょ?」


 私は。

 私は自分を見る。

 巻いた方がいいと思った黒髪なんてない。

 寒いからと付けた手袋もない。

 普段買わない服を隠したコートなんてない。

 あるのは、金色の髪。

 失った左手に、まだある右手。

 白い制服。


「私は……、私はっ!」


 何を?

 今、何をしていたんだ?

 顔を上げると、私と同じ顔をした少女が笑った。


「私なんて、最初から居ないのよ。この現実が、最初から無かったかの様に」

「どう言う事だ……?」


 何を言っているんだ。


「ゲームの続きを夢見たのも、貴女の記憶の奥底にあるもの。ここに居る私も、貴女がいつか見た私。私なんて、最初から居なかった」


 ローラはまだ笑っている。


「ねえ。何で、ゲームの世界に産まれてきたと思ったの?」

「それは、私が貴女だったから……」


 あのゲームに出てくる、悪役令嬢の名を持った醜女。

 それだけで、答えは十分だっただろ。


「あのゲームは、現実なの?」

「現実、でしょ!? だって、私は今、貴女になってあの世界にいるんだもの!」

「本当に?」


 ローラは首を傾げた。

 答えを知っている質問を意地悪くする様に。


「私はただのプログラミングされた、ローラ・マルティスよ。言葉も動きも役割も人生も、全て他人によって決められた、ローラ・マルティスよ」

「でも、アリス様もいる! ティール王子だって、リュウだって、タクトだって!」


 あのゲームの様に!


「頭、悪いのね」


 私の叫びを呆れる様に、ローラは一言呟いた。


「誰もいない。貴女が知っているのは、ゲームの中の決められた役目を持ったあの人達。そもそも、前提が可笑しいでしょ? ゲームの世界を、何故正にしたがる? 貴女、言ったじゃない。現実では、あり得ないって」

「あり得ないけど、仕方がないじゃない! あの世界に私は居るのよ! 何を疑って言うのよ!」

「本当に、馬鹿ね。私は何度も言っているでしょう?」


 ローラはうんざりした顔を私に向ける。


「ゲームは、ゲームよ。現実じゃない。でも、二つは繋がりを持つ事が出来る。はてさて、何でだ?」


 悪戯心なのか、クイズの様な問いかけに私は激しい苛立ちを覚えた。

 

「何が言いたいんだよっ!」

「あら怖い。それが、貴女の本性なのね」

「のらりくらりと躱すな!」

「怒っていても答えは出なくってよ? ヒントをあげる。よく考えてみて。私は、誰によって産まれたか。貴女は、誰によって産まれたか」

「誰にって……」


 ぐしゃり。

 紙がくしゃける音がする。

 それは、イベントのチケットが一枚。

 大切に鞄に入れた筈のチケットが、何故か私の足元に転がっていた。

 そこには、イベントの日時と、出演者の名前。

 このゲームの生みの親でもある、シナリオライターとプロデューサー。

 名前は……。


「あらあら。貴女の怠慢のお陰で、時間切れね」

「え?」

「のらりくらりは、貴女の方と言う事だわ。客人がいらした様よ、オリジナル様」

「オリジナルって……っ!」

「さあ、お帰りになって。貴女には、まだ帰る場所がある。過去なんて、振り返ってる場合ではないでしょうに。あら、やだ。勘違いしないでね。振り返って貰わなければ困るのだけど、今はそれどころではない様よと、私は言いたいの」

「ローラ、お前っ!」

「さあ、目を覚ましなさい。二度と、私と合わない事を、願って」


 ローラは私の肩を強く突き放す。


「ま、待って!」

「嫌よ。だって、貴女だって待ってくれないじゃない」


 ローラは笑顔を消して、口を歪めた。


「私がどれ程待ってと言っても、何度も何度も私を殺したくせに」


 炎が、次の瞬間彼女を囲む様に燃え上がる。

 まるで、あの時の様に。

 喉奥が、引っかかる。

 違う。だってあれは……。

 あれはっ!




「ローラ様、ローラ様っ!」


 私が目を覚ますと、私に寄り添う様に目を真っ赤に腫らしたフィンがいた。


「私は……」

「お気付きになったのですね……っ! 良かった! 明け方から高熱が出て、苦しんでおられたんです」

「ああ……。だからか……」


 だから、あれ程焼ける様に身体が熱かったのか。


「良かった……。ローラ様が目を覚ましてくれて、本当に良かった……」


 フィンが身体を私に沈めながら何度も呟く。


「有難う。もう、大丈夫よ」


 痛みと怠さは感じるが、気の遠のきそうな気配はない。

 これも、ずっと看病してくれているフィンのお陰だろうか。

 それにしても、あの夢は一体……。

 もう一人のローラは、私に一体何を伝えたかったんだろうか。

 いや、あれはただの悪夢だ。

 熱に魘されて見た幻だ。

 何を本気にしているんだ。私は。

 その証拠に、客人なんて何処にもいないだろうに。

 そう思った時だ。

 トントンとドアが叩かれる。


「誰、かしら?」

「……確認して参ります」


 フィンが起き上がりドアを開けると、聞き覚えのある声が耳に届く。


「ローラ様はご無事なんですかっ!?」

「シャーナ様に、アリス様?」


 そこには、シャーナ嬢と少し窶れたアリス様の姿があったのだった。





_______


次回は11月3日(日)23時頃に更新予定となっております。お楽しみに!

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