第31話 貴方の為の赤い血色を
不味い事になったな。
まさかシャーナ嬢がロッカーから出てくるだなんて思ってもみなかっただけに、今、この状態をどう対処していいのか咄嗟に思いつかない。
先ほどは追い詰められると思っていただけに、思考が高速で切り替えられるはずかない。
しかし、この女は、被害を受けるのは素人だが、加害者となるとなんの躊躇もしない事は、私の身でわかっている。
下手に私が動けば、この女は間違いなくシャーナ様を傷つけるだろう。
「……貴女、自分が何をやってるか分かっているの?」
取り敢えずは、時間稼ぎだ。ここで、体勢を立て直さなければ、ここにいる全員の命が危ない。
「分かってるかって? それは、アンタの方だよっ!」
「ひゃあっ!」
女は、シャーナ嬢の首にナイフを近づける。
「や、やめなさいっ!」
せめて、私が人質になれれば良いのだが、きっとこの女はそんな条件を飲むはずがない。
私が焦って手を伸ばすと、女はニヤリと笑う。
「これ、アンタの友達ぃ?」
何のつもりだ?
女の質問の意図が分からず、私は女を睨みつける。
私の友達だからなんだと言うのだ。
「ええ。私の大切な友人です」
「あははっ! そうなんだぁ。じゃあ、王子様は?」
王子?
「アンタは王子様のこと好き?」
女はシャーナ嬢の首にナイフを当てたまま、私に問いかける。
何故、そんな事を聞くんだ?
答えを間違えたら、シャーナ嬢が危ないのか?
答えがある質問なのか?
どれだけ脳内で質問を回してみた所で、この女の意図が分かるはずがない。
でも、答えが遅ければ遅い程、シャーナ嬢が危ない事だけは分かる。
ここは一か八か……。
私にナイフを向けさせるチャンスかもしれない。
「私の想いの人、です」
「ははははっ! その顔で!? 信じられないっ! 鏡見た事ある?」
でっちあげた答えであるが、笑われるのはいい気がしないものだ。
それに、鏡を見たことがないかだと?
「お前も大層な顔してないだろ、下民。鏡すら買えないのか?」
女を鼻で笑うと、キッときつく睨みつけられた。
しかし、依然ナイフの位置は変わらない。
どう言うつもりだ?
この女は、感情を自分でコントロール出来ない。怒りにかられると、全て一点がその怒りの矛先に向いてしまうタイプである。それは、私を甚振った時に嫌と言うほど分かっている。
だから、安い挑発をした。
ブスにブスと言われるのだ。実に分かりやすい怒りだろうに。なのに、ナイフの位置は変わらない。私に向けて振り回しても可笑しくないが、そう簡単にはいかないと言う事だろうか?
いや、違う。
「アンタ、今の状態わかってんの?」
次は女から私に問いかけてくる。
こいつ、何かを狙ってる?
先程に比べれば、女は冷静そのものだ。怒りに振り回される事もなく、自分の優位に酔いしれる事もない。
「ねぇ、アンタは人が簡単に死ぬって知ってる?」
「は?」
私は、女の問いに呆れ返った声を出した。
知っているとも。
いとも簡単に死んだ人間が目の前にいると言うのに、なんと巫山戯た質問だ。
「例えばさ、さっきアンタが私の首を絞めたよね? アレで私は簡単に死ぬんだ。武器なんて使わずに、簡単に」
「!?」
そう言って、女は私の足元にナイフを投げた。
一体、何をする気だ?
「そんなナイフがなくても、私は簡単にコイツの首を折れる」
女は何が起こったか分からずに呆けているシャーナ嬢の首に腕を巻きつける。
よく、本で殺し屋が音もなく首を折るような仕草に私は思わず身構えた。
しかし、女はそこから動かずにじっと私を見ている。
何だ? 動かないならこちらから……。
私が女にもう一度タックルをかまそうとすると、女はその前に口を開いた。
「ナイフを拾いな」
こいつ、正気か?
敵にわざわざ自分からナイフを渡すだなんて、どんな思考をしてるんだ?
それとも、私がナイフ一つ刺せない臆病者だと思っているのだろうか?
ならば、それは間違いだ。
間違いなく、私はお前を刺せる。何の躊躇もせず、何の感情もなく、お前を。
「早く拾いなっ!」
でも、そんな事はこの女もわかってる事だろうに。その証拠に、私は女の首を締め上げたのだから。
女に促されるまま、女の目的もわからなまま、私は足元に転がされたナイフを拾う。
私がナイフを拾った事を確認すると、女は満足そうに笑った。
「変な気を起こすんじゃないよ。アンタが私に向かって走ってきた瞬間、私はコイツの首をへし折る」
矢張り、反撃される事は分かってか。
ならば、一体、何故?
しかし、その答えは直ぐに分かる事になる。
「そのナイフで、王子を刺しなっ!」
「っ!?」
何だって?
私は信じられない様なものを見る目で女を見れば、もう一度女は高く笑った。
「コイツと王子、友人と想いの人を、アンタは何方を選ぶんだい?」
それは即ち……。
「王子を刺さないと言えば?」
「コイツの首をへし折るさ」
「やっ!」
そう言って、女はシャーナ嬢の首に巻きつけた腕を少し締めた。
徐々に閉まる首に、シャーナ嬢は恐怖の余り動けないでいる。
当たり前だ。死ぬのは誰でも怖い。それが他人の暴力によるのならば、その恐怖は計り知れない。私だって、怖かった。
だからこそ、何故直ぐに逃げないのかと彼女を責める事など出来やしない。
「さあ、早く選ぶんだねっ!」
王子かシャーナ嬢。一つしか命は選べない。
私は深い呼吸を一つ。
どうしもない。こんな状態で、誰も彼もを助けれる程、私は強くない。
だとしたら、選ぶのは一つしないだろう。
「分かったわ。王子を、刺すわ」
「あはははっ! 友達を選ぶんだっ! 友達を選ぶのねっ! 素敵な友情ですこと! 感動して涙が出るわっ」
こいつ、私を馬鹿にしている。
いや、それは構わない。慣れているのだから、それについて今更何かを思うことすらないが、その復讐めいた遣り口に、思わず私は苦虫を噛み潰したような顔をしてしまう。
それを見た女は、私が何か企てているのかと思ったのだろうか?
「心の臓を刺せ。それ以外は認めない。いい? 深く深く刺すのよぉ?」
「わかってるわ。その代わり、彼女を早く離して」
「アンタが王子を刺してから。刺したら直ぐに解放してあげる」
「必ずよ!」
「わかった、わかった。早くして頂戴? 私の気持ちが変わってしまうわよ?」
「……わかったわよ」
まさか、こんな事になるだなんて。
でも、出来ないと言えばシャーナ嬢の命がない。
私はナイフを握りしめると、王子の横たわるベッドの隣に立つ。
いつしか自分の恋心を人魚姫に見立てたが、まさか本物のナイフを持つだなんて。
しかし、人魚姫は、王子を愛していたから刺せなかった。
自らが泡となる事を、自ら選んだ。
私は真逆だ。
王子を愛していないなら刺せる。
他人が選ばせた選択を、他人が選ぶ。選択なんて、あってない様なものだったからな。
実に皮肉なものだ。
「王子」
私は、せめてもの懺悔に王子に声を掛ける。
でも、続けるのは謝罪でも悪者志願でもないけども。
「今までの恨み、これで帳消しにして差し上げますわ」
致し方ないからな。
私は王子の胸元に深くナイフを突き立てた。
「はっ、好きな人を殺すなんて、酷い女」
「ろ、ローラ様……」
真っ白な白いシーツが鮮血色にジワリと染まり出す。
「刺したわよ。早く彼女を離しなさい」
「ああ、忘れてたわ。良いわよ。アンタは立派に仕事を果たしたんだから、ご褒美あげなきゃ」
「早く」
「そう急かすのはやめてよ。私なりの感謝の気持ちを付けたいと思ってるんだからっ」
その時、女の手からもう一本の小さなナイフが目に入った。
こいつっ! こんな物を隠し持ってたのか!?
「シャーナ様、危ないっ!」
私は、女がナイフを振りかざす前に女に飛びかかった。
幸い女の手はナイフを持つ為に、シャーナ嬢の首からは腕が外れていた。今なら、シャーナ嬢を無傷で助けられるっ!
「アンタ、馬鹿だわ」
私がシャーナ嬢を守る為に、女に飛びかかる事をきっとこの女は読んでいたのだろう。
女が刺したかったのは、シャーナ嬢ではない。
「死ねっ!」
飛びかかってきた私に、女はナイフを向ける。
そして、そのナイフは私の胸に。
「ローラ、ローラ様っ!!」
「があっ……」
私にナイフが突き刺さった場所から、赤い赤い血色が流れ黒い服を伝って床を染める。
グラリと体を揺らし、力なく横たわる私にシャーナ嬢が駆け寄った。
「ろ、ローラ様! しっかりしてくださいっ! ローラ様っ!」
服が赤く汚れるのを厭わず、シャーナ嬢は私を抱き上げ名を呼ぶ。
いいの。これで、シャーナ嬢が無事なら、これでいいの。
「あはははっ! 私の邪魔をした事をあの世で悔いなっ!」
「ローラ様、ローラ様っ!」
「さて、これで私の顔を見たのはアンタ一人だね」
「……私?」
怯えた顔でシャーナ嬢が女を見れば、女はニンマリと歪んだ笑顔を彼女に向ける。
「アンタをここで殺せば……」
その時だ。
低い男の声がドアから聞こえたのは。
「おい、遊びは終わりだ。早くここから出ろ」
顔は分からない。黒い布に姿を隠した男が立っていた。
「……何故? この女一人で終わりですよ!」
「人が来る、もう終わりだ」
「でも、私の顔がこの女にっ!」
女は男に必死に訴えると、男は周りを見渡し口を開く。
「この場で一人、血塗れで残るんだ。犯人はこいつだと誰もが思うだろう。わざわざ殺す必要はない」
「で、でも……」
「不服なら、一人でやれ」
男に突き放されると、女は諦めたように舌打ちをして男に従い外へ逃げていく。
こうして、血濡れた医務室は幕を閉じた。
いや、こんな状態で閉じれる訳がないと思うだろうが、閉じて貰わなきゃ困るのだ。
「……ローラ様。私、一体どうしたら……?」
そう、シャーナ嬢が一人呟いた。
しかし、返事を返す声は今はまだ何処にもない。
何処にもないのだ。
_______
次回は6月5日(水)22時頃に更新予定となっております。お楽しみに!
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