第30話 貴女の為に血の味を

 衝撃の後に広がっていく痛みに耐えきれず、私は殴られた腹を抱えながら床に膝をつく。

 初めて、人に本気で殴られた。

 前世のいじめでも、こんな事はされた事がない。精々物をぶつけられるぐらいだ。

 殴られる衝撃よりも、殴られたと言う事実のショックが私を震えさせる。

 痛みに慣れていたならば、こんな事にはならなかっただろうに。

 女は膝をついた私のキャップを取って、前髪を掴み顔を上げさせる。


「ひぃっ!」


 暴力と言う事実が、痛みよりもひたすら私に恐怖を与えた。

 怖いと、そう言葉にする前に喉が引き攣り悲鳴が出る。


「はっ。顔に似合わず、美しい髪をしてるじゃないか」


 女はニヤリと笑って私の顔に拳をぶつける。


「ギャアッ!」


 顔に似合った悲鳴が、私の口から漏れ出した。

 鼻が折れたのではないか。

 汗でも唾液でもない生温いぬめっとした感覚か私の顎に伝わっていく。


「馬鹿にしてるな、アンタ。メイドだって? 私が気付かないとでも思ったわけ?」


 メイド服を着ているのならば、相手に顔がバレていないのならば問題ないはずだと思っていた。


「アンタら上級国民は、本当に私達を物だとしか思ってないのが良くわかるよ。知ってるか? アンタらが顎で使ってるメイド達はな、そんな綺麗な手なんて一本も持ってないんだよっ」

「ひぎゃぁぁっ!」


 女はヒールで私の指を蹴り上げる。


「アンタらが人間だと思ってないから、そんな所見てないんだろうね。本当、腐ってる。アンタら上級国民は腐ってるよっ、頭がねっ」

「ひぎゃあぁっ!」


 女はそう言うと、私の頭を床に叩きつけた。

 痛い。でも、痛みが身体を襲うよりも女への恐怖が私を包む。

 殺される。

 怖い。怖い。怖いっ!

 命なんで差し出す覚悟があったにも関わらず、私は初めて受けた暴力に既に屈指そうになっていた。

 皆んなが守ってくれた自分を、何の価値もない私を、私自身が価値を底まで陥れようとしている。

 それ程、私にとって暴力とは恐ろしい物だと身体に刻まれたのだ。

 親に叩かれる事はあっても、剥き出しの憎さを注がれた殺意が、これ程までに恐ろしいとなんて考えもしなかった。

 この女は、私がローラ・マルティスである事なんて知らない。知らないのに、貴族と言うだけで殺意を持っている。無差別テロだ。その対象に自分がいる。その事実に直面しただけで、私は逃げ出したい程の衝動に駆られているのだ。

 一度だけ、過去に殺意の憎悪を向けられた事がある。でも、それは一瞬で終わってしまった。恐怖を覚える前に、私の一度目の人生は終わってしまったのだから。

 だからこそ、死ぬのは怖くない。そう思ってたのに。

 この女は違う。


「アンタが誰で何でここにいるか知らないけど、運が悪かったね」


 運が悪い。それだけで?

 それだけで、この女は私にここまでするのか?

 理解が追い付かない。追いつく前に、次に何をさせるのかが怖くて動けない。

 それは金縛りにも似ていた。

 何かしなければ、考えなければ。そう思えば思うほど、身体はそれを拒む様に息を潜める。何かすれば、次に何が待ってると思う? そう、言ってるかのように。自分の身を守ることさえ、最早恐怖でしかなかったのだ。


「それに加えて、アンタは私を馬鹿にした。許せる事なんて無い」


 このまま、いたぶられて殺されるのか。

 

「アンタも、廊下にいた女の仲間か何か?」

「ろう、……か?」

「あの銀髪の物騒な女だよ」


 フィン……?


「まあ、あの女も今頃は死んでるんじゃ無い?」


 フィン、が?


「何処から情報が漏れたか知らないけど、女二人で何が出来るんだか。やっぱり、あんたら上級国民は頭が悪く傲慢だね」


 女が喉の奥で笑う。

 フィンが、この女は何だって?

 今、何だと……。


「アンタも直ぐに、お友達と王子と仲良くあの世に行くのさ。恨むなら、馬鹿な自分達を恨むんだね」


 フィンと王子と、私で?

 フィンが?

 フィンが、死んだ?

 あの、強くて優しいフィンが?

 私の中で、フィンが銀色の長い髪を揺らしながら、私に優しく笑いかける。あのフィンが、こんな女に?

 負ける?

 私の、友達が?


「フィ、フィンにっ! な、何をしたっ!」


 怖い、痛い、悲しい。

 私の中に渦巻く感情は、それしかなかった。

 女が怖い。暴力が怖い。

 殴られた所が痛い。蹴り上げられた所が痛い。

 フィンが……。

 フィンが、死んだだって?

 私のフィンが!?

 私は女の足にしがみつき叫んだ。

 怖さも痛さも、忘れる事は出来ない。でも、それよりも、私のフィンへの思いが優ったのだ。


「何だアンタ。また殴られたいのかい。それとも、刺されたいの?」


 そう言って、女はナイフを取り出す。

 怖い。刺される痛みを脳が想像してしまう。でも、それよりも。

 そんな事なんてどうでもいい!


「お前、フィンに何をしたっ!」


 私は臆せずに叫ぶ。


「フィン? ああ、あの女はフィンって名前なのかい。そうだね、私は何もしてないよ。ただ、少し、私の仲間がフィンちゃんと遊んでるだけ。まあ、あの人ならあんな女直ぐに殺しちゃうけどね」

「巫山戯るなよっ! フィンに何かあってみろ、絶対にお前を殺してやるからなっ!」

「あはっ! 怖っ。令嬢様の言葉とは思えない言葉を言うね、アンタ」

「令嬢じゃないっ! フィンの友達としての言葉だっ!」


 いつも、私を守ってくれていたフィン。私に救われたと言ってくれたフィン。私にだけ笑ってくれるフィン。

 この世界に来て、初めてローラではない私と言う存在を見てくれたフィン。

 あの子に何かあったらと言うならば、私は許さない。

 この女を、絶対に!


「やだやだ。感動の友達ごっこ? 金の元だろ。卑しいアンタらの友情なんて。その薄汚い友情で、アンタは何が出来るわけ?」


 そう笑って、女は私の顔を蹴り上げる。

 痛い。

 でも、だから何だよ。


「お前を……」


 口の中はボロボロに切れ、鉄の味が口に広がる。

 それでも、ネチャリと粘る音を立てながら、私は女を睨みつけ口を開いた。


「絶対に殺すっ」

「っ!?」


 女が私に怯んだ瞬間に、私は女に体当たりをかました。

 女はよろけ、ナイフを落とし、尻餅をついた隙に私は馬乗りになり女の首に手を絡める。


「な、何をするんだっ!」

「五月蝿えよ、糞蝿女がっ!」


 最早、どっちが悪役なのか分からない暴言の応酬。

 私が大人しい、礼儀正しい?

 そんなもの、何処の幻想だよ。私はずっと、脳内では口汚く誰も彼も罵ってたんだ。

 当たり前だろ。

 馬鹿にされて、蔑まれ、虐げられ、泥を掛けられて平気な人間がいるかよ! ずっと、ずっと、心の中では誰も彼にも呪いに近い暴言を吐き続けたに決まってるだろ! それを言わなかっただけの人生だ。私の事だから。私だけが我慢をすれば、私が救われるから! ただ、それだけだ!

 でも、今は違う。

 私だけじゃない。

 この女は、フィンに迄。

 私が我慢をすれば。それだけでは済まない話にしたのだ。

 恐怖よりも、痛みよりも、何よりも。

 フィンに対しての気持ちが、私の中で優った瞬間だった。


「退けよ! ブスっ!」


 そして、それは同時に私が暴力への恐怖に打ち勝った瞬間でもあった。

 私は、女の首に絡めた指先に力を入れる。


「五月蝿いって言ったでしょ?」


 怖い、痛いの未知なる感情で支配されてた思考が、徐々に溶けていく。


「お前が私をいつでも殺せるように、私だってお前をいつでも殺せるんだ。口を慎め、愚民女」


 私が睨みつけながら低い声で脅せば、女はビクリと体を震わせる。

 矢張り。私はその女の動きに、目を細めた。

 思考が正常に戻ってきた事により、少しは冷静に状況が判断出来る様になって来たようだ。


「お前、王子を殺す為にここに来たんだな?」


 沸き立つ憎悪のお陰で、この女はよく私に色々な事を教えてくれた。

 一体、傲慢なのは何方なんだか。


「アンタ、何者だよっ!」

「質問は此方がしている。お前に私に聞く権利は無い。いいから早く答えろっ!」


 私が指に力を込めると、今度は女の方が悲鳴を吐き出す。


「キャアァ! やめて! 殺さないでっ!」


 その汚い命乞いを聞きながら、私はため息を吐く。

 この女の暴力は実に様になっていた。

 私は特に格闘技と言うものに喧嘩と言うものにも疎いが、人を殴ったり蹴ったりする事は思った以上に難しい。

 多分、フィンの様な運動神経がいい人間ならば本能的に出来るかもしれないが、私の様に天性の運動音痴には何の知識もなく人を殴る事は出来ない。殴れたとしても、私も痛がれば彼女の様に連続した攻撃は不可能である。もとより、多分パンチは当たらないだろう。

 私程ではなくても、普通の運動神経を持った人間だって私と似た様な状態にはなるだろう。

 でも、この女は違う。何というか、熟れていた。

 暴力が日常の世界に生きているのだろうか? いや、それとも、フィンの様な運動神経を持ち合わせているのだろうか?

 しかし、答えは何方も違う。

 この女は、素人だ。

 暴力の方法も、誰かに習ったもの。

 その証拠に、自分が受ける暴力には酷く弱いし、それこそ私と同じ反応を返してくる。また、運動神経が良ければ、今こんな状態になっているわけがない。実に簡単な話だ。


「答えたら、殺さないでやる」


 最早何方が悪役か分からない言葉を私は彼女に与えた。

 それにしても、素人が何故、こんな真似を?

 いや、こんな事を計画できるのだ?


「お、王子様を殺す事なんて、出来るはずないわよぉ!」

「なら、お前が先程行っていた言葉は嘘か? お前は私に嘘偽りを告げたと?」

「そうだよ!」

「なら、その言葉が偽りかもしれないな?」

「やめてっ! やめてよっ! 答えたら助けてくれるんじゃなかったの!?」

「嘘偽りは、答えじゃないだろ?」


 可笑しい。

 全てが可笑しい。

 やっと、普通に頭が動くようになってきたら首を捻ることばかりが続く。

 まず、フィンだ。

 こいつ相手ならフィンは負けないだろう。そして、この女と同等の強さを持つ仲間がいた所で、フィンであれば二人ともここを通すわけがない。

 しかし、こいつはフィンをすり抜け、ここまで来た。でも、この女の言い分を信じるのであれば、フィンはその時はまだ倒れては居ないのだ。

 それはつまり、フィンはこの女の仲間一人の相手にいっぱいいっぱいとなっていると言う事になる。

 まずはそこだ。何故、それ程強い手練れをこの素人が連れて歩けるのか。

 次にこの女の言動。

 残念な事に、動機は誰よりも分かりやすい。メイドを騙った貴族である私に対しての殺意。そこから推測するに、この女は随分と貴族達に恨みがある様だ。

 しかも、貴族であれば誰でもいい。

 これなら、王子を暗殺する理由も分かるし、私を憎む理由も実に納得する道筋だが……。最初の事件であるアリス様を狙う理由がないのだ。

 同じ貴族ではない階級にいるアリス様に対しての、理由が。

 ならば、やはりこの事件は別々の事件ではないかと言う可能性もあるが、それこそ、今が繋がらない。

 王子は、偶然に倒れたのだ。偶然の産物で、このタイミングが産まれたのだ。

 だから、犯人はここを狙った。もし、違う事件であれば、このタイミングを知る事は愚か仲間まで用意して乗り込んで来れるはずがない。

 今、ここにこの女がいると言う事は、この女は明らかに一連の事件に関与している。その証拠でもある。

 でも、ここでまた一つの疑問が浮かび上がるのだ。

 犯人は随分と頭のキレる奴であり、何重も先を読む。

 しかし、今目の前にいる女はどうだ?

 明らかに、私達が思い描いた犯人像とは異なる人物ではないか?

 プロファイリングが失敗する事なんてプロでもあるんだ。素人なんて、成功する方が難しいだろう。でも、今までの事件はそうでないと説明がつかない。

 最早、犯人の賢さを測るのはプロファイリングではない。凶器の選定の方が近いぐらいだ。

 この女は、私が貴族だと言うだけで自分の感情を優先させた。

 少なくとも、犯人は自分の感情をコントロール出来ない奴ではない。そう無ければ、わざわざ無関係な事件を起こすものか。執拗に駆られるのならば、一つのターゲットに的を絞るだろうに。

 じゃあ、この目の前の女は何なんだ?

 こいつが王子を殺そうとしているのは明白だ。それには、毒茶事件が結びついてくる、毒茶事件の背景には、アリス様が絡む。

 この女が入り込んだのは、何処からだ?


「答え難いのならば、私が質問を変えてやろう。お前は、何故王子を殺そうとしている?」


 お前は何処からだ。


「それは……」


 何処から入り込んできたネズミだ。


「私は……」


 言え。答えろっ!

 その時だ。カンっと、シャーナ嬢が隠れていたロッカーから物音が聞こえる。

 しまった。まさか、シャーナ嬢にも、何か!?


「きゃあっ!」


 そう思った瞬間、女は私の体を押し上げて床に転がったナイフを拾い上げる。

 シャーナ嬢に気を取られた隙を狙われたのか。


「近づくなっ! 近づいたら刺し殺すっ!」


 女は私に刃物を向けて大声を張り上げて脅してくる。

 暴力も痛みも怖い。

 怖いが……。


「刺せばいいだろっ!」


 どうせ、黙って自分を守っていても、刺してくるんだろ!?

 だったら、こっちから行ってやる!

 私が女に向かって飛びかかると、女は一瞬怯んで私を避けた。

 反撃を返してくる程、心に余裕はないらしい。

 逃げ回る様に部屋を移動しながら、私にナイフをちらつかせるだけなのがいい証拠だ。

 矢張り、この女の言動、どれも相手が反撃する事を視野には入れていないものばかり。


「来るなって、言ってるでしょ!?」

「私も、嫌だと言ってるだろ!」

「アンタ、一体、なん……」


 その時だ。

 不自然に女の動きが止まった。

 一体、何がどうしたんだ。

 私が考える間もなく、女はニヤリと笑って私の方に走ってくる。

 気でも狂ったか? だが、いいチャンスだ。向こうから来るなら、必ず捕まえてやる。刺さった所で、どうだと言うのだっ!

 そう、思っていたのに。女は事もあろうか私を交わす様に走っていく。

 何だ? 逃げる気か?

 しかし、すぐさまその能天気な答えが間違っている事を私は知る事になるのだ。


「動くなっ!」


 私が振り向けば、女は大声を上げる。

 だから、お前の言い分に私が乗るわけが……。


「シャーナ様……っ!」


 私は、思わず女の言葉通り動きを止めた。


「ローラ様……」


 そこには、女にナイフを突きつけられたシャーナ嬢が、立っていたのだ。


「アンタが動いたら、コイツを殺すよ!」

「ローラ様、ご、ごめんなさいっ」


 どうやら、私に権勢逆転の才能はない様だ。






_______


次回は6月3日(月)22時頃に更新予定となっております。お楽しみに!

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