この金の使い道

紺野透

本文


 その日は仕事から早く解放された。終電より前の電車をホームで待つのは、実に久しぶりだった。そこらは勤め人や塾帰りの学生で溢れかえっており、繁華街というに相応しい混雑だった。人混みは嬉しいことではない。だからといって、嫌というほどでもなかった。ただ、いつもとは違う駅に来たみたいで、どこかそわそわした。今日の相手も、普段はこういう時間にこういう駅で、電車を待っているんだろうか?

 俺の仕事というのは男との援助交際であり、それはもちろん非公式なものだった。組織に所属せずに、適当に掲示板で依頼を見繕っている。売上をピンハネされないし、予定もそこまで縛られないが、そのデメリットとして相手にも外れが多い。今日のもそうだ。俺と駅前で落ち合って、じゃあその辺のホテルに入ろうかというところで、男は鬼のような形相の女に腕を掴まれた。男が振り返った途端、面白いくらい一瞬で顔面蒼白になったので、俺は大変白けた。絡んで繋いでいた左手の指輪跡には気が付いていたが、指輪を外す時に、きちんと家内への誤魔化しも用意すべきだった。たちまちその場は修羅場と化し、化粧を崩して泣く女と、土下座する男、そこに挟まれて行き場の無い俺、という構図になった。こういう時、下手に男の肩を持っても金は貰えない上、なお巻き込まれることはよく知っていたので、俺は早々に見切りをつけて退散した。

「今日のお代はいらないんで、ごゆっくり」

 今日のお代ってどういうこと、と背後で女がヒステリックに叫ぶのが聞こえた。

 迂闊な男は好きじゃない。どんなに不都合でも、堂々とした顔でしれっと適当に受け答えしていれば、すんなり収まる場合もある(もちろん収まらないことも多いが)。そも、土下座までして謝るのが気にくわない。あの男は、そんなに悪いことをしたと思っているんだろうか? 金を払って俺と遊ぶのは、そんなに不潔か。面と向かわずに汚い仕事だと言われると、気分が悪くなる。

 まあ、もう二度と会わない奴のことなど、どうでもいいが。


 そんな訳で、俺は夕刻のホームにいた。明るい緑色をした電車が、大量の乗客を吐き出したり飲み込んだりするのを眺める。行く当てがなかった。今日はホテルに泊まる気だったので、この時間に放り出されてもやや困る。さっきATMから金を降ろしてきたから、このままどこかで買い物するのもいいが、特段買いたいものがなかった。

 よく驚かれるが、俺は金に困って援交している訳じゃない。もちろん、常に懐が暖かい訳でもないが、金がダブついて持て余す時もある。それなら男を引っ掛ける必要もないのだが、こういうのはいつでも仕事歓迎なのが大事だ。やりたい時にすぐやれる、連絡がつく、そういう実績が重宝される。これは趣味ではなく仕事なので、俺は評判にも気を払っていた。金が余るのは、安定して仕事を入れるための俺の涙ぐましい努力の結果だ。

「どうしたもんかな」

 どこかで適当に散財したかった。

 俺は仕事こそすれ、貯金はしない主義の人間だった。口座は、ごくまれに振り込まれる金を受け取る以外に使っておらず、記帳もしないから残高もよく把握していない。財布に詰まった万札しか正確なことがわからない。だが、万札が十枚以上あっても余計だということはわかる。ワンランク上の生活をするには足りず、一般的な成人男性の生活をするには余る額だった。

 いい酒やいい肉でも買ってみるか?

 普段はこんなこと考えもしないのだが、レジ袋を抱えた主婦や親子を見ていると、自然と思考が引きずられる。

 しかし、自分で即座に却下する。俺には明確な家がないので、生活用品を買う必要がない。従って、調理のいる食材を買うこともない。封の開いたボトルをしまっておく冷蔵庫もない。そんな買い物を最後にしたのはいつだったか。何より、それらの食事を、共に飲み食いする人間がいない。

 この生活を始めてから、プライベートで誰かと会うことはなくなっていた。自由時間くらい一人で無表情でいたいからだ。ネットカフェの二人部屋を一人で貸し切って、ぼんやりとディスプレイを眺める。そのまま適当に寝落ちる。今日もそうだろうか。

「……やめやめ」

 それなら今日は少し良いホテルの広い部屋に泊まって寝よう。

 余った金は、そうして無意味に広い部屋に消えていくのが常だった。



「……隼人さんは、どうしていつも人が寝ようと思った時に呼び出して来るんです?」

「逆に、お前が寝てる時には呼んでないことを褒めろよな。だいたい、お前が早寝すぎるのが悪い。まだ九時だぞ」

 帰宅ラッシュもピークを過ぎ、人が減り始めたかという駅前ロータリーで、俺はそんな雑談を交わした。男の名前は宮田翔。最近見つけた、風変わりな男。翔の鈍い赤の原付が、丁寧に路肩に停められている。

「そりゃあ、大学生としては早寝だと思いますが、悪くはないでしょう」

 揃いの赤いメットを抱えながら、翔はそう語る。その表情に、苛立ちや不満は見受けられない。かといって、客のような喜びや照れもない。日常茶飯事でもこなすような風だ。

「いいや、悪い。不満漏らすなら迎えに来なきゃいい」

 そう突っぱねると、翔は特に言い返して来ることもなく、俺に予備のメットを渡して来た。こちらは翔のものよりも、黒が強調されたデザインだ。黒地に赤のラインが入っている。翔のバイクに乗る時は、いつもこちらを渡される。俺用という訳ではなくとも、今の所俺しか使っていなさそうだった。

「それにしても、今日は荷物が多いですね」

 翔が俺の手に収まらない荷物をしげしげと眺める。スーパーのLサイズのレジ袋がはちきれんばかりになっているほか、家電屋の段ボールまであるからだ。俺はいつも身一つで行動しているから、こんな大荷物があるのは俺だって初めて見るし、翔にも初めて見せる。

「何をそんなに買ったんですか」

「なんだと思うよ」

「……ちょっと、想像がつかなくて……」

 積みきれるのか、怪しいものではないか、と心配する翔をよそに、俺は無理やり荷物を原付の後部にくくりつけ、ネットをかけた。積載量としてはかなりギリギリだが、丁寧に走れば落ちることもないだろう。警察には文句を言われるかもしれないが。俺はとっとと後部座席に座って、前のシートを軽く叩いた。早く出せのサインだ。

 少し不安げな表情を残したまま、メットで翔の顔が隠れた。俺もそれに倣ってメットを被る。翔の胴に背後から掴まると、そのままバイクは静かに路肩を離れていった。すーっと滑らかに加速していく。頰を切る風が髪を揺らすのが、存外心地よかった。


 翔のマンションに着いた頃にはもう十時を過ぎていた。辺りも人通りが少し減って、住宅街を走ると単車の走行音が鮮明に聞こえた。駐車場からエレベーターで、翔の部屋があるフロアまで直通で上がっていく。相変わらず、大学生には似つかわしくない、新築のマンションだった。駐車場にある車を見ても、そう思える。いくら大学に近いからとはいえ、こんなしっかりした所に住むだろうか。俺が大学生だったら、多分そうはしない。

 玄関の電子ロックを開けた翔よりも速く、俺はその隣をすり抜けて靴を脱ぎ散らかし、躊躇なくリビングに入って行った。後から翔が、玄関に鍵をかけ、靴を揃え、段ボールを抱えて着いてくる。俺はテーブルにレジ袋の中身をあけている所だった。

「肉、酒、酒、つまみ、肉、つまみ、……」

 ものの見事にそれしかない。適当に値段だけで決めた肉と酒が机上で所狭しに並ぶ。素人目にもわかる霜降りだ。日本酒からワインまで買ってきた酒の内のどれかは、そんな重たい肉料理にも合うだろう。つまみも酒の量に負けていない。

「随分買い込みましたね。これ夕飯ですか?」

「ああ。もっとも、これを夕飯にしてくれるのはお前だけど」

「そうだろうとは思ってましたよ」

 翔がカフェエプロンを取りにいく。その間に俺は段ボールも開封する。中から、ワインレッドのコーヒーメーカーが顔を出した。大きさも重量もなかなかのものだ。さぞ美味いコーヒーを抽出してくれるのだろう。スーパーのワンフロアで見かけたから、金に物を言わせて買ってきた。翔もコーヒーは飲むし、そこまで無駄にもならないだろう。俺はキッチンをうろつき、レンジの横のスペースにそれを設置した。

「わ、なんですかその仰々しい機械は」

 干していたのだろうエプロンを取ってきた翔が帰ってきた。まな板を用意しつつ、横目でこちらを見やる。

「コーヒーメーカー」

「はあ。また唐突な」

 パックから分厚い肉を取り出しながら、翔は真新しい機械を眺め、おおよそ把握すると肉に向き直った。

「お前にこれやるから、ここ置いとけ。豆も買ってきた」

 振り返ることもなく、翔は肉に下味をつけながら返事をよこす。

「そうやって、俺の家に色々増やしていく気ですか」

 相変わらず、困惑も焦りもない声で、翔はそんなことを尋ねた。本当にこいつは、自分の生活領域が書き換えられることに抵抗がないようだ。人間として信じがたい。そのお陰で俺がこうして入り浸っていられる訳だが。

「俺が自腹で買って、プレゼントしてやってるんだよ。お前の家なんもないし」

「家自体ない人がそれを言うんですか」

「家がないのと、家があるのにロクに物がないのとなら、後者の方が問題だろ」

 キッチンから撤退しながら、そんな会話を交わす。実際、翔の家は生活必需品しかない。余分なもの、なくてもいいものは全くないのだ。モデルルームのような、ある種殺風景な部屋だった。

「コーヒーメーカーはなくても生きていけます」

「そういうのが人生から楽しみをなくしていくんだよ」

 四人は座れる大きめのソファーで、俺は足を伸ばした。一人なら横になっても平気だ。これも俺が注文した。

「いいからありがたく受け取れ」

 年上らしくそんなことを言っていると、返事の代わりに、肉の焼ける華やかな音がした。恐らく二人分焼いている。二人分なんてゆうに超える量を買ってきたから、何人前焼こうが問題ない。翔はすでに夕飯を終えているものと思ったが、高級霜降り肉を前に、俺の分だけ焼くなんて出来なかったのだろう。肉体は健全な男子大学生だ。そして多分、これから肉と酒を味わい、つまみを食っているうちに、日付なんて変わっているだろう。今日は土曜日だから、翔を夜更かしさせても何ら問題ない。俺も明日は仕事がない。だらだらと飲むことにする。そして翌朝の朝飯兼昼飯で、ドリップコーヒーを嗜むのだ。

 それでふと気づいた。こんな時間を誰かと過ごすのは、随分久しぶりだ。いや、初めてかもしれない。酒を飲める年齢になる頃には、ネットカフェを転々としていたから。

 そこに感傷や恋愛感情はなかった。ただ、ダブついた金の使い道が、一つ増えただけなのだから。

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