第3話

 子どもと別れた母親は、修道女となる前にみじめな病人として、修道院の一角のホスピスの寝台の上で寝かされていた。

 当初の予定では、ブルターニュ創設7聖人の墓参りの巡礼の旅をし、最後に夏に半島の東部で行なわれる、パルドン祭―犯した罪が許される祭りである―で夫への罪を許してもらってから、修道院に入る予定でいた。が、旅の途中で倒れ、半島西部の海辺の女子修道院のホスピスに収容されてしまった。

 亜麻の下着姿で寝台の上で寝ていた彼女は月経血が1月以上も止まらなかった。月経血が止まると今度は肛門と尿道からも出血し、やがて再び月経がやって来た。

 出血のため、彼女は修道院の生活に入れない。     

 彼女は福音書にある、長血の女のことを思い出した。月経がずっと止まらなかったというこの女性は、救世主の衣服に触ると止まったという。

「あなたは理解を間違っています。救世主はこのとき言いましよ。『あなたの信仰が病を癒した』と。あなたの場合は、信仰が足りないから月経が止まらないのですよ!」 

  修道女の1人が彼女を叱る。

(私は本当に信仰心が足りない……全くない)

 と彼女も思う。

 彼女の胸中をよぎるのは、例の主任司祭への不信感であり、自分が我が子をCagotsの一家へ渡したことへの罪悪感であった。

 彼女はあの子どもを7年間、夫と共に育ててきた。手間のかかる子であり、時にはいらだつこともあったが、主婦としての誇りから、子どもを飢えたり病に伏せることがないよう、いつも気を配っていた。その間に育まれた愛情は、子どもとの普通でない別れを、いっそう悲しいものにさせた。

 本当にあの子が亡き夫の子ではなかったのか、彼女は疑問であった。確かに夫も、他の子ども達の兄弟姉妹も死んだ。が、特別変わった病気ではない。彼女はあの子を自分の父母にも会わせ一緒に食事をした。父母も自分の兄夫婦も甥姪も特別に変わったことはなかった。敢えていうなら彼女の父親が、彼女の結婚後にリンゴの木から落ちて死んだが、それがCagotsと関係があるだろうか。

 もし手離した我が子が実はCagotsの子どもだったなら、夫も他の子ども達もそれにふさわしい奇妙な重篤な病気であるべきだと、彼女は考えていた。

 彼女にとって恐ろしいのは、あの子どもは間違いなく夫との子でありながら、主任司祭の判断の過ちで、Cagotsに引き取られたために重い病に罹っているだろうということであった。死に瀕しても司祭から病者の塗油さえされずにいたのだと想像すると悲しく悔しかった。

(やめよう、こんな考えは。私はキリスト教徒なのだ……神の御言葉以外に信じるものはないのだから……。私は夫を裏切った女なのだから)

 彼女は悲しみの中から、悔い改めようとする。自分は夫にこの穢れた身体を与えてしまった。煉獄にいる夫は、この真実を知り、どれだけ今、苦しんでいるだろうか。懺悔しよう。罪深い私の全てを晒そう。彼女は寝床の中で、そう考え直す。しかし、やがて感情の激しい渦が彼女を襲い、彼女の思考はまとまらなかった。

そしてもしあの子がCagotsの子どもであっても、7年間育てた子、Cagots仲間にいじめられていないか、道徳的に堕落していないのか、気になるのである。

(私は神様を信じられないけれど……どうか、あの子は信仰だけは持っていますように……)

 離れて暮らす子どものことを祈った。


 この時代、母親の地位は低かった。

 聖母は篤く信仰されていた。しかし、それは処女の清潔な身体で身籠る奇跡を果たしたゆえであり、聖母崇拝が一般女性の母性と同一視されることは、あり得なかった。

 母親達は、絶え間のない家事と労働と出産と育児に追われていた。しかし今日のように5月の第2日曜日に自分の母親に日常の感謝のための、花束を贈る習慣など、誰も思い持つかなかった。尊敬し従うべきは神であり、その一つ子の母、聖母であった。

 世の中は母親達に、献身的に忍耐強く愛情深く子ども達を育てることなど期待していなかった。母親達は自分の子どもが早過ぎる死を迎えても、それは神の御心による運命だと諦めるしかなかった。

 だから彼女のどうやら我が子を失ったらしい悲しみ方は尋常でなく、信仰心篤い修道女達には、神の御心を蔑ろにする、不信人者にしか見えなかった。

 

 季節は彼女が村を離れた冬から、春、そして夏へと向かっていた。

 修道院が所有する大麻畑やネズミ麦の畑から緑の香りが彼女の病室へ入って行く。食事に出る酒はリンゴ酒からいつの間にか蜂蜜酒に替わっていた。

彼女は早く全ての罪を懺悔し、清貧と貞潔、そして従順の誓いを立て、俗世の権利を全て放棄し、使徒職に従事したかった。だが彼女の長血はまだ少量ながら続いている。

 毎日、修道女達は交代で、彼女の経血が続いているのか、あるいは月経を口実に宣誓を先延ばし延ばしにして修道院の施しをただで受けようとしているのか、調べに来た。

 彼女が活力を取り戻し、悲しみから解放されたのは、そんなある修道女の一言がきっかけであった。

「ねえ、東洋人や黒人は、自分の子をお金のために奴隷として商人に売るのよ、知っている?」

 それを聞いた彼女は驚いて首を横に振った。教皇が、東洋人も黒人も、いわゆる新大陸に住む者でさえ『間違いなく我々と同じ本物の人間』と宣言したことは知ってはいたが、そのこと自体、彼女には驚きだった。この世にキリスト教と全く無縁の人間がいる?   単なる異教徒ではなく、本当に救い主の御言葉を聞いたことも読んだこともない人間が、神や教会と関わりのない人間がいる? その人達もアダムとイヴから生まれたの? すぐには受け入れられない思いであった。

 修道女は小声で言葉を続けた。

「自分の子どものことを、家の働き手ぐらいにしか、考えていないのよ、あの人達は。それで暮らしが苦しくなると家の働き手だった自分の子どもを家畜のロバみたいに売るのよ。恐ろしいでしょ?」

 彼女は信仰のない人間の行為におぞましい気持ちを抱いたが、一方では私はそうではなかったと、自己を肯定する気持ちも芽生えてきた。

 夫を失い、死去税の支払いもあり、彼女は夫の残した寝台や衣類なども売らず得なかった。だが、あのCagotsに金で我が子を売るようなことはしていない。世の中には奇形児を医者や見世物に売る、キリスト教徒の親もいるらしいが、自分はそれすらしていない。

 とにかく母親は

(私はお金で自分の子を売ったのではない)

 という事実によって、自信と誇りを取り戻しつつあった。


 母親だった彼女の、修道女としての生活が始まった。

 彼女は修道院の生活をかつては特別なものと考えていたが、実際に女子修道院に入ってみると、あっけないくらいに農村の暮らしとあまり違いのないのに戸惑った。名前が変わるわけでもなく、農村で着慣れた黒の衣装を着る。親子関係や夫婦生活がないだけで、《祈りと勤労の生活》は、農村生活の世俗と大きく変わりはないのだ。

 修道院や女子修道院は、広い農地を所有し自給自足の生活をしていた。いや、農業技術の発達により、余剰生産もあり、修道院自体が1つの経済活動を行なう事業体でもあった。

 修道女になる女性には、孤児院からやって来た、貧しい捨て子や婚外子の身分の女の子がそのまま大人となり老女となった者もいたが、一方では生活できなかった寡婦や父親や兄を亡くした娘や、何だかの理由で結婚できなかった女性も大勢いた。みんな世俗では罪を犯したとされ、女性の女子修道院長に懺悔をした者ばかりだった。

 夜明け前のミサを終えると、使徒職と呼ばれる労働を行なう。

 ボカージュに囲まれた広い農地は夏の光景になっていた。蕎麦は早くも実を結び、亜麻は青い花を咲かせていた。飼料用のネズミ麦も収穫のときを迎え、大麻は人の背よりもはるかに高くなっている。

 農民出身の逞しい身体を持つ彼女は、早速、大麻刈りの仕事があてがわれた。

 彼女は大麻の仕事には慣れていない。村では女が亜麻の刈り取りを、背の高い大麻は男手でやっていたからだ。夫が亡くなってからも村の男達を雇って大麻刈りをしていたのだ。

 他の女達は生き生きとして働いている。男のいない世界、そして税を取る領主のいない世界で、全ては女達が話し合い、計画を立て、決定し、実行していた。修道女達は急速に自主性を身に着けていった。

 修道院内では「沈黙」が重要とされていた。そのことも彼女には気が楽であった。

 実際、修道院に入る女性達は人に言えない事情を抱えていた。この世の罪を懺悔し終えた彼女達は、身の上話や噂話を好まなかった。

 肉体労働の使徒職の者は、自由に乳飲料や、薄い蜂蜜酒が飲めた。大麻の仕事をする修道女の中に、アルコール依存症めいた女がいたが、その女は大酒を飲みながらも働き者だった。

 そして新入りの彼女も力いっぱい使徒職に励む。大麻の葉を落とし刈り取り束ね運び、大釜で茹でる。夕方の祈りの頃には、彼女の腕や脚は痛んだ。正式な食事は昼の正餐だけで、朝夕は練った蕎麦粉と薄めた蜂蜜酒、あるいは有塩バターを作ったときの副産物であるレ・リポなどで済ませる。そんな軽食のときにも食前の祈りは行なうのが修道院の流儀であった。彼女は修道院の生活に慣れて来た。

 生垣にあるアンズや平べったいモモの実は、今が食べ頃とばかりに枝に輝いている。道沿いには旬の野アザミも育っていた。

「大丈夫よ。あの果物は日曜日には食べられるのよ」

 と修道女の1人が小声で教えてくれた。

 そして待ちに待った日曜日、果物に蕎麦粉や米粉、無発酵の牛乳、鶏卵、そしてショウガやシナモンや砂糖などの香辛料―この時代、砂糖は香辛料と考えられていた―の入った粥が、正餐に用意された。野アザミはリンゴ酢と塩で茹でて、有塩バターをつけて食べると美味しい。

 日曜日は簡単な家畜の世話など、最低限の労働しか行わない。聖体拝領と正餐以外の時間は、祈りに使われる。彼女は眠くて疲れてたまらなかったが、次第に神の御定めを感謝するようになった。別れた子どものことも、神に運命を委ねる気持ちへと変わっていった。


 季節は初冬へと移って行った。リンゴの収穫やリンゴ酒の仕込み、そしてクルミやクリの実拾いや茸狩りと忙しい。

 彼女は大麻を足踏み式の糸繰り機で撚ったり、大きな機織り機で両腕を忙しく動かして帆布を織ったりした。村にいたときは夫が帆布織りをやっていた、力のいる仕事である。

 修道女達の中には亜麻でレースを作る者もいる。1人、ほぼ盲目の修道女がいた。彼女は若い頃からこの修道院でレース作りの仕事をしていた。亜麻糸を髪の毛のように細く撚り、繊細に織った亜麻布に細い針で刺繍を施しカットワークをして仕上げる。その修道女は目を傷めてしまったが、指先でレースの模様が分かるという。新しく入って来たボビンレース作りの講習もある。フランス国王はレース作りの技が盗まれないよう、レースの使用は貴族階級に限らせ、輸出を厳禁していた。今の王妃様はヴェネチアからお輿入れされ、手芸やお菓子に造形が深いらしと、修道女達は密かにそして華やいだ気持ちで噂をしていた。

 だが彼女は地味な帆布作りの仕事に感謝した。彼女は、この帆布が海の船乗り達に使われ、海の彼方の大陸へ行き、やがて救世主の御言葉を述べ伝えるのに使われるのだと思うと、この使徒職に感謝をせずにいられなかったのだ。

 

 彼女はクリスマスが近づいてきたと感じている。この前も蕎麦粉と小麦粉を蜂蜜で混ぜて、リンゴ酒種とたくさんの香辛料、そして木の実を加えた、パン・デピスというクリスマスのお菓子の仕込みをした。

 肉のほうはどうするのだろうと、彼女は思う。鶏など家禽を絞めることなら家庭でやっていたが、仔牛や豚も女の力だけで行なうのだろうか?

「その仕事はね、Cagotsがするのよ」

 1人の修道女が声をひそめて教えてくれた。

「Cagotsが?」

 彼女は意外に思った。この修道院にもCagots専用の入り口があることを彼女は気づいていたが、それは屋根や石垣を直すためにやって来るCagotsのためのものだと思っていた。肉など捌いて自分達は病気にならないだろうか?

「あそこにCagotsが仔牛を屠殺する場所があの。専用の水場もあるわ。Cagotsは決して肉には触れないで仔牛を潰すのよ」

 ある日、彼女はこっそり持ち場をぬけだして、その様子をみた。

 村にいたときは、父親や夫、近所の手慣れた男達が仔牛や豚を屠殺して捌いていた。彼女にとって屠殺は珍しいものではない。

 しかし、Cagotsがそれを行なうとすれば不安ですらあった。

 Cagotsの男達や少年達は赤茶色の服を着て、牛に縄を使って牛の自由を奪い、器用に斧を牛の首に当てた。そばの垂木に吊るし、肉には触れずに皮を剥がしていく。そして頭部を外し、縄をつかんで木の台の上に牛の身を置いた。豚も同様に器用に屠殺した。

「皮はね、あの人達の取り分になるのよ」

 教えてくれた修道女が小声で伝えた。

「豚は私達で腸詰やハムにするわ。そうでないと食べられないもの」

 修道女は小声で笑った。

 

 クリスマスが始まった。一晩かけてミサを行ない、翌昼に正餐が始まる。いつもの野菜と蕎麦粉の煮込みにはじまり、さまざまな料理が作られ食べられる。ほとんど乳で育った仔牛の肉は美味しく、おそらく現代人が食べれば「黒毛和牛を飼っているのか」と聞きたくなるほど柔らかくて甘い。牛の舌のパテやレバーのペースト。ガレットに包んだ燻製の豚肉。次々と料理は出て来る。もちろんリンゴ酒やレ・リポもある。宴会は沈黙を持って静かにしめやかに行われる。

 そして日が沈み、パン・デピスが食されると、宴会は終わる。祈り、いつも通りの時間に就寝する。

 翌日も、俗人のように飲み食いに明け暮れない。規則正しい生活に戻り、日曜日以外は使徒職に明け暮れる毎日となる。

 彼女は、昨年のことを思いだした。

 彼女が嫁いだ村にはなぜか焼き菓子屋がなく、昔ながらの、司祭達男性聖職者の手によって宗教上の菓子が焼かれる。彼女は司祭のことを悪く思っていたが、考え直すと親切で気さくな方だった。

 それにしてもCagotsの者達にもクリスマスや公現祭、そして復活祭のお菓子を売ってもらえるのか、村にいたときには気にもとめなかったことが今は悲しく思われる。異教徒ではないCagotsへの冷たい待遇が、彼女には神の御心だとしたら奇妙な気持ちになっていた。—いつかホスピスで働いて、病めるCagotsを救いたいと、彼女は考え始めていた。

 

 翌年になり1月6日の公現祭―東方の3博士が幼子だった救い主に会う日。なお東方の3博士の内、1人は東洋人、1人は黒人だとされているのが、彼女には不思議だった―の日が近づいてきた。この日のためには、スコーンを大きく厚くしたようなパンを、蕎麦粉と小麦粉を使って重曹で膨らませて焼く。焼き上がったパンには切れ込みを入れ、濃い生クリームに煮たリンゴを混ぜたものを挟んだり、あるいは新鮮な柔らかいチーズに木の実を混ぜたものを挟んだりする。それぞれのパンには、1粒だけのソラマメも入れて置く。ソラマメ入りのひと切れに当たった者が宴会の王様・女王様になれるという、今日の《王様のお菓子》のような食べ物である しかし、修道院で作るそれには、ソラマメは入れない。

「当然でしょ?」  

 と、先輩修道女がひそやかに、くすくす笑いながら言う。ここは女子修道院、神様以上に尊い御方はいないのだ。

 そしてお菓子を食べているときすら「沈黙」を守らねばならない。


 四旬節は《灰の水曜日》から始まる。

 キリスト教において、春分の日から後の満月の夜の次の日曜日が、十字架に架かって処刑された救世主にして神の子イエスが、墓場から復活した日とされている。《灰の水曜日》は、その復活祭より46日前の水曜日となる。

 《灰の水曜日》には、前年に飾りに使った、輸入もののナツメヤシの葉を燃やした灰で、女子修道院長が修道女達の額に十字架の形に塗る。 

このとき女子修道院長は「あなたは単なる土くれから生まれ、やがて灰になる」と唱える。

 彼女は、やがて若さも体力も衰え、灰となっていく自分の身を思った。

 《灰の水曜日》以降は全くの菜食となり、1日1回の練った蕎麦粉と野菜の煮込みだけが口にするものとなる。味付けに有塩バターすら使われない。できあがった豚の腸詰やハム類もお預けだ。ただし毎週金曜日には、いつも通りに必ず食されていたイワシの料理が出る。

 《灰の水曜日》以降の四旬節は、労働をしない。祈りと聖なる読書の日々となる。

 四旬節のときには煌びやかな衣装をまとった男性の司教からの講話や、文字がよく読める修道女による聖書の朗読が行なわれる。

彼女は「福音書」、そして「ヨハネの黙示録」に描かれた《神の御国》を想った。

《神の御国》には《海》がない―なぜなら反・救世主は海から現れるから。そして御国には夜も太陽も月もない―神の栄光が照らしているから。死も悲しみも叫びも苦しみも呪われる者もない。

 死者は墓場から蘇り、天使が義人の中から悪人を選び、悪人は火の中に投げ込むという。

 金持ちが御国に入るのはラクダを針の穴に通すことより難しい。自分を低くする者が天国への門を潜る。御国ではもはや嫁ぐことも娶ることもない。

もし御国で夫と会えても、この世でのその人として再会することはないのと聖書には書いてあった。

 

 ある夜、彼女は不思議な夢を見た。

 彼女は天使と共に青い空間を飛んでいた。天使とは大人の男性だと聴かされていたのに、夢の中の天使は子どものようだった。5人の天使はどれも亡くなった、あるいは別れた子どもに似ていた。しかし子ども達は彼女をもはや懐かしげに見たりしない。

 天国には毎月ごとに果物の実がなる樹木があって、その実を食べると病気が癒えるという。別れた子ども達は天国の果物を食べて病気が治り、あるいは生まれつきの病気がない姿になっていた。あのCagotsの子どもも、美しい子どもになっていた。

 彼女は夢とも現実とも分からない世界にいた。―もし御国で我が子と再会しても自分の子ども達だともはや分からないでしょう。それでも構いません。我が子達には御国へ入ってほしいと。

 子ども達は御国へ行ける義人であってほしい、いや義人である筈だ。なぜなら私が育てた子ども達だから。あのCagotsの子どもだって7年間手元で育てた。きっと御国へいける義人であるはずだ。

 そして彼女は祈った。―早く御国が訪れ、病む者も飢える者もない世界、平穏で静かな地上が実現してほしい。苦しめられたり貶められたりする人がいない、誰もが温和な義人である世界が幻でなく、早く実現してほしいと。

 

 ※―※—※—※


 この物語からおおよそ70年後、時のローマ教皇は、異教徒の飲み物だったコーヒーに《洗礼》を施してキリスト教徒がコーヒーを飲用することを公認した。コーヒーは、ワインやリンゴ酒に代わってアルコールを含まない《健全な飲み物》として、当時の教養階級に普及し、それと共に甘い菓子と砂糖の需要が増えた。フランスはマルティニック島を植民地とし、先住民を虐殺し、黒人奴隷によるプランテーション農場で砂糖を作らせた。

 キリスト教ではキリスト教徒を奴隷にすることを禁じていた。そのため中世には東洋との貿易において支払うものがあまりなかったヨーロッパでは、キリスト教が普及していない土地の白人を奴隷として捕まえ東洋に売っていた。

 キリスト教が白人達に行き渡ったこの時代より西欧は、黒人達を捕らえて奴隷とした。その裏にはかくの如きキリスト教の教義の裏付けがあったのだ。

 ブルターニュ半島は、いわゆる三角貿易の拠点の1つとなり、大麻の帆布や亜麻製の布、そして綱を船乗り達に供給し、物質的にも栄えた。

 被差別者だったCagotsも、帆布製作や縄作りで黒人奴隷獲得に協力したとは、皮肉である。

 産業革命で従来の仕事を失ったCagotsの中には、新天地としてのアメリカ大陸へ移民した者も大勢いたという。Cagots達の存在は、歴史の中から消されていった。

 そして現在、ブルターニュ半島では小麦も栽培されている。今の世が御国に限りなく近いのかどうかは、断言できるものではない。

             ―了―

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ブルターニュのCagotsの母 高秀恵子 @sansango9

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