レベル二百五十

negipo

レベル二百五十

 窓から差し込んだ黄金色の光が、綾のステージ衣装に反射していた。肩のところに縫い付けられたスパンコールは、小さな黄色い星々を車内に作っている。たたん、と線路が踏まれる度に小さく揺れるそれらを、あたしは目を細めて見つめる。

「プロデューサーさんは」と綾はあたしの目の前で言って、激しいダンスで乱れた息を落ち着かせるために言葉を切った。胸に手を当てて、深呼吸する。あたしは笑って「落ち着いて」と声をかける。

 綾は顔いっぱいによろこびを浮かべて、くしゃっと笑う。

「プロデューサーさんのおかげです! ライブが成功したのも、お母さんが、あたしの曲を、初めて聴いてくれたのも」

 彼女がくるっと回ってあたしの横に座ると、とん、と軽い音がした。華やかな身体さばきが、アイドルという職業に必要な能力の高さを示している。あたしは綾の肩にかけられているタオルを手に取って、襟足とおでこを拭く。前髪の編み込みの崩れを、少しだけ直してやる。綾は小さな声で、恥ずかしそうにお礼を言う。

 汗で濡れた彼女の髪が、夕陽をたっぷり吸い込んでぎらぎらに光っていた。電柱の影は先ほどまでかかっていた曲のビートのように規則的に射し込んで、彼女の輝くような面差しは細かく瞬く。

「綾、ごめんね」

「なんで謝るんですか」綾は泣きそうな顔で言う。「セットリストの順番を変えてくれたのも、その……お母さんに今日の時間を知らせてくれたのも、全部プロデューサーさんですよね。香奈ちゃんが、お母さん来るよって、教えてくれて——」

「いいえ」

 きょとんとする綾を、あたしは見つめる。何回も繰り返したこの会話の、最後に何が起きるかをあたしは知っている。その最後までの会話の正解を、全て知っている。それでもあたしは悲しそうな顔を作って、そしてこう言った。

「イベントが無事に終わったのは、あなたが何もかもを諦めずにやってきたからよ。だけど、あなたのお母さんは、結局来られなかった」

 言葉を切って、あたしは綾を見つめる。綾は「そんなこと」と言って、涙ぐんだ。

「謝っていたわ。がんばれって伝えてくださいって。ごめんね、って」

 車両が減速して、電車が駅に滑り込んで行く準備を始める感じがした。しばらく無言だった綾が口を開く。

「だってあたし、プロデューサーさんに何回も無理だ無理だやめたいやめたいって言って、でもプロデューサーさんがお母さんのことも、アイドルのことも諦めずにやれって言ってくれたから——」

「あたしは何もやっていないわ、がんばったのは綾。あたしは綾をずっと見ていただけ。今日、すごく良かったわ。けれど、それでも、どうしても上手くいかないことはあるの」

 綾のまつげに浮いていた玉がついに破れて、頬を伝った。あたしは「何、泣いてるの」と言い、タオルで顔を拭った。綾は「はは」と笑いながらそれを受け取って、目を抑えた。車内に満ちた綾の泣き笑いの声がつらくて、あたしは目をつぶった。

 嗚咽はどんどんひどくなり、激しく響く。あたしは綾の背中に、そっと手を添える。段々と低くなっていく微かなモーター音と共に、電車はゆっくりと停車した。

 こと、と言う靴音がした気がして、あたしははっとして一番近いドアの方を向いた。

 六十歳ぐらいだろうか、鼻筋がすっと通った美しい女性がこちらを向いて、驚いた表情をしていた。

「すみません!」と言って、あたしは慌ててインターフェースを操作しようとした。

「ああ、いや、いいのよ」と言って、彼女はあたしの腕のコミュニケータをそっと抑える。

「なんとかいうアイドルのゲームでしょう、姪がよく遊んでいるわ」

「でも、本当は公共の場でプレイするのは、マナー違反なんです」

 彼女はにこりと笑って「未だにこの路線を使っている人なんて、滅多にいないわよ」と言って、あたしの隣に座った。

 あたしは気まずくなって、綾の方をちらりと見た。自動的に待機モードになった綾は、手帳を取り出して何かを書き付けている。それに書くべきスケジュールなんて、何も無いのに。

 彼女はバッグを探って、あたしに黄色い飴を一つくれた。あたしは短くお礼を言って、この人に自分が何歳に見えているのか気になってしまう。口の中で転がるそれは、甘いレモンの味がした。

「ねえ、このゲームって、歌と踊りを楽しむものなのよね」

「そうです。ライブイベントでアイドルをうまく動かすゲームです」

 あたしはレッスンモードでライブを立ち上げた。小さなダンスレッスン場が現れて、あたしがインターフェースをテンポよく操作すると、綾は一人で軽やかに踊り始める。スキルが発動して、強気な声を上げる。

「かわいいわね」

 女性はにこやかにあたしに言った。「どことなくあなたに似ている。声、髪の色、雰囲気……」

 あたしは無言で、綾をじっと見つめている。

「……ねえ、さっき、この子はあなたの前で泣いていなかった?」

「ええ、泣いていました」

 あたしは操作を続けながら、彼女に答える。「彼女はすごく明るくて、優しくて、けれども家庭に問題がある子なんです。それが強い動機となって、アイドルを続ける」

「私には分からないのだけれど、そう言うリアリティが、ゲームにも必要なのかしら」

 あたしは少し時間を置いてから、正解の会話をする。

「リアリティは必要です。どんなことにでも」

 ごう、と大きな悲鳴を上げて、電車はトンネルに入った。少し暗くなった車内で、綾は踊り続ける。


「のんちゃーん」

 ドアに鍵がかかっていないのは分かっていて、あたしはのんちゃんの家に勝手に入る。返事が無いのも分かっている。まだ仕事が終わっていない時間なのだ。

 リビングに入ると、彼女は定位置である北欧風のイージーチェアに沈み込んでいた。巨大な箱に有線で繋がったコミュニケータから立ち上がる画面は四つあり、指先が膝の上でせわしなく動く。あたしはエコバッグを台所、クラッチバッグを寝室の椅子に置いて、髪をまとめながら「コーヒー、いる?」と聞いた。

「んん」

 肯定とも否定とも取れない返事に苦笑しながら、コーヒーメーカーのフィルターを入れ替える。落ちる水滴を眺めていると、リビングに流れている曲があたしの好きな洋楽に変わったので、ボーカルに合わせてあたしは鼻歌を歌った。

 リビングに通じる狭い間口から見えるのんちゃんの横顔は厳しげだ。最近少しずつ肌の衰えと言うものを感じているあたしは、一度彼女の眉間のしわを手で伸ばそうとしたことがある。びっくりしてあたしの手を払った彼女のそれはすぐになくなってしまって、十代ってすごいなーと思ったのだ。

 そんな彼女ももうすぐ二十歳になる。

「コーヒー」

「ああ、ありがと」

 のんちゃんは浮かべた微笑みを一瞬で消して、神経質な目つきで水面を見つめながらコーヒーを飲んだ。サイドテーブルにカップを置いて、伸びをする。

「こないだとは違う仕事?」

「クライアントは同じ政府系。内容は違ってて、ちょっとセキュリティ監査っぽい感じ」

「ふうーん」

「不慣れだからチーム組んでやってるんだけど、勉強になる。今いくつか新しいツール作ってたの。藤沢さんも見る?」

 あたしは笑って「見てもわかんないよ。あたしとのチームは覚えてる?」と言う。

「ちゃんと行きたいところリストアップした? のんちゃん担当だよ。今日決めないと行き当たりばったりになっちゃう」

「あそうか……ごめん。なんもやってない」とのんちゃんは申し訳なさそうにつぶやいた。

 のんちゃんとあたしは、あるセミナーで出会って三年になるのを祝って、この週末に旅行をすることになっていた。隣の県へ一泊二日の温泉旅行を、あたしだけがひどく楽しみにしている気がして、あたしは悲しげな声で「もういいよ、シベリアに行くわけじゃないし」と言った。

「鍋、結構すぐできるけど、もう作っちゃっていいかな」

「うん! ご飯のスイッチは入れといたよ。あとちょっとで仕事も一区切り」

「よし、えらい」

 あたしは彼女の頭をくしゃくしゃ撫でた。のんちゃんは、少し不思議そうな顔をしたあとに、くすぐったがって笑い声を立てた。

 食材を一通り切って煮込み始める。アクを軽く取りながら水面を観察していると、仕事を終えたのか、のんちゃんがやってきてちょこちょこと手伝ってくれた。

「ビール飲む?」

「あたしは飲むけど、のんちゃんはダメだよ」

「ふふ」

 のんちゃんは冷蔵庫からビールを取り出すと、一瞬だけ飲むまねをして渡した。あたしは笑ってお礼を言い、調味料をざっくり入れてから味を整える。缶に口をつけると少しだけ背中に汗を感じて、夏のキムチ鍋ほどビールに合うものはないと思う。換気装置が吸い込みきれなかった美味しそうな香りが部屋いっぱいに広がる。

 食器はリビングの真ん中のローテーブルに既に配置されていて、あたしはその真ん中に鍋を置いた。テレビをつけて、二人で「いただきまーす」と言ってにこにこ笑った。あたしたちは無害なクイズ番組をほとんど見ないで談笑する。のんちゃんはぜんぜん家から出ないので、結局いつもあたしの一週間を説明することになる。

「今日ここに来る途中に、電車で飴をもらったわ。きれいなおばあさんに」

「ほらー、やっぱり電車なんかに乗るの、藤沢さん以外はおばあちゃんぐらいだよ」

 のんちゃんは豆腐を崩さないように丁寧に口に運ぶ。

「何の話したの?」

「んー、ちょっとむずかしい話。リアリティがどうとか」とあたしは言って、詳細をごまかした。

 ちょうどテレビがコマーシャルに切り変わって、五十五インチの画面いっぱいに綾の歌声が流れた。あたしはタイミングの良さにぎくりとして、のんちゃんは懐かしそうに目を細めた。それはゲームで使われている新しい曲が、主要な音楽プラットフォームで配信されるというコマーシャルだった。

「綾だ」とのんちゃんがつぶやいて「変わってないわね」とあたしは言う。

「ゲームのキャラクターだから、変わらないのはあたりまえ」と、のんちゃんは笑った。

 食後のアイスは美味しかった。幸せそうに甘みがまだ残っている木製のスプーンを咥えていたのんちゃんが「さてさて、旅行サイトでも見ますか」と言ってコミュニケータを立ち上げた。

 いそいそと食器を下げる私の脚に、のんちゃんは「ありがとう、ごちそうさま」と言って短い時間きゅっと抱きついた。「危ないよ」と言いながら、あたしはくすくす笑って彼女を振りほどく。

 鍋の残りをコンロに置いて、シンクに汚れたお皿を重ねる。料理も洗い物も両方とも苦にならないと言ったときの、のんちゃんの信じられないものを見るような顔を思い出して、また笑った。

 とん、と通知が来て、コミュニケータが手首を叩いた。あたしはそれを無視して、鼻歌混じりに洗い終わったお皿を籠の上に重ねていく。幸せな記憶はあたしをどこか遠い天国っぽいところにすっ飛ばしていて、のんちゃんが間口のところにもたれてあたしを見ていることには、しばらく気づかなかった。

「藤沢さん」

「んー? いいとこ見つかった?」

「見つかってない」

 のんちゃんの声の固い調子に二言目で気づいて、あたしは振り向いた。のんちゃんは不安と怒りが入り交じったすごい顔をしてあたしを見つめていた。あたしは昔ののんちゃんを思い出し、悲しくなって「どうしたの」と聞く。

「通知一覧、見せてもらってもいい?」

「通知? うん」

 あたしは手をすすいで、タオルで拭いてから手首を振った。あたしのコミュニケータに対する通知の一覧があたしとのんちゃんの間に表示される。

 そして、その一番上に表示されている内容を見て、あたしはのんちゃんにゆっくり視線を移す。

「なんでなの」

 のんちゃんは笑う。うまく怒れなくて、目尻に涙が浮いているのに、笑っている。

「なんでまだやってるの、そのゲーム」

 一番上に表示されているのは先ほどコマーシャルでやっていた楽曲に関する内容で、件のアイドルゲームから通知されたものだった。

 のんちゃんが一歩踏み出して、通知画面は彼女に重ならないように横に逃げた。

「やめようって言ったよね」

 ぱしっと言う軽い音がして、はずみでシュシュが飛んだのか、視界にぱさりと茶色い髪の毛が広がる。

 あたしは緩慢な動きで顔を上げ、のんちゃんを見る。

「二人でやめようって決めたよね。もう二度とやらないって。あの暗くて広い公民館の部屋で、二人で」

 もう一度ぱしんと頬が鳴り、じんじんする痛みが遅れてやってきた。あたしは少しふらついて、片手で頬を抑え、もう片方の手でシンクの縁を掴んだ。

 のんちゃんの苦しげな笑顔は、キスがすぐにできるくらい近づいた。治療セミナーで最初にカウンセリングチームを組んだときの、悲しい顔が重なった。

「……なんで分かったの」

「セキュリティ系のツール作ってたって、言ったでしょ」

 のんちゃんは笑いを崩さずに言う。

「ネットワークをわざと弱くしてる状態で、間違えて起動しっぱなしにしてた。だから藤沢さんに来た通知の内容が、パッて表示されちゃった」

 顔を伏せて、あたしは一瞬だけ逃げる。

 役割を思い出す。

「……見て、藤沢さん」

 のんちゃんの声を聞いて、あたしはあたしに割り当てられた、あの公民館で与えられた、ゲーム依存症患者の治療セミナーで与えられた、その役割を思い出す。

「こっちを見て。なんで、約束を破ったのか、嘘をついたのか、教えて」

 あたしは正解を探す。

「……あたしは知ってる」

 なるべく明るく言おうとしたのに、地の底から這い出るかのような暗くしめった声が出てしまって、自分でびっくりした。

「あたしは知ってる」

 あたしはちょっとだけ明るい声で言い直して、通知欄をタップする。起動画面をスキップして、ゲームのアカウントを検索する。

 暗記している16桁の数値を入れる。

 のんちゃんが、たじろいだ。あたしは微笑んで「あたしの綾、レベル七だよ。二時間もあればいける」と言った。

「……なんで……」

「ときどき見てるの。のんちゃんの綾はずっとレベル二百五十のまま」

 のんちゃんのアカウントの詳細には、センターに据えているアイドルが表示されている。それは、黄金色に輝く高価なアイテムに身を包んだ、綾だった。

「消したって、嘘だったんだよね。あたしのこと、最初から信用してなかったんだよね」と、あたしは静かに言った。

 のんちゃんはあたしから逃げようとした。金属製のラックに背中が当たって、固く、派手な音がした。

「消そう」

 あたしはあたしの頬を打った彼女の手を取った。赤みがかった彼女の手のひらをあたしの手のひらで包み込んで、それを胸に抱いて近づいた。彼女の茶色い虹彩と、その奥の黒い淵をまっすぐにのぞき込んだ。

 のんちゃんの手のひらはあたしを殴った衝撃で、まだ熱かった。

「綾、消そう。今日、一緒に」

 ぎゅっと握って、もう一度言った。

 のんちゃんは震える手を、瞳を、あたしから隠すことが出来ずに、視線を外すことが出来ずに、あたしをじっと見ていた。

 あたしは微笑んで、彼女の手を離した。のんちゃんが「あ……」と小さな声で呻くのを無視して、冷凍庫から保冷剤を取り出した。洗面所へ向かう。

 タオルを取り出して保冷剤を包み、頬に当てた。仄かな冷たさが頬の火照りを癒やして、心地よかった。

 あたしはそのまま無表情なあたしをしばらく眺める。

 正解だ、とあたしは思う。正解を探すのだ、と思う。

 のんちゃんは、ベッドに横たわっている。あたらしくインストールし直したゲームをアカウントに紐付けて、ミュート状態で起動している。

 あたしは自分のゲームを立ち上げて、ほとんど何も迷わずにそれを消した。アカウントも同時に削除した。

 のんちゃんは画面をぼんやりと見つめている。あたしは彼女の手をもう一度取り、指を絡めた。短く、まっすぐな彼女の黒髪を、すう、とできる限りやさしく撫でた。

「藤沢さん」

 のんちゃんはあたしに腕を伸ばした。あたしもベッドに横になり、のんちゃんを守るようにその頭を胸に抱いた。シャンプーの強い香りがして、くらくらした。

「……藤沢さんが、綾の代わりに、なってくれるの」

 のんちゃんは消え入るような声で聞いた。あたしはしばらく黙って、のんちゃんの頭のてっぺんに唇をつけてから、熱い息を吐いた。そして「あたしは誰の代わりにもなれないわ」と言った。

 あたしがそう言うと、のんちゃんは強くあたしを抱き締めた。小さな泣き声が、すこしずつ大きくなって、寝室に満ちていった。のんちゃんはあたしのブラウスを長い時間をかけて涙でびしょびしょにしたあと、そっと身体を離し、震える手でインターフェースをゆっくり操作した。

 そして、もう一度一人で泣いてから、そっとアカウントを削除した。


 のんちゃんは持っていた大きなトートバッグを後部座席に放り込むと、助手席に座って勝手にステレオを操作した。最初の信号にたどり着く前にイギリスの歌手の曲を流し初めて、サングラスをダッシュボードの上に置く。デニム地のワンピースの短めな裾を少し直して「曇りで残念」と言う。

「のんちゃん外でどれくらい待ってたの? 暑くなかった?」

「蒸し暑かった。こないだのアイス、途中で買いたい」

「レモンの奴ね」あたしは笑った。

「コンビニで売ってると思う。もうちょっとしたら休憩代わりに寄ろう」

 のんちゃんもつられたように笑って、あたしは少しほっとした。

 外はひどい暑さなのに、車の中は涼しくて過ごしやすい。コンビニで買ったアイスをぴたぴた舐めながら「テクノロジーってさいこー。エアコンはかみさま」と、のんちゃんはのんきに言った。あたしは「まさしく」と同意して、二人で笑った。

 車はやがてハイウェイに入っていって、抑制されたスピードで走る。観光情報を調べながら、宿につく前に寄るところを二人で話しているときに、それは起きた。

 最初、それは静かなまぼろしだった。

 ふと気づくと、綾が私たちの車のボンネットの上に立って、笑みを浮かべてあたしを見つめていた。「お母さん」と言って、にこにこあたしを見た。彼女の全身は金色にきらめく高価そうな装飾品で満ちあふれていて、彼女がレベル二百五十の、のんちゃんがプロデュースしていた綾だと一目で分かった。

「見ていて」と、彼女は寂しげに言った。

「最後まで」

 ソロ曲のイントロが激しく車内に響いた。彼女はステップを踏み始める。薄いボンネットを踏みしめる音が合成される。ダン、ダン、という特別激しい音に合わせて、手を大きく円のように動かし歌い出した。あたしは何もかもが信じられなくてのんちゃんを見た。

 のんちゃんは、不思議そうな顔で動揺しているあたしを見返した。

 それでこれが、ボンネットの上で踊る綾が、あたしだけに見えている幻覚だと分かった。その直後、きゅうきゅうという騒々しい警告音が、あたしのコミュニケータから鳴った。

「なに? なんなの? あたしのは鳴ってない」と、のんちゃんは叫んだ。

 その音は地震発生時の緊急通知と同じ音を立てていて、あたしはそれが何なのかすぐに分かった。『運転中の場合は、車両を路肩に寄せて停止させてください』と言うその警告に従って、自動運転を切って車を減速させた。

「何が起きているかわかるの?」

「厚生労働省の緊急メンテ通知よ」

 あたしはボンネットの上で複雑なステップを二回連続で踏んだ綾を見て、思わず笑った。ノーミスだ。完璧なアイドルだ。バックコーラスと二重のユニゾンを、見事に歌い切る。なぜか、口の中いっぱいに甘いレモンの味が広がった。綾が頭を振ると、きらめく汗が砕け散ったダイヤモンドのように飛び散って、あまりの美しさにあたしは目を細めた。

「政府が管理してるロボットに対するメンテナンス通知。あたし、今、知覚系がおかしい。何か問題があったんだわ、テロかも」

「メンテナンスって……」

 あたしは車を停めてエンジンを切った。ステレオが切れる。

「藤沢さん、ロボットなの?」

「のんちゃん聞いて。メンテナンスの開始までは通知から五分しかないわ。もう三分を切った。あたしは今から身体機能を全部切る。不具合で暴走するとまずいから知覚系だけ残して物理的に落とすの」

「藤沢さん」

「それでも何かしら危険がある可能性は残るから、すぐに車の外へ——」

「藤沢さん!」

 のんちゃんは、あたしたちを追い越す他の車がごう、ごうとアスファルトを踏みしめる音だけを、しんとした車内にそれが響くのをきっと聞いていた。

 あたしにはそんな音は聞こえない。

 あたしは間奏で「見て!」と叫ぶ綾の声を聞いている。ボンネットを踏む音は今や刻まれるビートよりも激しく、早い。

 のんちゃんはあたしを睨みつける。激しい感情の渦が溢れて、何もかもを飲み込む洪水が押し寄せる音のように、低い声で話す。

「最初から嘘だったの」

「最初から嘘だった。あたしはのんちゃんを治療するために派遣されたケアロボット」

「……なんで、私を」

「のんちゃんの能力が高く、病気が社会性のものだったから、厚生労働省から実証実験の対象者として選ばれた。だから同じ依存症患者を装った」

「同意なしにそんなことができるわけない」

「保護者の同意は得られていたわ」

 のんちゃんは絶句した。「あの人の……」とだけ言って、顔を覆った。

 ぐ、と喉が鳴る音が、歌い上げられるメロディラインの向こう側で聞こえた。

 あたしは「あなたが成人したら、一切が明かされるはずだった。あるいは、あたしが穏便に消えてしまうか」と言った。

 のんちゃんの頬を手のひらで拭おうとして、はねのけられた。

「綾に似てるねって、私最初に言ったよね。きれいって褒めたよね」

 あたしは正解を探す。

「藤沢さんのすべてが嘘だったんだ。綾に似せて、作られたんだ」

 もう正解なんて、何の意味もないことが分かっているのに、探そうとしてしまう。

 ごめんねを言おうとして、微笑んだときに、あたしの身体機能は停止して視聴覚だけが残された。

 あたしが止まって、のんちゃんは激しく泣いた。子供のように目を覆って「ああ」と呻き、そのままダッシュボードに顔を押しつけた。折り畳まれた全身は、呼吸のために大きく喘いだ。

 しばらくしてから顔を上げると、彼女はしゃくり上げながらコミュニケータを操作して、ゲームをインストールした。レベル一の綾が、激しく歌い踊り狂う綾の隣に現れて、静かに笑顔を作った。

 雲の切れ目から陽光が漏れ出して、光量の調整が出来なくなったあたしの瞳はすぐにハレーションを起こした。まっしろな視界の隅で、レベル二百五十の綾が「見てよ!」と叫んだ。

 彼女の歌声は、全てを覆い尽くす轟音となっていた。

 のんちゃんが小さな声で何かをつぶやいた。

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