最終話「青空のナミダ」

 お姉ちゃんが夕凪に吹かれながら、俺を見つめている。

 俺は沈黙したまま、お姉ちゃんの言葉を待っていた。

 お姉ちゃん……。大好きで、好き過ぎて正直な告白もできなかった俺のお姉ちゃん。失敗してばかりで、遠く離れてしまったけれど、やっとの事で前に進めたと思う。さとみの力を借りて……、俺の妹のほんの少しの助言のおかげで……。

 そのお姉ちゃんが、俺の妹についての最後の言葉を口にした。

「さとみちゃんはね……。確かに愛していたんだと思うの、哲君の事」

「それは分かって……」

「ううん。違うの。私ね、自宅で生活していて、気付いたの。さとみちゃんの視線は、哲君を確かに愛しているさとみちゃんの視線は……、あの視線に似ているって事に」

 あの視線……。

 そうだ。誰かから、幼い頃から感じ続けていた温かな視線。

 さとみのあの視線と酷似した、誰かの視線。

 それは誰の?

 お姉ちゃんの視線?

 いや、違う。もっと違う、幼い頃から俺を見つめてくれた視線。

「誰の……視線に?」

 俺は呟いた。分かりかけてくる。曖昧なまま漠然としていた俺の想いを。感情を。

 そして、お姉ちゃんは答えた。真剣な視線で、俺から瞳を逸らさずに。

「お母さんに……だよ」

 何となく分かってはいたが、お姉ちゃんに言い直されるとやはり動揺を禁じえない。

 母さん……。小麦母さんではなく、俺とお姉ちゃんの本当の母親。親父と離婚した後には、さとみの葬式で見掛けただけで、会話も何もしていない母さん。今こそ会話すらできない状態だが、過去には俺たち姉弟を優しく穏やかに見守ってくれていた母さんだ。俺達の事を思って俺とお姉ちゃんを引き離してくれた母さん。

 さとみの視線は、その母さんの視線に酷似していたのだ。

 恋愛感情ではない。友達や他人に対する視線でもない。

 家族に対する優しく穏やかな視線。それこそがさとみの俺に対する視線だったのだ。

 瞬間、俺にはもう一つの事が、記憶から紐解かれた。

『愛している』という言葉の真意。

 真美や姉貴、性格の悪いクラスメイト、そしてお姉ちゃんとの事に囚われていて気付けなかった。何となくそうではないかと思えていたが、一度目の家族で失敗してしまった自分の事を信用できなかった。自分を信用できず、さとみの事をも疑ってしまっていた。

 つまり、さとみは初めから、これだけは本当の事を言っていたのだ。

 俺の事を家族として『愛している』と。

 そうだ。真美やさとみ、姉貴ではなく、俺の事を義理の姉妹を持っている羨ましい人間と思っているクラスメイトでもなく、実は俺の方こそ義理の家族というものに囚われてしまっていたのだ。

 さとみは初めから俺を家族として見てくれていた。

 それは演技から始まった事なのかもしれないけれど、確かにさとみは俺の事を兄として見るように振舞ってくれていたのだ。俺と同じく一度目の家族で失敗してしまって、二度目の家族では兄や姉妹を愛する次女として、そんな新しい自分を俺達の前でどうにか演技して、いつしかそれを真に身に付け、偽りなく俺達を愛せるようになりたかったのではないか。だから、まるで自分に言い聞かせるように、しつこく『愛している』と言ってくれたのではないだろうか。

 それに俺は気付けなかった。

 義理の姉妹だからといって、『愛している』の意味を取り違えていた。

 さとみの言葉をそのまま受け止めてやればよかったのに、義理だからといって邪推してしまっていた。『愛している』なんて言って俺を辟易とさせようとしているのではないか。そう思えてしまって、さとみの言動の裏にある事にまで思いが寄らなかった。

 全てはお姉ちゃんや姉妹達との事ばかり悩んでいたために。

 自分の事ばかり、考えてしまっていたために……。

 傍に居て必死に頑張ってくれていた、さとみの事を無視してしまったのだ。見えていたのに、見ない振りをすることしかできなかったのだ。何となく分かっていたくせに、それでも自信がなくて自分どころか他人の気持ちをも否定してしまって……。

 きっと、そうなのだ。自信が無い人間は別に自信など無くて構わないのだが、それでも自分に自信が無い事で誰かの事を否定してしまっているというかもしれないという事実から眼を背けてはならないのだろう。自分に自信が持てないせいで、大切な誰かの想いに気付けない事もきっとあるのだ。自分を否定するという事は、自分の傍に居る誰かをも否定してしまうという事なのだ。

 俺はそれを理解できず、さとみの想いを正直に見てやれなかった。

 何をやっていたのだろうと、俺は足から力が抜けていくのを感じた。俺の傍には俺よりもずっと努力している人間がいたのに、何故気付けなかったのだろうと自分自身の愚鈍さを責めたくなる。どうしてこんなにも俺は駄目な人間なのだろう……。

 さとみに謝りたかった。そして、感謝したかった。

 もう一度逢って、さとみと話がしたい。

 話してどうなる事でもないかもしれないが、それでもさとみと話したかった。

 ごめんなさい。そして、ありがとう、と。

 もう一度だけでいいから、逢って会話をしたくてたまらなかった。

 でなければ、俺ではなくさとみのして来た事が悲しい出来事となってしまうからだ。

 俺が悲しいのは構わない。俺の悲しさはいずれどうにか消し去ることができるだろう。

 それでも、さとみが悲しんでしまう事には、どうしても堪えられなかった。

 俺が気付いてやれなかったせいで、俺が自分に自信を持てなかったせいで、さとみはどれほどの痛みを感じていたことだろう。なりたい自分になろうと努力して、演技をしながらなりたい自分に近づいていって、その前に力尽きてしまった事がどれほど無念な事だろう。悲しかった。そんなさとみがどうしようもなく悲しかった。

 だから、逢いたい。逢って、話がしたい。話をして、さとみの事をもっと知りたい。

 勿論、そんな事などできはしない。

 さとみは死んでしまったのだから。

『死』とは、分かり合えるかもしれないという可能性の消失なのだから……。

 呆然として、俺は夕焼けの空を見上げた。

 今は赤いが、空は直に暗くなる。そして、青くなり、白く変化していく事もある。

 もう、そんな他愛の無い事をさとみと一緒に体験すらできないのだ、永久に。

 またも胸が締め付けられる感覚が俺を襲う。

 しかし、その感覚はこれまでの痛みとは少し異なっていた。何が違うのかははっきりと理解できないが、鋭く痛く締め付けられるというよりは、軽く握り締められてしまったような淡い感覚。そんな淡い感覚なのに、何故か俺にはそれが胸を突かれるような痛みよりも遥かに辛く感じてしまっていた。真綿で首を絞められるような、そんな苦しみだ。

 気が付けば俺の眼前がぼやけてしまっていた。

 さとみの眼鏡を掛けたからじゃない。

 俺の瞳から、涙が零れ落ちていたからだ。

「あ……、あれ……?」

 思わず呟く。

 泣き出してしまったという感覚は無かった。

 堪える隙もなく、何の前触れもなく、唐突に俺の瞳から涙が流れ続けている。

 引きこもっていた時も、高橋さんと離れてしまった時も、真美を傷つけてしまった時も、半田さんに責められてしまった時も、どんな時も俺はどうにか泣くのを堪えられたというのに、この涙だけはどうしようもなかった。我慢するとかしないとかそういう問題じゃなく、自分の意思など全く無視して涙が溢れ続けていく。

 もう……、堪えられない。

 俺は恐らく、子供の頃以来の大声でしゃくり上げていた。

 どんなにしゃくり上げても涙が止まらず、その場に座り込んで大声で泣いた。

 お姉ちゃんは何も言わず、しゃがみ込んで俺の肩を優しく抱いてくれている。

 それでも、涙は止まらない。止まれるはずも無い。

 涙は尽きず、止まらず……。

 夢幻の如き現実が終わり、はっきりとした現実が戻ってくる感じがした。

 これは夢ではない。何処までも現実でしかなく、さとみとは二度と会えないのだと。

 さとみが亡くなって初めて、さとみの死をはっきりと実感できたような気がした。

 俺の家族の……、俺の大切な妹の死を……。




 ようやくの事で涙が涸れた時、空は既に真っ暗な闇に覆われていた。

 何処にそれほどの悲しみが蓄積されていたのかと、不思議に思えるほどだった。

 自宅に送ってくれるというお姉ちゃんの言葉を断り、俺は一人で家路を歩いていく。

 歩きながら、お姉ちゃんの最後の言葉を思い出していた。

 別れる際、俺が泣いている時にずっと傍にいてくれたお姉ちゃんはこう言った。

「さとみちゃんが亡くなった悲しさ……。その悲しさを忘れてとは言わない。忘れないでとも言えない。だけど、今は大切にして欲しいの。その想いを……。さとみちゃんの事で泣く事ができた自分を……」

 お姉ちゃんの言葉の意味するところは分からなかった。

 ただ何となく理解できたような気がしただけで、俺は頷く事しかできなかった。

 だから、これからもその言葉の意味を考え続けるのだと思う。

 そして、俺はさとみと出会えて、失って、どうなっていくのかも考えるのだと思う。

 悪い頭の自分だけれど、結局俺にできる事は考えて行動する事だけなのだから。

 家路を歩く。

 歩きながら考える。

 さとみの事、お姉ちゃんの事、家族の事、色んな事を……。

 きっと俺はこれからも迷い、悩み続けるのだろうと思う。

 俺の周囲の事態は何も解決していないし、何も上昇していない。

 俺が次に好きになれる人がいるのかどうかも分からないし、実の母さんとも断絶状態のままだ。姉貴や真美と前のように仲良くなれるかも微妙なところで、さとみの死の痛みを深く感じ始めるのはもっと先の事だろう。俺に何ができるのかも分からなくて、何もできないままに力尽きて生涯を終えてしまうのかもしれない。

 不安で、何も分からず、漠然としている広大な未来が俺の前に広がっている。

 けれど、思った。

 それでもさとみはあんなにも頑張っていたのだと。

 それでもさとみは俺の事を兄として愛そうとしてくれていたのだと。

 何故、さとみが俺の事を家族として認めてくれたのかは分からない。

 予想はできるが、真実とは異なっているかもしれない。

 ただ思うのは、恐らくさとみはあの春の日に家族を護ろうと決心したのではないかという事だ。真美が騒動に巻き込まれ、俺がどうにか救出することができたあの日。あの日、俺が家族を護ることを決心したように、さとみも家族を護り、俺を家族として愛していこうと決心してくれたのではないだろうかと。勿論、それは俺の勝手な想像だけれども。

 だが、真実はどうであれ、俺は生きていかねばならない。

 さとみがそうしていたように。二度目の家族を護ろうと尽力していたように。

 それが俺のさとみにしてやれる唯一の事だし、自分の為にできる事なのだと思うから。

 だから、俺は歩く。

 自分の馬鹿さ加減に呆れながらも、犯す失敗を反省しながらも歩いていける。

 さとみの居ない世界でも、その事から決して目を逸らさないように。

 俺はさとみと出会えて、確かに幸福だったのだと思えるために。

 自宅に戻ると、普段よりも一足靴が多く脱ぎ捨てられていた。誰だろうと思いながら居間に行くと、親父、母さん、真美の他に姉貴が座っていた。夏休みに一人で過ごすのにも飽きて、何となく自宅に帰ってきたのだろう。

 家族の顔を見て、俺はまた一つ思った。

 これから俺達家族がどうなるかは誰にも分からない。また突然に誰かが失われてしまうかもしれないし、いつまで家族でいられるかも分からない。未来の事は誰にも分からないし、自分だけではどうしようもない出来事も多く発生するだろう。

 それでも、理由や経緯はどうあれ、家族になった俺達が変わらず家族であるために。

 今度こそ、そのために俺はこれからも生きていくのだろうと思う。

 家族の連中は泣き腫らした俺の顔を見て驚いたような顔をしていたが、俺はそれを隠さずに苦笑しながら言った。家に帰宅した時、家族に向かって言うべき言葉を。これからも家族全員に言い続けたい言葉を。

 つまり、『ただいま』と俺の家族に向けて。

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星と風と翼と愛と、秋と真 猫柳蝉丸 @necosemimaru

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