第2話 見えない傷1

 お父様が私にいつから虐待をしていたのかを鮮明に覚えている。お父様が亡くなる年の初夏、夏の気配が濃くなり始めた頃からやり始めた。

 けれどお父様がいつ虐待をやめたのか、お父様の亡くなった時のことは覚えていない。今までいくら思い出そうとしても、私の記憶は霞がかかったように思い出せなかった。

 失われた記憶の中にとても大切な何かがある。そう思いだしたのは、お父様が亡くなってからしばらく経った頃、保育園の教室の窓際で、一人ぼんやりとみんなが元気に遊び回っているのを見たときだ。私はなぜみんなが笑うのか、何が楽しいのか分からず、彼らの行動が異様だと思った。けれどその異様さは間違いで、私の方が異様だと気づくのにはそう時間はかからなかった。

 ある日、転入生が私の組にやってきた。髪の短い活発で明るい女の子だったのを覚えている。彼女はすぐに周りの子とも打ち解けて、持ち前の明るさでみんなの人気者になった。

 それから間もなく、同じ組にいながらいつも一人でぼんやりしている私に、「遊ぼうよ」と彼女は声をかけた。断る理由もなかったので私は彼女と遊ぶことにした。鬼ごっこ、かくれんぼ、砂遊び、色々遊んだけれど、どの遊びも私にはどうでもいいものに思えた。

 遊んでいる最中、転入生は私の方にやってきた。

「小夜ちゃんはどうして笑わないの?」

「何が面白いのか分からないから」

 転入生は口をすぼめながら「変なの」と、呟いて私の前から消えていった。

 私はその時、初めて自分が変な子なのだと知った。普通の子は遊んで楽しかったら笑う。それは自然なことで、それができないことは変なのだと。

 彼女からしたら何気ない言葉に違いないけれど、その言葉は深く私の中で響いた。

 笑えないことに対しておかしいと彼女は言ったけれど、私の「変」はそういうところではなかった。

 保育園の体育の時間に跳び箱をやったとき、うまく跳ぶことはできたが着地に失敗して顔からマットに転んだことがあった。

 勢いのせいもあり顔や手にスリキズができたけれど私は泣かなかった。それは大して痛くなかったからではなく、感覚としての痛みはあるのに現実味がなかったからだ。まるで怪我したこの体が別の誰かのものであるように感じられた。

 それからも時折そういうことがあるたびに感覚として刺激があるだけで、意識ある私として、現実感がないことを否応なく突き付けられた。

 生きるということに実感がないこと、それが私の「変」だ。実際に私の目の前で何が起きようとテレビの中の出来事のように、遠くのできごとに感じる。だから楽しくもないし、何をしたって笑わない。

 自分の「変」を自覚すると同時にその先の疑問、私は何故変なのだろうか、と思うようになった。

 お母さんが私を生むのと同時に死んだこと、お父様に虐待をされたこと、お父様が亡くなられたこと、母方の叔母の陽輝あきさんと二人で暮らしていること、ほかの子と比べると変わっているところはたくさんあった。けれども、お父様の虐待、あの水浴びが私の心を固く閉ざさせたに違いないという確信めいたものがあった。お父様が私の頭を水に沈めたとき、私の中の何か大切なものも一緒に失われてしまったのではないのか、そう思った。

 だから私は時よりお父様とのことを思い出して、自分のあの頃の気持ちを思い出そうとした。何度も何度も繰り返し思い出すうちに正確に虐待を思い出せるようにはなった。けれども周りの音やお父様の表情、自分の感覚しか思い出せず、肝心な自分の感情は一向に思い出せなかった。

 暇さえあればお父様の虐待を思い出すのが癖になり始めた頃、私はすでにある考えに囚われていた。もしお父様の真意を知ることができたのならこの苦しみから解放されるかもしれない。私の命の実感を奪ったお父様の心さえ理解できれば自分の心も取り戻せるのかもしれないと、中学生に上がったくらいで考えるようになった。

 そんな折に、同じクラス内でイジメがあった。内容は女子グループのリーダー格の子が同じグループの女の子を無視したり、暴言を吐いたりとごくごくありきたりなものだった。

 私はそのイジメを知ってから主犯格の子の動機について調べた。イジメと言う行為の暴力性を理解している上で、それを行う彼女の理由を知れればお父様の答えも分かると思って。

 クラスの女の子に聞いたらすぐ動機は分かった。主犯格の女の子の好きだった人にイジメられていた子が告白して付き合い始めたのが、ことの始まりだったようだ。

 嫉妬、彼女はそれが原因で他人を傷つけていた。小さな話だけれど他人を嫌い、意地悪をするなんてことにそんなに大きな理由はいらないのかも知れない。ただ、ほんの少しの怒りと力があれば、あとは行動に移すだけで済むのだから。

 けれども、お父様の行為は怒りが含まれていなかったように思えてならなかった。私に見せていたあの笑顔は嘘や狂気などはなく、お父様の行いには明確な愛があった。

 怒りなき暴力、愛ある暴力とはねじ曲がった自我が原因で起きたことなのだろうか。

 私には分からない。でも、私はきっと怒りなき暴力性を秘めている人に会わなくてはならないのだと思う。そうすれば何かが分かる気がする。

 幼い時分から中学生に至るまで虐待の記憶に囚われ続けた私だったが、進歩はあったものの結局答えにたどり着かなかった。ただ一つ得られたものがあるとするなら、人間観察や虐待の回想によって他人が何を感じているのかを推察する力だけだ。

 どこまで答えに近づいているのか、あるいは遠ざかっているのかも分からない。中学生の時点ではまだ分からなかった。でも高校生になれば答えに辿りつけるのかもしれない。曖昧で不確かな予感めいたものを抱いて、私は眠りについた。

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