そこから見上げて
松吉なぎ
第1話 プロローグ
真夏の夜の締めつけてくるような蒸し暑さのこもる中、私は長い間膝を抱えて息を潜めていた。
私の家は元々アパートだったものを一軒家に改築して一階は蕎麦屋として貸し出し、二階は私達家族が住むように改築されていた。二階にはアパートの名残で細い廊下が奥まで続いていた。右側は手前にバスルーム、続いて部屋が三つほど並び、左側の壁はトタンでできていた。各部屋には流し台があり、私は流し台下の何も入っていない棚に隠れて体育座りをしながら息を殺していた。
接している排水管のパイプのせいで背中は痺れ、籠った熱は私から絞りとるように汗を流させ、赤と白のチェック柄のワンピースがぴったりと肌に張りついている。
もちろん、私はこんなところに好き好んで隠れるような変わった女の子ではなかった。ただ、お父様とのお風呂が始まるまでは家の何処かに隠れるというのがいつしか定例になり、その日はここに隠れていた。
おかしな話だけれどじっと待っていると時間の感覚は長く感じず、時が経つごとに短くなっていった。それはきっと背中の痺れや暑さといった苦痛、そして目が暗闇に慣れる事により様々な刺激を感受できるようになるからだろう。人にとって何よりも耐えがたい苦痛とは無に満たされることなのかもしれない。
突然風呂場から聞こえたお父様の声によって、刺激がさらに増えた。お父様の声は木造の家によく響くけれど私の元に届く頃にはすでに意味ある言葉ではなく、ただの音として届けられた。いつも通りなら、「風呂の水溜まったよ」と言っているに違いない。そこから私とお父様のかくれんぼが始まる。
足音は私の部屋に近づいてきたがすぐに止まって風呂場から一番近い部屋に入ったようだった。入ってからの音はなく、その静けさがかえって私の体をこわばらせていた。
数分した後にドアの開閉の音が聞こえ足音はこちらの方に近づき、また途中で止まって再びドアの音が聞こえる。お父様は今いる部屋の隣の部屋に入ったらしく、先ほどよりも足音は大きく聞こえ、それに伴って心臓の鼓動も大きくなる。
先ほどの沈黙に代わって畳の
また数分するとドアの音が聞こえる。お父様の足音はどんどん近づき私の部屋のドアが勢いよく開かれる。お父様はさっきと同じように、落ち着いて部屋の中を歩いてきた。畳を踏む度に鈍い音が地面を伝わり、流し台の下まで聞こえてくる。足は迷うことなく私の方まで近づいてきて、心臓はさっきよりも早く強く波打ち鼓動で家が揺れているように感じた。
お父様の力強い足音は私の前で止まった。私は身構えるが直ぐに戸が開くことはなく、代わりに水道の蛇口がひねられ水が流し台に当たる音とパイプを流れる水の音が、私の居場所は知られていると告げていた。
お父様はこういう興奮が伴う行動をするとき、いつも決まってもったいぶった。知りようがないけれど、見つけた時に起こる興奮が時間と共に空虚で味気ない感情に変わるのを嫌い、焦れったい感覚を味わうのが好きだったのだろうか。あるいは、不安になる私の姿を想像して興奮していたのだろうか。
水はしばらく流れ続けて、時よりお父様の笑い声が上の方から聞こえてきた。その声はよく通って爽やかだった。
お父様は遂に満足したのか蛇口を止めた。水滴がポタポタ落ちる音が秒読みのように響き、お父様の息づかいが扉一つ挟んで聞こえた。
ギィーと言う音と共に光が私の目を刺激し、思わず目を細めた。ゆっくりと目を開けると、お父様の顔がすぐ近くにあった。柑橘系の香水の匂いを漂わせて、肌は白く目は切れ長だけど純朴さがある。眉は細く鼻筋は通っていて唇は厚い。そのなかで私が受け継いだものは、何もなかった。
「みいつけた」
お父様は私を流しの下から出しながら邪気のない笑顔を見せる。
「どうして場所が分かったの?」
私が尋ねると、
「ワンピースの裾が扉から出ていたからだよ」
お父様は鬼の首を取ったように誇らしげな顔をして答えた。
「
骨のように細くて白い腕で抱きしめて、語りかけるお父様の声には、愛情以外のどの感情も含まれているようには見えなかった。
「お風呂?」
「うん、お風呂だよ」
お父様は私を抱きしめていた腕を解き、抱きかかえてお風呂場まで運ぶ。お父様は細い廊下に私の体が擦らないように注意深く歩いていく。
道すがら、お父様は肩を震わせた。お父様は音もなく笑うことがあり、代わりにただ肩を震わせるのが習慣だった。
脱衣所まで行くとお父様は私を降ろして服を脱がせようと手をかける。五歳の私は自分でできるにも関わらずお父様の行動を受け入れていた。
私の服を脱がし終えると、着衣のままでお父様は風呂場に入り、浴槽に私を入れる。浴槽に張られた水はいつも通りに冷たく、夏でなければ凍えていただろう。
お父様はいつも通りによどみなく私の頭を掴んで、水に沈めた。何も言わずに、その細い腕からは想像のつかないような力強さで上から押さえつけられた。私の体は空気を求めてそこから逃れようとするが、かえって水を大量に飲む羽目になり、小さな女の子のお腹は水でいっぱいになった。
永遠にも思える時間の中、もがきながら終わるのを待っていると次第に鼓動は早くなり、全力疾走したときよりも脈が上がった。強くなる鼓動が体全体に強く響いているのがどこか遠くに感じ、次第に意識は曖昧なものになっていった。
お父様は頃合いと判断して私の頭を上げた。私の肺は空気を吸おうとしつつもかえって噎せ返ってしまい、しばらくは水の中と大して変わらず溺れているような状態が続いた。ややあって、咳が止まり呼吸も落ち着いた頃にお父様は何も言わずに再び私の頭を掴んで水に沈めた。
人生で最も過酷な苦痛を与えられては、しばらくの解放が与えられた。何度も何度も上げては下げ、上げては下げが繰り返されて時より水を吐くこともあった。
けれど、お父様はいつだって程々を心得ていた。どこまでやれば私が駄目になるかを正確に理解していた。
お父様は最後に私の頭を上げると、私の方を見下げながら頭を撫でる。私はお父様を見ながら呼吸を整えようと必死になった。風呂場のオレンジがかった照明がお父様の顔を影で隠していた。
「よく頑張ったね小夜、僕は嬉しいよ」
と言いながら、一仕事を終えたといったような達成感に満たされた顔をして、バスタオルで私の体を拭いた。さっきの絶対的な力でねじ伏せていた時とは対照的に、体を撫でるように優しく拭いていった。この優しさは私を手なづけさせる役割を果たしていたに違いなかった。この優しさがあるから、私を愛しているのだと、お父様に悪意なんてこれっぽっちもないと。
「また明日もやろうね」
私を拭き終えたお父様は優しく微笑んだ。その顔を私はぼんやりと眺めているばかりであった。
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