こわれて、きえた

 ふわりと、透明な球体が空に浮かぶ。

「あっ飛――――!」


 ぱちんっ


 少女がまだ言い終わらないうちに、石鹸の香りのする飛沫しぶきが正宗の鼻先にかかった。その球体が放つ輝きの終わりはいつも、驚くほどあっけなかった。

「あー!すぐに割れちゃうー!」

 右手にストローを握りしめ、少女は悔しげに足をバタつかせた。これで三度目だった。石鹸の粉末から作ったシャボン液は、ふくらませるにも飛ばすにもコツがいる。食器用洗剤などを使えば格段に難易度が下がるのだが、あえて石鹸をシャボン液に用いたのは、少女たっての希望があったからだ。

「いや、飛ばせるだけすごいよ」

 力無く笑いながら、正宗は次の液を補充した。小さな容器の内側に、切り開いたストローの端があたりジャコジャコと音を立てた。深呼吸をして、吹き込み口をくわえる。


 ふ─────────…


 慎重に息をおくるが、きゅうを形作る途中でしだいに下のほうに液溜えきだまりができていく。最後はきまってストローの先で、ぱちんとシャボン玉が割れてしまった。下準備の手際の良さから一転し、正宗はいまだシャボン玉を飛ばせてすらいなかった。

 隣から正宗を覗きこむ気配がした。ふざけて教えをうてみる。

「師匠、わたしの腕前はいかがでしょう」

 正宗のおふざけに反して、少女は真剣な顔つきで言葉を選んでいるようだった。

「うーん…しいて言うなら……シャボン玉をそっと膨らませすぎなんじゃない…かな? 案外あんがい怖がらずにやってみたほうが上手くいくよ」

 少女はそう言ったあと、「ほら、」と口元にストローを運んでみせた。長いまつ毛に飾られた目を細め、ふぅ、と呼気こきをシャボン玉に吹き込んでいく。丁寧に、けれども慎重になり過ぎずに。透き通った薄い膜は表面に虹色の渦を描きながら、球の形をかたどっていった。

 シャボン玉が手のひらほどのサイズになると、少女は仕上げと言わんばかりにストローの先をくるりと回した。


 空を飛ぶ泡沫ほうまつは、一瞬、ふわりと浮いて。

 生まれてすぐに、こわれて、消えた。


 儚い残滓ざんしは、またたく間に夏の日差しの中へと溶けていった。

「でもやっぱりすぐにはじけちゃうね」

「まぁこれも、シャボン玉の醍醐味のひとつだろうし」

 それはそれとして。

 正宗は、別の話題を持ち出した。

「そろそろコレがお待ちかねだ」

 言葉を続けながらストローの先をシャボン液の容器におさめ、そのままベンチの脚元に置く。両手が空くと正宗は、パン、と軽く手を打ち鳴らした。正宗が向けた視線の先には、木桶の中で冷え切った瓶ジュースが横たわっている。

「なんだかんだで開けるタイミングのがしてたからさ。……ぉわッつめたッ!」

 桶の中に差し込んだ手で氷水こおりみずをかき混ぜると、指先から痺れるような冷気が這い上がってきた。波立った水は陽光を乱反射させ、まばゆい光を水面みなもにまたたかせる。氷のぶつかり合う音が、カロン、と響いた。

 正宗は木桶から二本の瓶を引きあげ、顔の左右に掲げて少女に見せた。片方は空色をたたえたソーダ水、もう一方はオレンジ色のラムネだった。

「……ッと、あー……お嬢さんは、どっちにしますか?」

 そう口に出してから、正宗は自分が少女の名前を知らないことに気がついた。

 そうだ。

 少女も自分も。

 互いの名前に関しては一切触れなかった。

 まるで改めて尋ねる必要もない、話題のひとつのように。

 もしくは。

 触れてはならない、なにかの禁忌のように。

「んーと…、水色のほう! 希望がかぶってたら、ジャンケンで決めよっか!」

 げんに少女は、『お嬢さん』という呼称を気にするそぶりもなく、ジュースの話題に集中していた。

「―――…ああ、俺はこっちのラムネで大丈夫。はいどうぞ」

「…?」

 正宗の声色に芳しくない雰囲気を感じ取ったのか、少女は一瞬、怪訝けげんな表情を浮かべた。しかし何かを尋ねることもなく、正宗から差し出された瓶を両手で受け取る。

 正宗も気づかぬフリをして話を続けた。

 一度触れてしまえば、シャボン玉のように崩れ去ってしまうなにかが、すぐ目の前にあるような気がした。

「ソーダ水のほうは栓抜きがいるから、お店の人に訊いてみようか。たぶん置いてあるし、貸してくれるよ」

「うん」


「」


 打ち水のように沈黙が広がったあと、

「「――――、」」

 どちらからともなく、ふたりは視線を上げていた。

 交差した瞳の先には、お互いの顔が映っている。

 気がつかないうちに身を乗り出していたのだろうか。

 相手との距離は、思っていた以上に近かった。

 正宗と少女は、無言で距離を取った。


 どこかでニィニィゼミが鳴いていた。


「ちょっとお店の中みてくるね」

 ふと、ベンチから少女が立ち上がった。正宗の目に映っていた少女の顔がたちまち見えなくなる。耳が拾う少女の声音は、いつもの調子となんら変わらない、ごく明るいものだった。

 立ち上がる少女の動きに合わせ、スカートのプリーツがふんわりと揺らぐ。色褪いろあせたベンチの座面でくしゃりと歪められていたそれは、ゆるやかに空気を含んだあと、綺麗な直線のシルエットへとまとまっていった。均整のとれた折りジワの下から伸びる、すらりとした少女の足が夏の午後を駆けていく。その一連の躍動に、正宗の目は惹きつけられた。


 綺麗だった。

 その姿形以上に、在りざまそのものが。

 なにひとつ疵瑕しがのない白い四肢が、陽の光の中を歩んでいく光景。

 それが例えようもなく得難えがたいもののようで。


 パタパタと小走りに少女が駄菓子屋の奥へと姿を消したあと、正宗は深く息を吐き出した。

「……なんだよ、コレ。」

 泣きだしそうだった。どうしようもなく声が震えて、鼻の奥が痛い。息を吸うと、訳もなく目頭が熱くなった。胸が強く締めつけられ、思わずシャツの襟もとを握りこむ。


「…なんで、」

 悲しい、

 かなしいのだ。

 理由も分からず。

 知るよしもなく。


 瞬きをすると、熱のこもった雫が頬を伝っていくのが分かった。一度ひとたび流れ落ちてしまえば、もう止まる術はない。ひとつ、またひとつと目からこぼれ落ちていく。

「─────ッ、…ッ」

 喉から漏れだす引きった吐息が、正宗の鼓膜を揺らした。堪えきれなかった。思わず右手で顔を覆う。

「…────ァ、……アァ…ァ──…ッ、」

 言葉にならない感情の発露が、正宗の手の内にこぼれていった。呼吸の仕方がわからなくなる。


 俺は、

 ずっと、

 あの日の■に────

 ─────…【君】に。


 不意になにかが、正宗の思考をかき混ぜた。

 混濁する意識に、乱雑な記憶の断片が際限なく流れこんでくる。歪んだ懐古の一端がチカチカと明滅しながら現れては消えていく。過去をかたどった残像は割れたガラスの破片のように、鋭い切先きっさきを正宗へと突き立てた。


 揺れる提灯。

 お囃子はやしの音。

 雑踏。

 行き交う喧騒。

 だれかとの口論。

 苛立ちにまかせ、力加減もなく何かを掴んだ自分の手。

 乱暴に掴みとったそれは、ひどく華奢な手応えを■■に返した。

 白くほっそりとした、腕。

 柔らかな女の素手だった。 

 少女の四肢に、よく似た。

 ■■の頭のどこかで、たがの外れる音がした。


 ─────情景が切り変わる。


「俺が」

「俺が、■した」

 生まれて初めて。

 心の底から人を■そうと思った。

 床に広がった赤黒い血溜ちだまり。

 視線の先で倒れ伏す人間。

 言葉とも認識できない周囲の怒号。

 羽交締はがいじめにされた自分の体。

『嘘だろ⁈ なんで…ッ⁈』

 詰るような気色けしきをはらんだ友人の声。

 たがなぞとうに外れている。

 正気なぞとうに振り切れている。

「離せェ゛ッ‼︎」

 吠えるように叫んだ、その直後。

 顎の先に衝撃と激痛が走った。

 脳の芯を強く揺さぶられ、意識が闇に落ちていく。


 これは。

 いつだっけ。

 誰だっけ。

 は、は。

 ほんとうは。

 誰なんだっけ。



 最後に浮かび上がった光景は、うす暗い部屋のドアノブに革ベルトを掛けようとする正宗自身の手だった。次の瞬間、黒一色に染まる視界を残し、記憶の欠片は――――――――無意識の底に、深く沈んでいった。

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